夜空を見上げて

神の偉大な創造をほめたたえながら、儚いながらも特別な栄誉を与えられている人間の命に感謝を表す、心打たれる小さな詩です。表題にある「ギディト」が何を意味するのか分かりませんが、ギリシア語訳ですと葡萄踏みの、収穫の祭で演奏された曲を指しているようです。どのような音楽であったか想像もできませんが、2節と10節にある会衆賛美に囲まれて、司式者による信仰の告白が祈られています。4節に、天を仰いで月と星を眺める様子が描かれますから、おそらくこれは夜の礼拝ではないかと思われます。月や星を眺める歌などと言いますと日本的な風情さえ感じますけれども、そうした情緒とはまた違う、スケールの大きさと洞察の深さがこの歌の特徴です。

神の創造を想って圧倒される感動が歌われる一方で、ここに人間の救いがかかっており、計り知れない慰めがあることも見逃せません。3節がそうした理解の鍵になります。

 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。

「幼子、乳飲み子の口によって」で読点が打たれていますから、これは前の2節に続けて読むようにとの指示です。これは『新共同訳聖書』の解釈ですが、ここは本文の読解が難しいところで、訳にも諸説あります。私は『岩波聖書』などに倣って、3節で一区切りにして理解します。「幼子や乳飲み子」という最も力のない人間の口が、神をほめたたえることによって、驕り高ぶる仇や敵に報復される、ということです。あるいは、この「口によって」ということの意味は、彼らの嘆きを神が聞いて、ということを意味するものかも知れません。旧約聖書では「幼子・乳飲み子」という言葉の組み合わせは、虐げられた者の代表者としてのみ用いられます。例えば、『サムエル記上』15章3節では、サウルに率いられたイスラエル軍とアマレク人との戦争に際して、「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」と預言者が命じています。「子供も乳飲み子も」と同じ言葉で出てくるわけですが、彼らはまずもって戦争の犠牲者として覚えられます。『哀歌』2章11節ではこうです。

 わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。

 わたしの民の娘が打ち砕かれたので

 わたしのはらわたは溶けて地に流れる。

 幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。

バビロニアによってエルサレムの都を滅ぼされた民の嘆きがこう歌われています。ですから、「幼子、乳飲み子の口によって、あなたは…敵を滅ぼされます」と詩編が歌うときには、無残にも失われた無垢な魂のことが想い起こされつつ、神が偉大な力で義を果たすことが願われている、と理解することができます。そうしますと、神の正しい裁きと敵への報復を祈る、前の7編とのつながりも分かります。

夜の礼拝に参加して、天の星空を仰いで思うのは、人の手の届かないところにある月や星をお造りになった、神の御業の大きさです。『創世記』に記された天地創造の御業をも思い返す時に、神の力は他に何者も比較し得ないほど圧倒的です。

 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。

 月も、星も、あなたが配置なさったもの。(4節)

この夜空の向こうには果てしなく広がる宇宙がある、ということは、古代の信仰者たちは知りません。天には穴が空いていて、そこから水が漏れると雨になり、そこから天井の光が漏れ出すと星になる、などと昔の人は素朴に考えました。けれども、天体についての私たちの知識が広がれば広がるほど、神の「指の業」も果てしなく大きくなります。

神と人との関係

星空を仰いで圧倒されるような経験は、都会に住む私たちには殆どないかも知れません。私は大学時代にワンダーフォーゲル部に所属して、日本のあちらこちらを旅しながら、大きな自然に親しむ機会がありました。山にのめり込んだきっかけは、1年生の時に連れて行かれた夏合宿で、1週間に亘る北アルプス縦走を行った時の体験でした。最初に取り付いた山は白馬山でしたけれども、大雪渓を登って山小屋付近の幕場にたどり着いた頃はすでに夕暮れ時でした。湿地に薄く棚引く靄の中から顔を覗かせる山野草は神秘的で、そこに徐々に夕日が射して一面が橙色に染まってきました。尾根へ出よう、と先輩に連れられて、荷物を置いて山頂に向かって少しばかり登ると、そこからは初めて見る壮大なパノラマが展開していました。陽が沈む方を見下ろせば、一面の雲海が紅く染まって今しも太陽を飲み込もうとしていました。上には雲ひとつなく、尾根の反対側に向けて空は美しいグラデーションを作って濃紺へと移り変わり、その中に一際明るく輝く月と一番星が、次は自分たちの出番だと言わんばかりに天の頂点を目指していました。その場に無言で佇んで、暫くそのパノラマを眺めながら、私はそこに「神の指」を感じ取りました。

