改革派神学研修所2024年度夜間神学講座「平和の福音に生きる教会の宣言」を読んで。第5回「聖書はイスラエルについて何を語っているか」
説教者 | 牧野信成牧師 |
序.平和宣言から「イスラエル」を問う
昨年の10月にハマスによるイスラエル襲撃事件をきっかけにイスラエル軍による報復戦争が激しく続いています。イスラエル国の目的はパレスチナ人を国内から完全に追い出すことで、パレスチナ人もこれに激しく抗って今日に至りますが、このパレスチナ問題はイスラエル建国以来の複雑な問題ですから、容易に解決は見出しえないことが今日の行き詰った状況に繋がっています。国際社会はこれに何もできないかというとそうでもないはずなのですが、中東問題の難しさはこれに宗教が絡んでくることにあって、キリスト教も他人事にはしておけない関わり方をしています。例えば、今回の事件については世界中でイスラエル軍によるガザ市民虐殺が訴えられていて、ホロコーストを経験したユダヤ人が今度はパレスチナ人に対して同じことをしていると反対運動が起こされている一方で、米国を始めとする欧米諸国は積極的にイスラエル国を指示したり、傍観を決め込んでいる有様です。日本では、こうした時期にイスラエルの軍事企業から武器を購入する算段をしたり、武器を日本から輸出する手筈を整えたりで、政府はパレスチナの悲惨な状況には無関心を決め込んでいます。
キリスト教文化を自認する欧米諸国がイスラエル国を支持するには、やはり聖書に基づく信仰が作用していることは否めないでしょう。ここにはナチス・ドイツによるホロコーストを極みとする反ユダヤ主義(反セム主義)と、イスラエル建国をユダヤ人の当然の権利と見做すシオニズムが撚り合わさっているのがわかります。キリスト教国におけるユダヤ人迫害はローマ帝国がキリスト教を国教と認めた頃からの長い歴史があって、ヨーロッパの一つの伝統文化にもなってきています。その理由はユダヤ人がイエスを十字架で殺したことにあって、当時のキリスト教徒からするとユダヤ人は神に見捨てられた滅びるべき存在でした。ローマ時代以降、世界各地に離散して住むようになったユダヤ人は、独自の宗教的伝統を各地で育みながらも、生き残りを計って地域に馴染む努力をし、他方、ユダヤ人を抱える諸国は彼らの資産や才能やネットワークを利用して、彼らから搾取するのが常でした。キリスト教会では、例えば、マルティン・ルターはユダヤ人が大嫌いで「ユダヤ人と彼らの嘘について」などの論文を書いていますし、それがナチス・ドイツにおけるユダヤ人虐殺の一つの動機になっている点が指摘されています。ジュネーヴのカルヴァンはあまり関心がなかったようで「反セム主義」の非難を逃れているようですが。キリスト教会内での反ユダヤ感情は20世紀に至ってついにホロコーストを生じさせ、ヨーロッパに住む600万人のユダヤ人を殺害する結果となりました。このことの深いトラウマを抱えながらドイツを中心とする欧米のキリスト教会は反ユダヤ主義を払しょくする努力もしたのでして、それがユダヤ人のシオニズムを支援する動機にもなっています。
「シオニズム」とはシオンへの帰還を意味するユダヤ人の運動ですが、特に19世紀から始まったパレスチナ移住を促す運動がそのように呼ばれていて、その思想的な発端はテオドール・ヘルツェルが1893年に出版した「ユダヤ人国家」だと言われます。ヘルツェルはハンガリー系のオーストリア人の新聞記者でしたが、反ユダヤ主義を掲げる人間がウィーンの市長になったことに衝撃を受け、その書物を通してユダヤ人国家の幻を掲げると同時に、世界最初の「シオニスト会議」を開いてイスラエル建国への道筋を用意しました。東京都杉並区にある聖マーガレット教会の塚田重太郎牧師によりますと、ヘルツェルにユダヤ人国家の幻を与えたのはアングリカンのクリスチャンであったと言います。ヘルツェルの友人にアングリカンの司祭がいて、彼が当時流行っていたキリストの再臨とイスラエル国家建設を結び付けた聖書解釈を彼に教えたと言います。この辺りは証拠がないかもしれませんが、キリスト教会がイスラエル国を支援する大きな理由の一つに、こうした誤った聖書解釈による独特の終末論があって、今日まで力を持っています。
