改革派神学研修所 2023年第1学期 夜間聖書教室「旧約聖書続編を学ぶ」①
序.旧約聖書続編について
旧約聖書の民イスラエルは古くから語り伝えられた神の言葉を聖なる巻物に書き残し、そこから学び続けることで「神の民」であろうと努めました。書き記された巻物は多数に及び、最終的に旧約正典へと結集されたものの数は全部で39巻(ユダヤ教では24巻と数える)になります。そうして伝承された旧約の聖なる書物はやがて二つの相異なる信仰共同体へとそれぞれ別個に受け継がれることになります。ヘブライ語による聖書を継承したのはユダヤ教、ギリシア語に翻訳された聖書はキリスト教へ渡されました。
紀元70年にローマによってエルサレム神殿を破壊されたユダヤ人たちの共同体は、数々の分派を統廃合して再起を図ることを余儀なくされます。そこで壊滅を生き延びたファリサイ派のラビたちがパレスチナに学舎を建て、新たなラビ・ユダヤ教がスタートします(紀元1世紀末)。その時、ラビたちは共同体の結束に向かうため「聖書に垣根を設ける」ことを重視し、収集された聖なる書物のリストを作成して全24巻と定めました。
他方、イエス・キリストの弟子となったユダヤ人たちはファリサイ派に与せず、受け継いだ聖書の巻物をアラム語(シリア語)やギリシア語の翻訳で異邦人世界に広げました[1]。ギリシア語の翻訳(いわゆる七十人訳)については紀元前3世紀頃からヘレニズム世界に住むユダヤ人たちによって用いられていましたが、キリスト教会はそれに新約聖書を加えてラビ・ユダヤ教とは異なる聖書の正典をもつようになりました。
七十人訳聖書に基づいてユダヤ教よりも多くの聖なる書物を保有することになったキリスト教会では、ユダヤ教及び異端的流派とのせめぎ合いによって独自のキリスト教正典を形成するようになりますが、旧約聖書にはヘブライ語正典には含まれない幾らかの書物が見られました。ユダヤ教徒たちはそれらを「外典」と呼んで正典から厳しく排除しましたが、未だローマ世界にあって統一されていないキリスト教会では、それらを「外典」として排除する動きは現れて来ず、教会教父たちの間でも主張に食い違いが見られました。4世紀になるとヘブライ語に通じた教父ヒエロニムスが登場し、旧約聖書はユダヤ教のヘブライ語正典に準拠するとの指針を打ち出しました。他方、アウグスティヌスは諸教会で用いられている聖書を最大限生かす方針を取り、ギリシア語からラテン語に翻訳された幾つかのユダヤ教外典をも含むキリスト教正典を主張しました。
キリスト教会ではそれぞれ東西に分裂した後、ローマ・カトリック教会もギリシア正教会も基本的にはアウグスティヌスの主張した線に基づく幅広い旧約正典を保持して来ました。ルネッサンスの人文主義の影響を受けてキリスト教会内で原典への関心が高まると、ルターの宗教改革から起こった教義論争によって旧約正典の見直しがなされ、かつてヒエロニムスが主張したヘブライ語正典への回帰が進められました。そこでプロテスタント教会はローマ・カトリック教会からの分離を図ると同時に、ユダヤ教のヘブライ語正典に含まれない書物を「外典」として区別して扱うようになりました。これに対抗してカトリック教会はラテン語ウルガタ聖書に含まれるすべての書物を正典とする立場を明確にし、プロテスタント教会からは「外典(アポクリファ)」とされた書物を「第二正典」と区別しながらも擁護しました。その後のプロテスタント教会では各地で打ち出された信仰告白文書(信条)の上で外典は聖書に含まない立場を表明して行きますが、各書物の一覧を記載して全66巻からなる旧新両約聖書の正典をはっきりと規定したのは17世紀の英国で出された『ウェストミンスター信仰告白』でした。こうして宗教改革によって外典を切り離したプロテスタント教会でしたが、これが全く顧慮されなくなるのは19世紀に流布した外典を含まない印刷聖書の普及によります。