同じ夏に、初めて上高地から穂高連峰を目指しました。桂川の緑に包まれながら、涸沢を目指してしばらく黙々と上り詰め、夏の登山客を多数集めた広大な雪渓にテントを張りました。雪遊びを楽しんで夕暮れになると、穂高の峰々に囲まれた幕場はテントの灯りを除けば真っ暗になり、山々のシルエットの上に星空が広がりました。その山行では生憎私は眼鏡を忘れてしまっていて、その空の様子にしばらく気がつきませんでした。夕食の火を囲みながら、隣にいた先輩が、見てごらんといって眼鏡を貸してくれたのですけれども、そうして上を見上げれば、隙間がないほどにびっしりと夜空を埋め尽くした星々が、まるで天から降ってくるようでした。流れ星が頻繁に空のキャンバスの隅々を横切って行きました。「人間は何ものなのでしょう」とは、その時は思い浮かばなかったのですけれども、今この詩編を読みますと、いつも山で経験した、その時の感動を思い起こします。

天体を含めて大自然は古くから人間の崇拝の対象でしたから、自然の威力や美しさに感じ入って畏怖の思いを抱くのは、人類の共通した経験に違いありません。「人間は何ものなのでしょう」と自分の小ささを覚え、命の儚さをもそこで感じ取って、それらを神々として崇めます。しかし、真の神を知るダビデはそれら地球の自然も天体も神の作品であることを知っています。すべては神がお造りになったと『創世記』が記している通りです。ですから、彼は自然を恐れるのではなく、その背後におられる創造主の偉大さを仰ぎます。そして、その偉大な方が、自分のような小さな人間に目を留められて、「わたしたちの主」となってくださったことに感動を覚えています。

神を知ることと人間を知ることはコインの両面です。偉大な神を知ることによって、人間の小ささ・儚さを私たちは知ります。そこで抱く畏怖心は、意志も感情ももたない自然を前にした時の無念とは違って、偉大な力が意志を持って小さな自分と関係をもっていることに目覚めた感動です。

人間の栄誉と尊厳

そこにダビデは人間の尊厳を見出します。これもまた御言葉に教えられてのことです。

 神に僅かに劣るものとして人を造り

 なお、栄光と威光を冠としていただかせ

 御手によって造られたものをすべて治めるように

 その足もとに置かれました。(6、7節)

「神」とあるところは、「神々」とも読めますので、これは天使をさすのではないかということが古くから問われましたが、ここは『創世記』に記された人間の創造についての記事を指すものと思われます。ですから、6節は人間が神のかたちに創造されたことを語るものでしょう。『創世記』1章27節にこうあります。

 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

人間の命の尊厳は、神のかたちに作られたところにあります。ですから、それを貶める者は、神を汚すのであって、神に敵対する者です。天体を運行するような自然の力には対抗できない、小さな人間の命ですけれども、その一つ一つには神の尊厳が与えられていて、栄誉が備わっている。

神の偉大さと人間の卑小さだけを比較すれば、義人ヨブに進言した友人の次のような言葉にもなります。

 どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう。月すらも神の前では輝かず

 星も神の目には清らかではない。まして人間は蛆虫/人の子は虫けらにすぎない。(25章4−6節)

預言者イザヤもまた、神を畏れず、驕り高ぶる人間の様を見て次のように語ります。

 主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。

 主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。(40章22節)

けれども、神がお造りになった人間は人間であって虫けらではありません。人間が自分を貶めて虫けらにしてしまうのは、神の創造の内にある栄誉を顧みないからです。そうして卑屈な争いの中で、自分たちの命を虚しく潰えさせてしまうのが人間世界の罪深さです。確かに人間の命は限りがあり、その運命を自分で定めることもできない、儚いものかも知れません。しかし、神は、み言葉を通してイスラエルに次のように語っておられます。

 わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。

 なぜ、あなたは恐れるのか/死ぬべき人、草にも等しい人の子を。

 なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ/天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ

 滅びに向かう者のように/苦痛を与える者の怒りを/常に恐れてやまないのか。

 苦痛を与える者の怒りはどこにあるのか。

 かがみ込んでいる者は速やかに解き放たれ/もはや死ぬことも滅びることもなく/パンの欠けることもない。

人間の命は罪によって虚しくされています。神が創造の時点でお与えになった栄誉は、もはや損なわれて、汚されてしまっています。けれども、神はそれでも御自分のかたちをもった人間に関心をもっておられて、ダビデが驚きをもって呼ばわったように、「御心に留めてくださる」「顧みてくださる」お方です。神は創造主であられると同時に、慰め主です。虫けらのような人間を、罪の悲惨から救って、ご自身の元で神のかたちを回復してくださる。栄誉ある命を与えてくださるお方です。

