賛美と祈り

「アルファベットによる詩」と括弧付きで記されていますように、この詩は聖書のいろは歌とでも言ってよい形式が用いられています。日本語ではそれが辿れないので残念ですけれども、およそ2節ずつ区切って読むとよろしいようになっています。必ずしも規則的ではなくて、例えば、2節と3節ではすべての句が「アレフ」という最初の文字で始まっていますし、4節は「ベイト」という2番目の文字で始まって5節にまで続きます。アルファベットが分からなくても、意味をとる分には問題はありません。

ただ、そうして文字を追っていきますと、これが次の詩編10編にまで続いていることが分かります。それで、ギリシア語訳聖書では9編と10編を一つの詩編として数えますから、詩編を数えるときの番号が違っています。そうすると詩編全体が150編に一つ欠けることになってしまわないかと心配もしますが、終わりの方で147編が今度は二つに分割されていますので、150の帳尻は合うことになっています。

アルファベット歌という特殊な形式に力を注いでいますので、その制約から語彙や内容には特別な工夫が凝らされているわけではありません。多くのフレーズは他の詩編とも共有されているもので、私たちが同じような祈りの言葉を自然に繰り返すようになっていくのと似ています。ここではダビデが「わたし」と個人の祈りをささげていますが、その言葉遣いからしても決して私的な特殊な状況だけを問題にしているのではないことが分かります。これはダビデによって祈られたイスラエルの共同の祈りです。また、ダビデの背後におられるキリストを思ってこの詩を読みますときに、私たちを代表して、私たちのために祈られた祈りであることも分かります。

表題にある「ムトラベン」は、「息子の死のために」などと訳することも出来ますが、おそらく、今となっては分からない音楽的な指示です。2節から始まる歌の本体は、11節までが天の王座に座しておられる神の裁きをほめ歌う賛歌です。そこにダビデが神に信頼を寄せる根拠があります。見方を変えれば、それはダビデの信仰告白です。12節と13節は、その信仰告白に基づく民への呼びかけで、ここに9編の中心が置かれます。主を賛美することが、世界に神の御業を告げ知らせること、つまり世界宣教に結びつきます。それは、貧しい者たちに「神は見捨てておられない」との福音を伝えることです。14節からの後半は、「憐れんでください」との嘆願の言葉に導かれて、「立ち上がって下さい」との緊急の呼びかけに至る、救いを求めての祈りです。

こうして、ここにあるのは一つの詩でありながら、賛美であると同時に祈りであり、神への救いを求めつつも同時にそれが信仰告白になっています。私たちはそれらを礼拝における諸要素として区別して考えますけれども、『詩編』にあってそれらは切り離しがたく一つに結び合った、神にささげられる言葉です。大切なことは、賛美を歌う時も、信仰告白をする時も、祈りをささげる時も、私たちの心は一つであるということです。聖霊を宿した心で、神に向かって言葉を発していることです。

天の裁きに服する世界

ダビデは「心を尽くして」神に感謝と賛美をささげます。詩編にあって感謝と賛美は同義語で、神に救っていただいた恵みを喜んで、有難いと言い、それを素晴らしいと言葉に表します。そこにダビデと神との近さがあります。知らない神に向かって賛美をささげることは出来ません。あるいはそういう畏怖心が、偉大な自然や宇宙に差し向けられることが世の中にはあるかも知れません。けれどもダビデは、そうした世界がすべて神の御業によるものと知っています。神が創造なさった世界のことばかりではなくて、その中に引き起こされたイスラエルの救いをも知っています。それを単に知識として得たばかりではなく、そうして救われて神と契約を結んでいただいたイスラエルの中に生きています。その近しい関係にあって、賛美をささげ、祈りをささげます。

そのほめたたえの中で見上げる神は、天に御座を構えておられる永遠の審判者です。そして、その神の御前で永遠の裁きに服しているこの世界のことを思います。人間は神の裁きに抗うことができません。歴史を振り返れば、多くの民が国を起こし、滅びて行きました。イスラエルに敵対したカナンの諸民族は歴史から消えて行きました。アモリ人も、アマレク人も、ペリシテ人も全ていなくなりました。イスラエルを度々苦しめた東の大国も、一つの時代が過ぎ去れば消滅しました。エジプトも、アッシリアも、バビロニアも、そして後にはローマも、それぞれの役割を終えて歴史の舞台から去って行きました。「盛者必衰のことわりをあらわす」というのでしょうけれども、ダビデはそこに神の裁きを見ています。

 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。(6節)

 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。(9節)

人が歴史から学ぶのは「盛者必衰のことわり」なのですけれども、そこには隠された「神の正しい裁き」があります。つまり、神は「逆らう者を滅ぼす」お方です。そして、「敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去り」(7節)ます。神だけがそのような裁きを公平に行うことが出来ます。選ばれたイスラエルだけが贔屓にされているわけではありません。彼らもまた、神に逆らって滅ぼされかけた歴史をもっています。国としては実際に滅ぼされたことを聖書が伝えています。

ダビデは神の名を借りて、自分の名誉を求めて、諸国の民の上に君臨しようというのではありません。むしろ、聖書から真の神を知り、その御業を知って、自分が何者であるかを知らされて、神の僕となりました。徹底的に服従するその低さから、天の高みにある義の裁きを思い、そこにダビデは自分の信頼の根拠を置いています。何故なら、神は公平な方であって、虐げられている人の側に立つ方であると知っているからです。