20世紀に入ってカトリックとプロテスタントの共同翻訳による聖書をつくろうとの動きが活発になり、1987年に『新共同訳』が日本聖書協会から発行されました。その際、『新共同訳続編付き』が同時に発行され、プロテスタント教会では見ることのなかった「旧約外典」が「続編」として翻訳されました。この「続編」の登場はプロテスタント側から言えば、宗教改革時代の聖書の形を復元する試みです。上述のように、ルターは外典を認めなかったものの、彼がドイツ語に翻訳した聖書にはそれを「アポクリファ」として巻末に掲載することを躊躇いませんでした。聖公会でも、『ウェストミンスター信仰告白』でも、それらを伝統的な教会文書と認める点では共通した態度を保っていました。この点を見直して外典を教会の遺産として取り戻すと同時に、カトリックとプロテスタントのエキュメニカルな対話に用いられるように「続編付き」が生まれました。
尚、「続編」にはカトリック正典(ラテン語ウルガタ訳)で付録として収められている、正典には属さない三つの文書も含まれています(マナセの祈り、ギリシア語エズラ記、ラテン語エズラ記)。これから各書の概説を進めるにあたっては、書物の歴史的背景とあらすじを主に紹介しながら、旧約・新約正典に関係する主題を取り上げたいと思います。「続編」を学ぶことによって旧約・新約正典に対するより深い理解を持つことができれば幸いです。
1.トビト記
ヘレニズム時代のユダヤ文学
『トビト記』は紀元前2世紀の初め頃に離散ユダヤ人の手によってヘブライ語で記された物語です。歴史を記すような趣もありますが、記載している情報がかなり不正確であったりしますから、民間伝承として成立した信仰教育のための説話ではないかと思われます。聖書の教えに精通しているのと同時に、古代オリエントの諸文学にも親しんでいるようで、本書が『賢者アヒカルの言葉』のような有名な古文書を幾つかお手本にしているのは明らかです。物語は離散地で苦労しながら信仰を守っている家族を通じて、真理と正義の道を歩む者には神が豊かに祝福してくださることを教えます。父が息子に遺言を残す部分は『箴言』にも似ていたり、随所に「嘆き」や「感謝」の祈りを散りばめているところはペルシア時代の後期旧約文書の作風を思わせます。
離散民(ディアスポラ)の物語
主人公のトビト(「主は良い」との意)はナフタリ族の義人で、上ガリラヤのティスベで孤児として育ちますが、アッシリア捕囚によってニネベに移住させられます。「ニネベ」と言えば『ヨナ書』や『ナホム書』でも取り上げられたアッシリアの首都ですから、それらの書物との関連も伺われます(大きな魚が登場する!)。物語はそのニネベを拠点にして、登場人物たちが東方のメディアへ旅をし、また戻って来るという枠組みで記されます。『創世記』でヤコブが父母の元を離れて叔父ラバンがいるアラム・ナハライム(メソポタミア)へ旅をして再び故郷に帰って来る話と同じです。
メディアは紀元前5世紀にペルシアと共にバビロニアを倒して新たな帝国を築き上げた国ですが、前8世紀にアッシリアが北王国を滅ぼした際の捕囚地でもありました(列王上17章6節、18章11節)。首都はエクバタナで、旧約聖書では一箇所だけその町についての言及があります(エズラ6章2節)。ニネベやエクバタナでの離散共同体の様子は聖書からは知らされていませんが、本書によればそこにもユダヤ人の町が形成されていて、信仰を守るための困難な状況があったようです。異教の土地である離散地で、ユダヤ人がどのように伝統的なイスラエルの信仰を守っていくかとの問題意識は、同様のディアスポラ文学である『エステル記』や『ダニエル書』にも共有されています。
あらすじ
【第一部:1〜3章】 孤児であったトビトは故郷にいたときからモーセの律法に忠実で、十分の一のささげものをもってエルサレムの巡礼に足しげく通う義人でした。ニネベに移り住んでからも異教徒とは交わることなく、同族の中から妻ハンナを娶り、慈善の業に勤しみました。やがてアッシリア王の好意を得てメディアとの貿易を担当する要職に抜擢されますが、次王センナケリブの時代に同族の埋葬を密告され、財産を没収されて逃避生活を余儀なくされます。しかし、王が暗殺され、息子のエサルハドンが王位を継ぐと、高級官僚であった甥のアヒカルの執り成しによってトビトは家族のもとへ戻ります。ところが今度は雀の糞を目に受けて失明し、妻が働いて家計を支えなくてはならなくなります。さらに、トビトの誤解から妻との間に争いが生じ、激しい言葉による反撃を受けて、さながらヨブのようにトビトは傷心から嘆きの祈りを主にささげます。