被造世界を治める務め

神のかたちに造られた人間には、それ故に初めから与えられている尊い務めがあります。それは神のお造りになったすべてのものを、神の代理者として治めることです。それ故の冠が人間には与えられています。

 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

 羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。(7−9節)

「海路を渡るもの」とは、聖書に登場する「レビヤタン」「タンニン」「ラハブ」のような海獣を指すのでしょう。ここでは、すべて命あるものが意図されています。この人間の務めについても、『創世記』から知らされています。先ほど引用した1章27節の前後にこうあります。

 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 … 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

地上のすべての生命を支配する者として、人間が暴君として振舞うのか、神の僕として使命を忠実の果たすのかは、私たち次第です。キリスト教が環境破壊の源のように言われるのは、文明を背負ってきたキリスト教社会もまた、神の使命を正しく受け取り損ねて、暴君となってしまったからです。しかし、神は決してそのようなことを教会に許している訳ではありません。天地創造の時、神はすべての生命をお造りになってこれを祝福されました。そのすべてが輝いていて、神の栄光を表していました。人間もそこで特別な栄誉を与えられて、神の喜びであったわけです。それを貶めたのは人間の罪です。動物も魚も植物も虫けらも、神がそれらを祝福されて、生命の秩序を与えていたものを、人間が己の欲望に従って、取るに足らないものにしてしまっています。

和歌山県太地町のイルカ漁が世界の環境保護団体から追及されて社会問題化しています。先日も世界動物園水族館協会からの要請があって、追い込み漁によって捕獲されたイルカを水族館は購入しないことに同意しなければ、今後協会から日本の水族館を外す旨が通達されました。太地町のイルカ漁については「ザ・コーヴ」というドキュメンタリー映画にもなって世界で知られるようになっています。そうした動物保護団体のエキセントリックな主張は、日本の文化を理解しない西洋人の不当な差別だとして和歌山県も訴えています。日本でも賛否両論があると思いますが、西欧の先進国にしてもゴリラやチンパンジーなどの霊長類を捕獲して動物園に送っているだろうと、反対者たちは不当だと言うわけです。確かに、鶏や羊や豚や牛は家畜だから食用にしてよいけれども、イルカやクジラはダメだと言っても、論理は一貫しないでしょう。事の善悪は和歌山県だけを俎上に乗せても測られませんから、世界の食肉文化をどう評価するかという未来に向けての大きな取り組みの中でしか論じることはできないはずです。私たちは知らないで肉を食べていますけれども、近年、米国の食肉工場を取材したドキュメンタリー映画も現れて、これもまた世界に衝撃を与えています。

こうした問題についても私たちが立ち返るのは、神の言葉である聖書です。聖書は肉食を禁じてはいませんから、ここの問題について直接的な回答を得るのは困難です。けれども、私たちが考える出発点を聖書は明らかにしてくれています。神がすべての生命をお造りになり、これの支配を人間に委ねられたのは、それを自由に消費して良いということではさらさらなくて、神の祝福に相応しく命を守るために他なりません。祝福とは、創造については、端的に増殖を表します。神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」との言葉で祝福されました。種の絶滅は自然の成り行きだと私たちは考えているかもしれません。しかし、それが人間の横暴によって一つの種が地上から消え失せるのだとしたら、それに対して私たちは神の御前にどう申し開きをするのかが問われます。

人間の栄誉は罪によって汚れている。だから、仕方がないと開き直ることは私たちにはできません。なぜなら、神は真の神のかたちをもつイエス・キリストを通して、その汚れた栄誉を回復して、神の子として冠をいただかせてくださったからです。その冠に相応しい務めもまた、私たちに回復されています。

祈り

天の父なる御神、あなたを忘れた世界の営みは、あなたの創造を破壊し、自分の尊厳をも貶める、愚かで悲惨なものですけれども、あなたはこれを見捨てることなく、キリストを通して救いの道を備えられ、私たちを栄誉ある命に招き返し、この世界をも御自身の祝福へと回復されようとしておられます。どうか、私たちが主イエスとともに、あなたの偉大さに近づき、神の子として生かされている誇りと尊厳を保ちながら、命に祝福を与えるあなたの御働きに仕えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。