1948年にイスラエルがパレスチナの地に建国した際、キリスト教の神学者や聖書学者は挙って「預言が成就した」と賛辞を送りました。そこにはホロコーストの罪過から逃れたい動機も多分に働いていたに違いありません。しかし、ユダヤ人によるイスラエル建国が本当に聖書に基づく神の御旨であったかどうかは十分な検討が必要なはずです。それはまず、聖書自体が「イスラエル」についてどう語っているかの検証が必要でしょう。そして、今日のイスラエル国が本当に聖書のイスラエルの継続であるのかどうかの歴史的な検証も必要です。さらにもう一つ重要な視点は、1948年の建国がどのようなものであったかを現地の立場から知る必要もあります。キリスト教国は無責任に「預言の成就」などと言ってのけますけれども、そこには既存の住民がいて、それが「パレスチナ人」と呼ばれるのですが、彼らを追い出すことによって建国が果たされているのに世界はあまりにも無頓着でした。パレスチナ人をも含むアラブ人たちは、1948年のイスラエル建国を「ナクバ」と呼びます。「ホロコースト」は度々映画にもなって有名ですが、「ナクバ」を知っている方はアラブ文化圏に親しまないと聞かないのではないでしょうか。「大災厄」を意味することばですが、直接的にはイスラエル建国によって大勢のパレスチナ人が土地から追い出された事件を指しています。近年日本語訳が出版された聖公会のナイム・アティーク牧師による『サビールの祈り-パレスチナ解放の神学』にはその辺りのことが詳しく報告されています。イスラエル建国とそれに伴う戦争によって、パレスチナの土地の8割近くがイスラエルに奪われ、そこに住む70万人のパレスチナ人が追放されて、村や畑が破壊されました。こうして今日に続くパレスチナ難民が発生しました。ナイム先生もそうしたパレスチナ・クリスチャンの一人で移住を余儀なくされた経験から、聖書の読み方を改めて『パレスチナの解放の神学』を学んだ方です。
私たちはキリスト教会として、特にそこで悲惨を味わったパレスチナの教会の兄弟姉妹たちに対して責任があるでしょう。中東という日本からは遠い地域のことですが、聖地旅行が盛んな今日、全く無関心ではなかったはずです。しかし、そこへ行って何を見るかは私たちの理解次第です。今年の世界祈祷日のテーマでも紹介されていたように、そこには今でも悲惨の極みにあって痛みを抱えている兄弟姉妹たちがいます。彼らの辛さは誰も耳を傾けてくれないという孤立感です。確かに世界中にパレスチナ支援の輪は広がって今日に至ります。日本も相当な額の支援金を送り続けて来ました。ところが、それでパレスチナ人の心が慰められたかと言えばそうではなく、日本が資金を出して整備した学校や病院や町のインフラをイスラエル軍が片っ端から空爆して破壊する。そうするとまた日本は企業の支援によってそれを再構築するという、日本の企業とイスラエル国のマッチポンプのようなものが動いているだけで、本当のところはパレスチナ人のことなど誰も気にかけてはいないのではないかと疑われます。
そこで今日は、ナイム・アティーク先生の本に頼りながら、聖書ではイスラエルについてどう語っているかを確認する機会としたいと思います。
1.旧約聖書におけるイスラエル
まず「イスラエル」と言えば、アブラハム・イサク・ヤコブと続く族長たちの三代目に当たるヤコブに神が与えた新しい名前です。ヤボクの渡しで神の使いと格闘して、ヤコブが獲得した名でした。そこからイスラエル12部族が生じます。それは神が選んだ一人のひとアブラハムから続く選びの一つの帰結であって、旧約の歴史をイスラエルが貫いてゆくわけです。これは確かに教会が旧約聖書を理解するための鍵です。神がアブラハムに与えた約束はこうでした。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1-3節)
この召命を受けてアブラハムは逗留していたメソポタミアからカナンに向けて家族を連れて旅に出たのでした。行き先を知らずに神の言葉に従って旅に出たことがアブラハムの信仰であったとは、新約聖書でも認められているところです。
そして、カナンにたどり着いたところでアブラハムには次の約束が与えられて、子孫の繁栄と次のような契約が神から一方的に与えられます。
その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(創世記15章18-21)
さらに神は割礼を契約のしるしとしてアブラハムに命じて次のような契約を結びます。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」(創世記17章4-8節)