同じ日に、メディアに住むラグエルの一人娘サラも、父に仕える女奴隷に貶められて苦しんでいました。サラには7度も結婚の機会を得ましたが、悪魔アスモダイの仕業によって初夜を過ごす前に夫を次々と失いました。その悲しみから女奴隷に辛く当たり、かえって「あなたが夫たちを殺した」と反撃を受け、傷心の中で嘆きの祈りをささげました。
この二人の祈りを神は聞いて天使ラファエルを地上に送り、御自身の計画に基づいて悩みの解決に当たらせます。
【第二部:4〜12章】 トビトは主に死を願って一人息子のトビアに遺言を託します。その中で、20年前にメディアのラゲスにいる親族ガバエルに預けた10タラントンの銀のことを告げ、「義を行え」との説教をし、さらに、旅に出るときには案内人を雇うよう指示を与えます。トビアが同行者を探しに出ようとすると、そこに同族の若者に姿を変えたラファエルが現れます。彼は「ハナニアの子アザリア」を名乗ってトビトに雇われ、トビアに同行してメディアへの旅に出かけます。旅の途中、チグリス川でトビアは大魚を捕らえ、ラファエルの勧めに従って魚の胆のうと心臓と肝臓を保存します。それによって悪霊を追い出し、父の目を癒すことができると天使は告げます。また、ラファエルは、エクバタナで出会うラグエルの家族の内にサラという神が定めた伴侶がいることを告げ、噂を恐れず結婚するように勧めます。
エクバタナに到着すると、二人はラグエルとその妻エドナのもとを訪れ歓待を受けます。食事の席でトビアとラファエルの会話を耳にしたラグエルは、娘のサラをトビアに嫁がせることを喜んで承認し、結婚の誓約書を記します。初夜を過ごすことになったトビアはラファエルの言葉に従って部屋で魚の肝臓と心臓を燻します。すると悪魔は追い払われてエジプトへ逃げようとしますが、ラファエルに捕縛されてしまいます。トビアとサラの二人はまた、ラファエルの告げた通り、部屋で主の救いを求めて祈りをささげます。トビアは死んでしまうものと考えて、ラグエルはすでに墓を用意していましたが、翌朝二人が生きていることを知って、召使にそれを埋めるように指示し、婚礼の祝宴を始めます。トビアはラファエルをラゲスにいるガバエルのもとへ遣わし、父が預けた銀を受け取ると同時に、本人を婚礼に招待します。14日間に亘る祝宴の後、トビアは妻を連れてニネベへ帰る決意をラグエルに伝えます。彼は引き止めますが、故郷ではトビアの両親が息子を待ちわび、母ハンナはトビアが死んだものと思って嘆いていました。ラグエルはトビアの決心が固いのを見て自分の財産の半分を彼に分け与え、主に委ねて二人を故郷へと送り出します。
旅の成功を神に感謝しながら帰郷を果たしたトビアは両親と喜びの再会を果たします。そして取っておいた魚の胆のうで父の目を癒し、トビトは奇跡的に視力を取り戻します。自分の足で歩く彼を見て町の人々は驚くと同時に、トビアの妻サラを迎えて、ニネベのユダヤ人たちに喜びが湧き上がり、故郷での婚礼の宴が始まります。その後、父子は同行してくれたラファエルに持ち帰った財産の半分を報酬として与えようと提案します。すると、ラファエルは二人だけの前で自分が神に仕える七人の天使のひとりであることを告げ、神がトビトとサラを救うために自分を送ったことを明かします。そして二人の前で天に昇って姿を消します。
【第3部:13〜14章】 神の偉大な御業を知ったトビトは、神をほめたたえてエルサレムの回復を願う賛美の祈りをささげます。トビトは死に際して再び遺言を残し、112歳の生涯を終えてニネベに埋葬されます。母ハンナが亡くなった後、トビアは父の遺言に従ってニネベを離れてエクバタナにある妻サラの実家で暮らし、両親の世話をしながら両家の跡取りとなります。そして、預言者ナホムが告げた通りにニネベが滅亡したことを見届けて、117年の生涯を終えます。
律法に忠実な家族