 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。

 あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。(11節)

貧しい人の希望

ダビデは自分の罪や弱さを知って、自分自身を貧しい者の一人に数えています。本当に心からそうすることのできる人には、神は「砦の塔」となって逃れ場になってくださるお方です。「あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」(11節)「貧しい人の叫びをお忘れになることはない」(13節)とは、ダビデを通して訴えられる信仰者の確信です。ダビデという固有の人物が置かれた状況に関わらず、世界には貧しい人々が溢れています。これは文明社会が内に宿す罪の構造です。つまり、貧しい人々がいないと富める者たちが生きてゆけません。

今世界のグローバルな経済構造の中で格差が広がっているのは、それを一つの原理として採用してしまっているからでしょう。そこで、乏しい人、貧しい人は、努力しなかった人と判断されて、自己責任の内に放置されてしまいます。本当に自分に責任があるわけではない、それぞれの出生や生い立ちについても、自己責任の範疇に押し込められてしまう。そこで有利な地位を与えられている者は大胆に不正を犯しても見逃されているのに対して、低い地位に追いやられている市民は厳正な監視のもとに置かれてしまう。政府が上から目線で語る「子どもを飼い馴らせ」などという酷い言説が公然とまかり通ってしまいます。

そんな世の中の大きな構造に対して、見捨てられた人々は力をもちません。けれども、天を見上げて、真の裁き主であるお方を知っているダビデには希望があります。

 異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。

 主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり

 神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。

 乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。

苦しい忍耐の時期を長い間過ごさねばならないかもしれません。けれども、聖書は神の裁きを語り、イスラエルの歴史にはそれが刻み込まれています。そして、天の神との特別な関係にあって知らされている真理は、永遠の裁きについてです。たとえ人の目で見てどんなに合法であり、どれほど緻密な論理で正当化が主張されたとしても、思い高ぶって隣人を虐げる罪が神の目の前で同情を買う余地はありません。13節に、「主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる」とあります。ここは別の訳も可能なのですが、ともかく「血の報復」がここに訴えられている。『創世記』9章6節に、「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」とある通り、人間の命には神の保障がついているわけです。

人間であることを知る

戦争の記憶が失われつつある今の時代に、私たちの社会もまた戦争を容認する動きへ進んでいます。憲法を改正して何をお手本に新しい政策を打ち出し、戦後70年の日本社会に踏み出そうとしているのか、その中心となる価値観が見えません。ただ、ひたすら米国社会にあるマイナス部分を見習って同じ病に取り憑かれようとしているとしか思えません。貧しい人々を奴隷化するようなグローバル企業の悪知恵に、まるで政治家たちは太刀打ちできないで、社会のあちらこちらに分裂を引き起こしているのが今の米国社会です。

「立ち上がって下さい」と私たちも祈らずにはおれません。神の裁きを恐れることのない思い上がった世界が方向を見失って壊れかけています。今日の詩編は次のように締めくくられています。

 思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。(21節)

ここで祈られている「人間にすぎない」ことへの気づきは、8編にあった驚きとはまた別のものです。神の崇高な存在に触れた時の驚きという点では一つのことですが、ここでは「人間にすぎない」とは、「人間は神ではない」ということでしょう。「自分自身を知れ」とはギリシアの哲人たちが常に覚えてきた託宣だったはずです。しかし、そうした知恵をも今の世界は完全に忘れてしまったかのようです。宗教が第三者的な立場から観察されて、それを生きることの真実が尊ばれないことも関係するかも知れません。人間が人間であることを知ることは、人間の知恵の根本的な命題であって、命をモノとして分析する他はない私たちの時代は、グローバルな反知性主義に見舞われているとさえ言えるのではないかと思います。

カルヴァンは『キリスト教綱要』という大著を、「人間を知ることは神を知ること」と述べて、キリスト教の真理について語り始めています。私たちは改めて聖書に学んで、人間を知ることにも心を砕いていかないといけないのかも知れません。アウグスティヌスは、人間を知るということは謙遜になるということだ、と明快な解説をしている、とカルヴァンが紹介しています。神を知るということは、神の御前に自分が造られた存在であることを知って謙遜になること。そして、神に生かされている小さな命が、キリストの贖いに預かるほど愛されていると知らされて、私たちは自分自身の本当の姿を知らされます。

「思い知らせてください」とは踏み込んだ意訳です。原文では「知るように」です。語るものがなければ、聞いて知ることもできません。ですから、ダビデは「語り伝えよう」と宣言し、また「告げ知らせよ」と呼ばわっています。聖書を通じて天の神の真実と、貧しい人々への福音を知らされた私たちは、贖われて神のものとなった自分を知っています。ですから、世界が諦めてしまわないように、祈りと賛美によって貧しい者への希望を、ダビデと共に、キリストと共に、語り続けたいと思います。

祈り

天の父なる御神、私たちは今、かつての戦争が引き起こした痛みを記憶から失って、再び愚かな振る舞いに立ち戻ろうとしている節目にさしかかっていますけれども、どうか、あなたの御前にへりくだって、世界を正しく治めるための真の知恵をいただくことができるように、為政者たちに働きかけてください。あなたの御言葉に信頼する世界の教会が、心からの賛美と祈りをささげて、主イエスがおられるところに共に立つことができるよう励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。