ここに神とアブラハムとの間に成り立つ永遠の契約があるのでして、これがアブラハムの子孫であるイスラエルに及ぶと考えられます。そして、その約束の中に「カナンのすべての土地を...永久の所有地として与える」という神の言葉が含まれているわけです。
ここに、現在のイスラエル国が保持するシオニズムの根拠が認められます。つまり、ユダヤ人は真正なアブラハムの子孫であって、神との契約を受け継ぐイスラエルである、との主張です。
創世記のアブラハムから選びの歴史は出エジプト記に入って、イスラエルは大きな民族となり、モーセに率いられた出エジプトを経験して、シナイ山の麓で主なる神と契約を結んで神の民となります。そこでの契約は、神が一方的に約束を与えて恩恵を施すアブラハムとの契約とは異なって、民の方でも律法を遵守する義務が課せられます。その契約の言葉は、出エジプトから始まって申命記に及ぶ大きな法令集になりますが、その中には神と民との個別の関係に集中して聖なる民になろうとするあまり、他民族に対する排外主義的な掟が顕著になってきます。律法のそうした掟の中に「解放の神学」が呼ぶところの、神が暴力を命じる「恐怖のテキスト」が現れます。幾つか挙げてみましょう。まず、民数記33章50節以下です。
主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。あなたたちはその土地を得て、そこに住みなさい。わたしは、あなたたちがそれを得るように土地を与えた。(50-53節)
かつて神が昔のイスラエルにそう語っただけだと見過ごせれば良いのですけれども、中世のユダヤ教のラビにはそういう知恵があったと言いますが、シオニストはこれを現代に適用する読み方をするのでして、パレスチナ人追放の根拠にしてしまいます。ですから、これは「恐怖のテキスト」になるわけです。
そして申命記7章にはこうあります。
主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。(1-2節)
これはいつも問題になる「聖絶」の命令ですが、「聖絶」とは原語では「ヘレム」と言って、単なる戦争ではなく敵を犠牲として神にささげるという宗教的行為を指します。これもまたパレスチナ人迫害のために利用される聖書の言葉です。
そして、イスラエルの純血主義を肯定する次のような掟も見られます。
アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない。それは、かつてあなたたちがエジプトから出て来たとき、彼らがパンと水を用意して旅路で歓迎せず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたを呪わせようとしたからである。...あなたは生涯いつまでも彼らの繁栄や幸福を求めてはならない。
ここに現れるのはイスラエルのために復讐する神ですけれども、アンモンとモアブという隣国の住民との隔離が厳しく命じられているわけです。こうした態度はアマレク人という別の民族に対しても差し向けられます。申命記25章です。
あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。(17-19節)
ここから「アマレク」は悪の象徴となって、ユダヤ人の敵を表す典型的な表現となりました。
こうして、旧約聖書には神が暴力を命じたり、報復を認めるような恐るべきテキストがあることは否定できません。そうした時にどのようにして神の言葉に従うことができるかが問われますけれども、サムエル記には次のような言葉があって今日の過激なシオニストにはよく引用されると言います。サムエル記上15章22節です。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。
神の言葉なのだから反論してはならないと我々の内に生じる疑問を抑え込むわけです。