トビトが義人であり、その家族もまたモーセの律法に守られて困難を乗り越える姿を描きながら、この物語は「真理と正義の道」を説いています。「さあイスラエルの民よ、あなたがたに命じる。心から神に仕え、神が望まれる事を行いなさい。あなたがたの子供たちがいつも正義を行い、慈善の業に励み、神に従い、どんなときでも力を尽くして心から神の御名をほめたたえるように教えなさい」と、トビトは息子への遺言の範囲を越えて民全体に呼びかけています。具体的な行いがトビト自身の模範に示され、第一のものは「慈善の業」すなわち「施し」です。彼が「飢えた人々に食べ物を与え、裸の人々には着物を着せ」と繰り返し述べるところはイエスの教えにも通じます。ただ、トビトが示す義の道は離散地における同胞愛に基づいていますから、慈善の業についても同胞に対するものですし、生活習慣における異教徒との分離が同時に進められます(同族間の結婚、みだらな行いの禁止、異教徒とは食事をしない、等)。離散地ではトビトのように正しい道を貫くことは困難であって、「本当に神を心に止めている貧しい人」(2章2節)が僅かであるところで信仰を守らねばならないことが示されています。
また、「両親を敬う」ことが律法に従う道として強く訴えられます。トビトが同胞の埋葬に熱心なのもそれと関係するかも知れません。一人息子のトビアは父の命令を忠実に果たそうとしますし、両親の葬りは自分の責任だと自覚しています(6章15節)。一人娘のサラは一度自殺も考えますが、父を悲しませたくないために思いとどまります。結婚した二人は両家の両親に十分尽くした後、二つの家を継いで親たちを最後までみとります。
苦しむ義人への報い
その義人トビトの苦しみと嘆きに神がいかに答えてくださるかが物語の筋をつくります。この点では、『ヨブ記』がモデルとなっています。トビトは善行に勤しみますが、同胞の遺体を丁寧に埋葬する行為がかえって王の反感を買い、身を追われて財産のすべてを失います。さらに、雀の糞で偶然(?)両目を失明し、妻の信頼も失って、「死んだほうがマシだ」と嘆きます(3章6、10節)。これに並行してメディアのエクバタナで親類のサラが、アブラハムの妻サラと同じ苦しみを味わっていて、やはり「死んだほうがマシだ」と嘆いていて、これを不思議な導きで一挙に解決しようというところが、この物語の妙です。トビトとサラを対にして描くのは、トビトが孤児であり、サラが寡婦である、ということを示しています。7回失敗したのですから、サラはもはや夫を持つ可能性が完全に奪われた寡婦です。孤児と寡婦は律法で命じられた憐れみを受けるべき人々の代表です(出エジプト記22章21節、申命記24章17節、他)。ですから、彼らが神の憐れみを受けるのは律法の成就であるわけです。
そこに『ヨブ記』と『トビト記』の間にある微妙な違いが見出されます。ヨブは完全な義人であって、彼の苦しみには「サタンの試み」の他には理由がありませんが、トビトとサラの場合はどちらも本人に多少の責任が問われます。トビトは妻を泥棒呼ばわりしたが故に妻の逆襲に遭いました。サラは女奴隷に八つ当たりしたことが原因で屈辱を味わうことになります。愚かな振る舞いが自分の身に不幸を招くとの教訓をこうして交えてしまうところが『ヨブ記』とは異なる本書の霊性なのでしょう。『トビト記』はすべてが神の善い業に調和するように描きますから、これはむしろヨブの友人たちの立場に相当します。
天使ラファエル
神の摂理の中で、同じように律法に守られた幸いな家族を描く物語には、旧約の『ルツ記』があります。しかし、本書が『ルツ記』の牧歌的な雰囲気と圧倒的に違うのは天使ラファエルの登場によります。聖書の中で名前を持った天使は「ガブリエル」と「ミカエル」だけが黙示預言の中に登場します[2]。ラファエルのように別の名をもつ人間を装って(ハナンヤの子アザルヤ)登場する天使はここだけです。おそらく、ラファエルはトビアの旅を見守る守護天使であって、その名前(神は癒したもう)と働きからして治癒天使です。天使論は新約聖書にも引き継がれて民間の内で保たれたようですが、パウロはこれに歯止めをかけました(コロサイ書2章18節)。というのも、本書でも明らかなように天使には仲保者としての働きが期待されて、神と民との間を取り持つものとされたからです。ラファエルがトビト親子に正体を明かした時、「その祈りが聞き届けられるように、栄光に輝く主の御前で執り成しをしたのは、だれあろうわたしだったのだ」と述べています(12章12節)。そして、神の御旨を果たすために自分が試練を与え、癒しを成し遂げて、彼らの見ている前で昇天します(同章20節)。新約聖書によれば、これらはみな真の仲保者イエス・キリストの働きであって、天使をそれと同等に見なして崇拝することは禁じられます(黙示録22章9節)。
神の言葉への信仰
本書はモーセの律法ばかりでなく、預言者への関心も高く(2章での『アモス書』の引用)、物語全体の終わりを預言の成就として締めくくっています。14章に記されたトビトの遺言は終末預言のようにエルサレム神殿の再建と諸民族の回心を語ります。そこで特筆すべき信仰の表明が次のようになされます。
神の遣わされたイスラエルの預言者たちが語った事は、ことごとく成就する。神の警告のうち一つとして成就しないものはなく、すべて定められた時に成就する。… わたしは確信しているが、神の語られる事はみな成就し、神の言葉は一つとして無駄になることはない。(4節)
具体的にはここで成就したと告げられているのは預言者ナホムが語ったニネベに対する神の審判で、本書の最後では確かに預言が成就したと確認されています(15節)。また、12章で身分を明かしたラファエルが告げた最後の言葉には、神の御業を書き留めて、人々に宣べ伝えよと宣教の使命が伝えられます(7、11、20節)。預言の成就とその宣教は、ユダヤ人たちが囚われて行ったその先の離散地で神の栄光が顕れることに寄与し、終末預言に示された諸国民がこぞって神のもとに集うビジョンの実現へと推し進めます。そこに、厳しい状況下で破滅を免れて生き延びる離散民の強かな自己理解があり、真剣な信仰の取り組みがあったことが伺われます。本書で前面に出されるのは律法遵守の信仰ですが、そこに僅かに挟み込まれる預言を通してのみ言葉への信頼は、後のラビ・ユダヤ教よりも一層、新約の使徒たちの信仰に近いもののように思われます。
本書に見る救いのかたち
こうして概観するだけでも本書と正典との間に共有されている信仰には連続性があることが分かります。その間にある差は僅かですが、両者の関係を捉えるならば、本書は旧約聖書をお手本にして、それを離散地の状況に合わせて説教を試みた説話だと言えます。正典に基づいて作られた教育文書として、おそらく年代的理由と教派的特色から、外典へと区別されたのではないでしょうか。そこで、本書の救いに関する教説をまとめておきます。
13章にある「トビトの賛歌」にある次のような表明は、アブラハム契約を念頭においた神の選びと世界救済のヴィジョンを受け継いだものと見られます。
しかし、お前を畏れ敬う者は皆、祝福される。行って、正義を行う者たちのために喜び歌え。彼らはすべて、お前のもとに集められ、とこしえの主をほめたたえるのだから。お前を愛する者たちは幸いだ。お前の平和を喜ぶ者たちは幸いだ。お前の苦難のために心を痛める者は幸いだ。彼らはお前のゆえに喜び、お前のすべての喜びをとこしえに見る。(12—14節)
ここには先に見た「苦しむ義人」と同じ意義が認められます。すなわち、義人の苦しみは来たるべき祝福のための忍耐に他ならない。神はその忍耐を通して世界への祝福を広げて行かれる、とのことです。こうした神の救いの計画については、正典の脈絡から示されていることと全く同じです。天使ラファエルがトビアに語ったように、サラとの結婚は神が以前から定めておられたことであり(6章18節)、物語の全体が神の予定調和的な計画であったとは本書の基本的な信仰の立場です。さらに本書が描き出す「盲人の癒し」(11章17節)「悪霊の追い出し」(8章2〜3節)「貧しい者への祝福」(11章17節)のモチーフは、旧約の預言が新約のイエスによる成就へ向かう途上の中継地点をなしています。