しかし、私たちが聖書について覚えておかなくてはいけないのは、聖書は神の命令を伝えるにしても一義的ではないことです。旧約聖書には特に対話的な性格があります。以上のような問題がある箇所はイスラエルが歴史の現実を通ってきた証として避けるわけにはいかないものです。中世のユダヤ教のラビたちは「昔あったことは、あったことだMashehaya-haya」との言い回しで「昔あったことは、またあるだろう」という勝手な預言的な解釈を避けましたが、それはそれで知恵のある選択のように思えます。今日のキリスト教会では、神学的にこれを受け止める理解があって、改革派神学の土壌でも「聖書神学」においてこうした問題を受け止める余地があります。改革派系の神学校でも長年教科書として用いられたゲルハルダス・ヴォスの聖書神学によれば、その目的は神の啓示の進展を描出することであって、神はその時代時代に相応しい仕方で必要なことを啓示なさったのであって、初めからご自身に関するすべての真理がイスラエルに啓示されていたのではない、と聖書にある啓示の進展性を認めました。つまり、モーセの律法が与えられた時代に、上に挙げたような恐るべき掟が語られたとしても、それはその時代のイスラエルに必要な形で啓示されたのであって、それが常に普遍的に適用できるものではないということです。ユダヤ教の格言にある通り、それはまさに「かつてあったこと」であって、それを後々まで真理として適用できるものではないわけです。それは今日の結論にもなりますが、イエス・キリストにおける新約の啓示を受け取ったキリスト教会にとってはなおさらのことです。
旧約聖書に見られる対話的な性格というのも、そうした啓示の時代の差によるものです。それを「対話」と言っても「議論」と言っても差し支えないでしょう。あるいはそれと関連して「解釈」ということもできます。聖書の中に既に聖書解釈の痕跡を見出すことができるのです。
旧約聖書には選びの線に従って、排他的な自民族中心主義が現れるのは確かです。それが捕囚後のペルシア時代のエルサレム帰還と国家再建時代に強まることはエズラ・ネヘミヤ記で確認できます。他方、それとは反対の普遍主義の主張もまた預言者を通して語られるようになります。この辺りは新しい預言書に初めて見られるばかりではなく、旧約聖書の初めからその文脈が用意されていたことは、私がかつて『途上』という神学雑誌に寄稿した論文でも紹介したことがありました。例えば、聖書の冒頭にある天地創造で取り上げられているのはイスラエルではなく人類の創生です。現代イスラエルを題材にした『約束の旅路』というフランス映画で、主人公の少年が神学校の試験で「アダムの肌は何色だったか?」という質問を出されますが、そうした関心は聖書自体にはありません。「アダム」は人間のプロトタイプであって、人種も血統ももたない人間のひな型です。そしてそれを創造したのが万物の源である神であって、後に登場する「神々」もそこには存在しません。こうして、聖書は創造の初めから普遍的な人類と世界と、唯一絶対の神との関係を描き出すのであって、それは途中の脈絡で失われているように見えたとしても、選びの線の伏線として根強く聖書に表出します。そのすべてをここに紹介する時間はありませんが、最初に参照した創世記12章冒頭にあるアブラハムへの神の約束も丁寧に読み解く必要があります。確かに神はアブラハムを選んで、その子孫に繫栄と安住の地を約束されるのですが、神がそこで目的としておられるのは次の言葉に現れます。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。
つまり、神は罪によって堕落した世界を、一度は洪水によって滅びた世界を、アブラハムによって祝福へと還そうとしておられる。つまり、アブラハムの子孫だけが祝福を受けるのではなくて、地上の氏族のすべてに祝福をもたらすために神はアブラハムを選んで祝福する、と言われます。
こうして神の選びには、アブラハムの子孫が自民族中心主義には陥らないための目的が、文脈の初めから定められているのがわかります。ですから、カナンの7つの民を滅ぼせ、とか、アマレクを滅ぼし尽くせ、といいながらも、神が人類全体を憐れんでおられるとの視点は外すことができません。
預言者ホセアは6章6節で次のように神の言葉を告げました。
わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。
これは新約聖書で度々イエスが引用された御言葉です。新約聖書のことは後で触れますが、マタイによる福音書の9章で、ファリサイ派の人々がイエスが罪びとや徴税人と食事をしているのを非難したところで、イエスが「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とホセアの預言を引用してお答えになりました。