しかし、本書の律法遵守の信仰は、新約の福音とは明らかに違う救いの理解をも見せています。トビトが息子への遺言に託して語った「真理と正義の道」は、確かに申命記にも箴言にも通じるところの、神のみ旨に適う義の道です。しかし、それが次のように主張されると正典とは別の方向へと進み始めます。
慈善の業は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます。慈善を行う者は、幸せな人生を送ることができます。(12章9節)
慈善はキリストの業であり、善行はイエスの教えでもあります。しかし、モーセの律法を正しく解き明かすイエス・キリストは、善行による罪の清めは告げていません。死を遠ざけ、すべての罪を清めて、幸せな人生に至るのは、ただ神が憐れんでくださるからです。旧約聖書にあって慈善の奨励がなされている箇所でもその前提は変わりません。行為による救済へと踏み出した地点で、本書は新約において成就をみる正典とは別の道を歩み始めているようです。
2. ユディト記
ユダヤのジャンヌ・ダルク
聖書で神の僕として登場する人物はたいてい男性なのですが、稀に女性が舞台に上ることがあります。アブラハムの妻サラを始めとする族長の妻たちや、サムソンやサムエルの母となった女性たちは神のお告げによってイスラエルの未来を胎内に宿す尊い使命を受けました。また妻としての立場を越えて、指導的な役割を果たした女性たちもいます。モーセの姉であったミリアムは預言者であり、モーセやアロンと共に荒れ野の旅を導きました。同じように女預言者デボラもバラクと共に敵との戦いに出て、神に召された士師としてイスラエルを裁きました。『士師記』5章にあるデボラの歌にはヤエルという女性も登場します。ヤエルは敵の将軍シセラを天幕にかくまう振りをして、その寝首を掻いてイスラエルに勝利をもたらした英雄でした。『ユディト記』の主人公となるユディトという女性は、おそらくそのヤエルをモデルにした、さながらユダヤ人のジャンヌ・ダルクと言い表せそうな新しい時代のヒロインです。才色兼備の敬虔なやもめが大胆不敵にも敵の将軍に近づいて首を取るという活劇は、後の西欧の芸術家たちを刺激してヴィヴァルディのオラトリオやレンブラントの絵画にも取り上げられています。『ユディト記』のあらすじは以下の通りです。
あらすじ
【第一部:1〜7章】 アッシリア人の王ネブカドネツァルはライバルであったメディア人の王アルファクサドとの戦いに望んで、使者を送って西方諸国の協力を要請します。しかし、他国はこぞってこれを拒否して王の恨みを買います。ネブカドネツァルは単独でアルファクサドをエクバタナで滅ぼすと、いよいよ西方に手を延ばし、腹心の軍司令官ホロフェルネスに命じて精鋭部隊を送り出します。アッシリア軍による甚大な被害を被った西方諸民族は王に屈服して和平を願い出ますが、ユダヤに住むイスラエル人だけは山に立て籠もって必死の抵抗を試みます。イスラエルの態度に激怒するホロフェルネスは、アンモン人の総指揮官アキオルからイスラエルの歴史と彼らを守護する神について聞かされ、彼らに構わないでおくよう進言されますが、なお怒りを新たにしてイスラエル討伐の意志を全会議に告げます。アキオルは裏切り者とみなされてイスラエルの町ベトリアに放逐されてしまいますが、町では彼の話しを聞いた住民たちに歓迎されます。やがてホロフェルネスの軍はベトリアを包囲し34日間に亘る兵糧攻めが行われ、町の住民は苦境に立たされます。人々は投降を願い出ますが、指導者オジアは5日間の猶予を呼びかけ、神の救いに望みをかけます。