そしてイスラエルの排他的民族主義に対抗するような御言葉は、詩編87編やイザヤ書19章25節の驚くべき言葉に表されます。
万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。
神がアブラハムに与えると約束されたカナンの土地についても、確かにヨシュアの昔にそれはイスラエル12部族に嗣業の地として分け与えられましたが、モーセの律法にはレビ記25章の次のような掟が含まれていました。
土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。(レビ25:23)
なぜならば、詩編24編の冒頭で「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの」と訴えられるように、パレスチナの土地もそこに住む住民もすべては主なる神のものですから、それを自民族中心に取られて我がものとし、他民族を追い出す権利などはイスラエルにさらさら与えられてはいません。これもまた啓示の進展によって明らかにされたことで、先にはアンモン人とモアブ人はイスラエルの会衆に加わることができないと定められていたにも関わらず、「ルツ記」が記されて、実はダビデの先祖にはモアブ人の血が流れていたと明かされるところがあるわけです。
厳格な一神教が悪で寛容な多神教が善であるかのように論じる宗教学者がありますが、聖書を見る限りそうではなくて、諸民族が相並んで神々が競う世界では、互いに互いを聖絶しあうような宗教性が前面に出されました。イスラエル民族だけが排他的な自民族中心主義を取ったのではなくて、そもそもそういう中で信仰が模索された時代であったわけです。ところが、バビロン捕囚という、ユダヤ人が「第一次ホロコースト」と呼ぶところの破滅を経験して、そうした神への信仰が反省されているところで、新たな預言者たちが、新たな神への信仰に目を開かせてくれました。それが、エゼキエルや第二イザヤと言った捕囚期・捕囚後に活躍する預言者たちです。
中でも、そのメッセージの頂点と言われるのがヨナ書だとナイム・アティーク先生は指摘します。ヨナ書という4章からなる書物のストーリーは御存知の通りですが、そのメッセージは民族主義に陥るイスラエルに対して先鋭化した内容をもっています。例えば、ヨナ書に現れる神はイスラエルの敵国であったアッシリアをも憐れんで、預言者ヨナを送り、悔い改めを求めます。なぜなら、ニネベの住民もまた創造者なる神の作品であるからです。そして、民族主義者のヨナにとってはユダヤ人が唯一の選びの民ですけれども、神にとってはすべての民族が神のもとに立ち返るべく呼びかけられています。そして、神はカナンの地やそこに建てられた神殿に閉じこもるような小さな方ではなくて、地球全体を創造し、それを治めるお方ですから、聖地などといわれる神の土地は地上にはないと言えます。先の詩編24編1節が歌う通りです。
こうして旧約聖書にはイスラエルの選びと並行する異邦人によってあがめられる神の唯一性・普遍性が語られていて、それがダビデの子イエス・キリストにおいて交わったところに新約聖書が成立します。
2.新約聖書におけるイスラエル
こうした旧約聖書の神学的脈絡と全体とを無視した自己本位な解釈を施すとシオニズムを肯定するような聖書の利用となります。新約聖書の福音書ではイエス・キリストが選びに漏れたかのような罪人に寄り添い、異邦人をも救った話に満ちています。むしろ、偏狭なユダヤ主義に陥ったファリサイ派や律法学者たちは、神の言葉に反しているとして退けられます。そこで最後にローマの暴力を借りてイエスを十字架で排除したつもりであったところ、旧約聖書の神の言葉は、モーセの律法も預言者たちの語った言葉も、キリストの十字架と復活で完全に成就した、と新約聖書は告げます。つまり、ナイム先生の言葉を借りれば、イエス・キリストこそが聖書解釈の鍵となります。
福音書でイエスは「しるしを見せよ」と迫るユダヤ人に「預言者ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」とお答えになりました(マタイ12章38-42節、ルカ11章並行箇所)。そのしるしとはイエスの復活のことでしたが、イエスがヨナを引き合いに出したのはそれ以上の意味があったと見ることができます。イエスはそこで悔い改めたニネベの住民の信仰を取り上げて彼らが終わりの日の裁きの座に着くと言われました。つまり、神の言葉を真剣に受け止めた異邦人が神の憐みによって救われるということです。民族主義に頑なであって神の言葉そのものであるイエスの言葉を聞くことができなかったファリサイ派・律法学者たちは、どれほど律法を厳しく守って自分たちはアブラハムの子だと自認していたとしても、信仰による救いを説く福音からは遠ざけられることを意味しています。
このことを神学的に明らかにしたのはパウロによる書簡でしょう。パウロは創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」に信仰による義認の根拠を得ます。そこでガラテヤ書3章6節以下でこう論じています。
「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(6-9節)
ユダヤ人の血統がアブラハムの子を自動的に定めるのではない。信仰こそが鍵なのであって、アブラハムに与えられた約束と祝福は、キリストへの信仰によって地上に実現される-これがキリストを通じてパウロに啓示された福音の真理でした。ローマ書4章ではこう論じています。
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。
こうしてアブラハムとその子孫に関する神の約束は血統によるイスラエルの子孫にその成就を見るのではなく、キリストに関するものであって、神は異邦人が信仰を通じてアブラハムに対する祝福を得るようになることを予告しておられた、と言います。そして、受け継ぐべき土地はカナン=パレスチナではなく、世界であって、信仰によってアブラハムの子孫と認められた者たちが、キリストと共にその相続者とされたのでした。
ここに見る「キリストのレンズを通して旧約聖書を理解する」解釈の仕方を、ナイム・アティーク先生はこうまとめています。
多くの宗教的ユダヤ人は、歴史における神の契約の中心に自分たちを置いてきた。欧米のキリスト教原理主義者の多くは歴史における神の計画の中心にユダヤ人を置いてきた。誰であれユダヤ人に触れるものは神の目の瞳に触れているという(ゼカリヤ2:12)。彼らはエルサレムを世界の中心と見なしている。諸国民はこぞってそこに向かい、シオンから主の言葉が出るという(イザヤ2:2-4)。パウロがキリストに出会う前に信じていたのがそのような考えであったことは確かであろう。しかし今や、パウロは物事をキリストのレンズから見るようになった。そして正反対の見方をして、中心に立つキリストを見ている。これが意味するのは、すべての人々に対する神の無条件の愛であり、万人に対する正義と慈愛であり、万人に対する平和と和解である。
ユダヤ教・キリスト教のシオニストにとって、これはパウロ独特の「置換神学 Replacement Theology」であって、ユダヤ人の選民性をキリスト教会に置き換えた、誤った議論だとされます。伝統的なキリスト教会はパウロによる救いの神学的理解に誤りを認めたことはありませんから、そのような言説に耳を傾けたことはありませんが、反ユダヤ主義の反省から、ある程度その点は認めて、ローマ書11章にあるパウロの議論を積極的に認めて、ユダヤ人は捨てられたのではなく、ユダヤ人もまた異邦人と共にキリストへの信仰によって救われる可能性のあることを承認しています。
ただ、だからと言って今日のユダヤ人国家であるイスラエル国が、そのまま選びの民の継続であるかどうかは歴史的に見ても別問題ですし、キリストを認めないユダヤ教がそのまま相変わらず神の民であり続けるとは認めません。それはユダヤ人であるパウロが意図したことではないでしょう。
新約聖書ではキリストにおける選びの成就は救いの中心的なメッセージです。旧約聖書で語られたすべての啓示がそこに収束します。福音書はイエス自身の議論を次のように伝えています。マルコによる福音書12章で、ある律法学者の質問にイエスはこう答えています。28節以下です。
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(28-34節)