【第二部:8〜13章】 シメオン族に属するメラリの娘ユディトは、夫を失ったあと家をよく管理し、断食しながら神を畏れる、美しく評判の良いやもめでした。彼女は町の長老たちの話を聞いて、主なる神への信頼を呼びかけます。そして、これは主からの試練であると説得しながら自らの隠された決意を告げます。ユディトは神の助けを祈り求めた後、忠実な侍女を伴って敵の陣営へ下って行きます。美しいイスラエル女性の登場に敵の陣営は騒ぎ立ちますが、その美貌の故にホロフェルネスとの謁見が難なく叶います。ユディトは巧みな知恵の言葉で自分がイスラエル攻略の手引きをすることを約束し、陣営での身の安全を確保することに成功します。約束の期限が迫る4日目に、ホロフェルネスはユディトを自分のものにしようと宴席に彼女を招待します。それを好機と見るや彼女はホロフェルネスを上機嫌にさせ、泥酔させて深い眠りに誘います。ついに寝室で二人きりになった彼女は時を捉えて神に祈り、ホロフェルネスの首をはねて侍女と共にベトリアに戻ります。町の人々は彼女の奇跡的な活躍に驚き、彼女への称賛と神への感謝がささげられます。
【第三部:14〜16章】 アンモン人アキオルによる検死が済むと、全イスラエルはユディトの策に従って敵に報復する準備をします。町の城壁に掛けられたホロフェルネスの首と天幕で発見された彼の屍体に動揺するアッシリア軍が敗走し始めると、ベトリアから知らせを受けたイスラエルはこれを追撃し、敵を追い払って大量の戦利品を手にします。勝利の立役者となったユディトはイスラエル全体から祝福を受け、人々と共に高らかに賛歌を歌いながらエルサレムに向かって行進します。ユディトの名声が世界中に広まる中、彼女は終生やもめのままベトリアで過ごし、家を忠実に守って105歳の平穏な生涯を終えて、夫と同じ墓に葬られます。
ヘレニズム時代の歴史物語
大祭司と長老会議によるエルサレム統治(4章6節以下、他)や神殿の清め(4章3節)など、多くの手がかりからヘレニズム時代のユダヤ人による紀元前1世紀頃の作品と見られるこの物語には、パレスチナを中心にして民族の結束のために戦われた時代の空気がよく表れています。具体的に年代を記す冒頭からして本書は歴史の事実を描いた歴史書のような体裁をしていますが、旧約正典でもよく知られているバビロニアの大君ネブカドネツァルがニネベを拠点とするアッシリア人の王とされていることから、これが史実を伝えているのではないことはユダヤの一般の人々にも直ぐに分かったことでしょう。ホロフェルネスと宦官パゴアスはペルシア王アルタクセルクセス三世オクス(前358〜338年)の西方遠征に参加した実在の人物がモデルのようです。また、軍隊に関する記述やパレスチナの地理が詳述されているのは、歴史家のヨセフスが伝えているような実際の戦闘をモデルにしているのかもしれません。しかし、情報の正確さについてはあまり頓着していない様子もありますから、「トビト記」と同様に民間に伝わっていた説話を基にした信仰書として創作されたものと思われます。
僭主に抵抗するイスラエル
史実として認められるネブカドネツァルは紀元前6世紀に西方に進出してバビロニア帝国を確立した大王で、前587年にエルサレムを包囲してこれを陥落させたことが旧約聖書にも書き留められています。堕落したイスラエルに裁きをもたらすために主なる神によって「わたしの僕」[3]とも呼ばれた大王は、『ダニエル書』のようなペルシア時代以降の書物にも世界帝国の主としてその名が用いられます。本書での彼は「全地の主である大王」と呼ばれる神格化した存在です。臣下のホロフェルネスは制圧した諸国民に大王を礼拝するように強要し、「ネブカドネツァル王のほかにどんな神がいるというのか」と語ってイスラエルとの対決姿勢を露わにします(6章2節)。そこで始まる戦いは、イスラエルの信仰を賭けての命がけの戦いであって、旧約聖書に記された「主の戦い」に相当します。
「ベトリア」という他では知られない町はシメオン族の所領となっていて、主人公のユディトはその町を苦境から救う同族の英雄です。その描き方からして、本書の物語は『士師記』に書き連ねられた大士師たちの説話と共通します。帝国の脅威に直面したイスラエルの民は指導者の呼びかけに応じて、自らの罪を悔い改めて灰をかぶって粗布をまとい(『ヨナ書』のニネベ!)、助けを求めて主に向かって叫びます(4章8〜15節)。するとユディトが登場してその奇跡的な働きによってイスラエルを苦境から救います。そして最後はユディトの埋葬に至る晩年と平和の訪れが告げられて物語が締めくくられます。『士師記』と異なる点は、神が民を憐れんでユディトを救済者として遣わした、と明確に述べられてはいないことです。神の御業はすべて登場人物たちの信仰告白を通して説かれます。神はイスラエルの嘆きに応える神であり、イスラエルのために戦う主(16章2節)として摂理的な導きによって救いをもたらします。