ユダヤ人の律法学者がイエスに問うたのは旧約聖書で中心をなす第一の掟についての問いでした。それに対してイエスは申命記6章にある、ユダヤ人が日毎に唱えていた「シェマーの祈り」に含まれる、「心を尽くし、精神を尽くし、…主なる神を愛せよ」との御言葉をもって答えました。それは神が唯一であること共にユダヤ人の聖書信仰の基礎であったと言えます。しかし、そこには一つ問題が潜んでいました。旧約聖書には神を愛するために異邦人を滅ぼせというような問題の箇所があるからです。そこで、イエスは「第二の掟」を第一のものに付け加えてお答えになります。それは、レビ記19章18節にある「隣人を愛しなさい」との掟です。神を愛することと、人を愛することを切り離さないで、一つの中心となす、という聖書の解釈法をイエスは律法学者に教えたわけです。このように二つの掟を結び付けた教師はイエス以前にはいなかったと言われます。そして、これによってイエスが聖書解釈のレンズとなり焦点となる意味が理解できるようになります。福音書が記すように、イエスは積極的に異邦人とも交わり、選びの民から零れ落ちたかに見える同胞の罪人たちの友となりました。それは、イエスが初めて行ったことではなくて、ヨナ書を第一とするような旧約聖書のところどころに隠されていた神の御旨でした。律法学者はさらに問うかもしれません。では、レビ記にある「隣人」とはいったい誰なのか。旧約聖書言葉遣いですとそれは「同胞」のことです。ですから同胞のユダヤ人を愛せよ、ということになります。しかし、イエスの言葉遣いによるとそれはまさに「隣人」とのことでイスラエル人の枠を超えてすべての人を指しています。そしてイエスの教えはさらにそれを超えてゆくのでして、マタイによる福音書では山上の説教において「あなたの敵を愛せ」という至上命令さえイエスは語りました。
ルカによる福音書10章では、律法学者との問答の後でイエスの「善きサマリア人のたとえ」が続きます。それが「隣人とは誰か」というユダヤ人の問いへの答えです。ユダヤ人が選びの象徴と見做す宗教家たちが見捨てた仲間の命を、敵と見做すサマリア人が救ったとしたら、あなたは誰を隣人と見做すか、との問いに律法学者はまっすぐ答えることができませんでした。敵を愛するとはこういうことだという実例で、これはイエスが自分で辿っていく十字架の道を意味していました。ですから「置換神学」などと軽率に言う事柄ではなくて、イエスにおいて神の愛が輝き出た真理から、キリスト教会が立ち上がって、信仰による祝福が異邦人世界に広がったのは間違いありませんから、その真理を覆い隠してイスラエル国家に阿るのではなくて、イエスの福音に従って、この地上にある罪のしがらみを超えてゆく希望をキリスト教会は大胆に語るべきでしょう。
現代のユダヤ人シオニスト・原理主義者たちのパレスチナ人差別には目を覆うばかりのものがあります。レジュメに記した「不適切な発言」にも目を通していただければと思います。政治的な問題は政治的にしか解決できないかもしれません。しかし、初めに述べましたように、パレスチナ人の命を脅かしているのは世界にあって孤立しているところにあります。シオニズムの言説に惑わされて、イスラエルは世界を味方につけようとやっきです。しかし、世界中に嫌われてでもパレスチナにおける民族浄化をやってのけるつもりなのかもしれません。家族や仲間を殺された恨みから復讐が復讐を呼ぶ泥沼を知らないわけではないと思います。その罪の暗闇に世界はこの問題を通して踏み込んでしまっているのを確認することができます。ホロコーストはまだ終わっていないのです。それが、次なる犠牲者を探して、次なる憎しみを世界の各地で生み出しています。イエス・キリストの十字架は、神の子がどこに生まれるかをいつも示す指針でありつづけます。戦争によって金儲けを企む裕福な地域に神の子は産まれません。生まれたとたんに殺されるかもしれない差別の渦巻く状況の中で、最も貧しい家庭に神の子はいつでも産まれます。イエス・キリストは、今はきっとイスラエル軍の空爆によって瓦礫となったガザの町におられるはずです。その居場所を顧みることなしに聖書の真実などを語れるわけがありません。少なくともキリスト教会はそのはずです。ユダヤ教にもシオニズムを嫌う人々はありますし、キリストの教えに賛同する人はさらに大勢います。イエス・キリストのおられるところにパレスチナがあるのですから、私たちは遠い中東を思うばかりではなく、身の回りにあるパレスチナの平和を考えなくてはならないでしょう。「解放の神学」は、精緻な信仰告白によって身動きが取れなくなった教会に、改めてキリストの光を投げかける契機になっているはずです。そこから学んで希望ある一歩を踏み出すことが平和の宣言を公にした、これからの改革派教会に重要なことではないでしょうか。