知恵と言葉による戦い
アッシリアの強大な権力と軍事力に対して、美しいやもめが知恵と言葉によって戦うという構図に、本書の主題となるイスラエルの信仰がよく表れています。ユディトがやもめであることは、『トビト記』にも共通するモチーフで、神の憐れみの対象であることを指しています。つまり、「やもめ」はイスラエル民族を象徴的に表します。そしてユディトが夫亡き後も忠実に家を守り、これを賢く管理し、断食や献げ物を欠かさない人物として描かれるのは、彼女がイスラエルの模範であることを意味します[4]。そして、旧約の各所で告げられているようにイスラエルの誉れは神の力を通して実現されるものですから[5]、ユディトは戦士ではないわけです。
ホロフェルネスとユディトの対決は、自らを世界の主と思い高ぶる人間の傲慢と「全能にして力ある神」(9章14節)との戦いです。自分の言葉を絶対化する支配者に対して、一人のやもめが神の言葉の担い手として立ち向かい、これを打ち破ります。それゆえに、ユディトの知恵と言葉は敵からも賞賛されるほど卓越したものとして描かれます。ベトリアの長老たちを前にして「あなたがたは間違っている!」と神への信頼を説くユディトの言葉(8章)は、実に力強く読者の信仰に迫ります。
熱狂的な民族一致の是非
他方、敵に報復するためには欺きも正当化されるとの主張は道徳的には躓きをもたらしかねません。9章でユディトは次のように祈ります。
この欺きの唇によって、家来ともどもその頭を、頭ともどもその側近をお打ちください。(10節)
わたしの言葉と欺きによって彼らに痛手を負わせ、打撃を与えてください。(13節)
そしてこのような態度を正当化するために、創世記34章にある「ディナの凌辱」の事件を引き合いに出します(9章2〜4節)。また、ユディトの美貌が殊更強調されて、敵将が酒と女と王権という世俗の偶像に溺れる姿は、「かつては人の手で造った神々を礼拝する者もいましたが、今日、わたしたちの世代には、そのようなことをする部族や氏族、村や町はありません」(8章18節)と大胆に述べる信仰の潔癖さと裏表の関係にあります。「あなたへの思いに熱く燃え、民の血が汚されることを忌み嫌い…」と表明されるイスラエルの純血主義は、ペルシア時代の帰還期にユダヤに芽生えたことは『エズラ・ネヘミヤ記』にある政策から知られますが、ヘレニズムの時代には民族の内側と外側を使い分ける二重の倫理(M.ウェーバー)へと発展した様子が伺えます。本書で度々繰り返される「心を一つにする」[6]との表現は、民族が結束して時の権力者に立ち向かおうとする姿勢の現れのように思われます。熱狂的な信仰と愛国心に基づく戦いは『マカバイ記』では正に歴史として語られます。そこに映し出された熱情が、やがてローマに対するユダヤの反乱となり、紀元70年の神殿崩壊へと結びついたことを思えば、ラビ・ユダヤ教がこれを外典として退け、キリスト教が新約の啓示を必要とした理由も分かるような気がします。
[1] ユダヤ教徒たちもキリスト教会に対抗するギリシア語訳を作成しましたが、ギリシア語による伝承は途中で放棄しました。
[2] ガブリエルはダニエル書8章16節、9章21節、ルカ1章19節、26節。ミカエルはダニエル書10章13節、21節、21章1節、ユダの手紙1章9節、12章7節。『続編』に含まれるラテン語エズラ記では「エレミエル」という大天使の名も現れます。
[3] エレミヤ書25章9節、27章6節、43章10節参照。
[4] 本書はファリサイ派の信仰を表していると言われますが、「律法」や「モーセ」についての言及は食物規定に関する一箇所だけで(11章12節)、むしろ神殿や祭儀に関心の強さを示しているように思われます。
[5] 例えば、サムエル記上2章にあるハンナの祈りを参照。
[6] 4章12節、7章29節、15章5節、9節。