義の神を讃える

これまでの講解説教の続きから『サムエル記』に入る前に、しばらくダビデの詩編を学びたいと思います。この第7編は正義の神を讃える歌であり、その神の義に訴えるダビデの祈りです。1節の表題に、これが歌われる際の設定が記されています。「シガヨン」とは演奏のスタイルか、歌の種類か、と考えられますが、正確なところは分かりません。また、「ベニヤミン人クシュ」という人物も旧約聖書からは知られません。詩の内容からして、ダビデの苦境が訴えられていますから、ベニヤミン人であったサウル王のことが暗示されているのではないか、という意見もありますが、これも確かなことは言えません。タルグムと呼ばれるアラム語訳の本文では、これをサウルの一族に属するゲラの子シムイとしています。それは、この詩が『サムエル記下』16章に記された出来事とよくマッチするからでしょう。16章5節以下を少しお読みします。

ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」(5〜8節)

ダビデは息子アブサロムに王座を奪われて、部下とともに都を落ち延びて行く途上にありましたが、そこに前王サウルの身内のものが現れて、激しく呪いの言葉を浴びせかけました。ダビデは最後までサウルに忠実に仕えた家臣でしたけれども、それを理解しない者たちから恨みを買うことになって、誹謗・中傷・迫害に耐えながらの逃亡生活を余儀なくされました。そうした言われのない責めに苦しんだダビデの祈りとしてこの詩を読むようにと、私たちはこの表題から導かれます。そして、次のように祈りが始まります。

 わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。

 わたしを助け、追い迫る者から救ってください。

 獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から

 だれも奪い返し、助けてくれないのです。 (2〜3節)

「魂」とは「命」と理解してよいでしょう。獰猛な敵の悪意に取り囲まれて、誰の助けも期待できないところで、人は絶望する他はありませんけれども、ダビデはそこで「わたしの神」である「主」に唯一の望みをかけます。

「避けどころ」とは「逃れ場所」「避難所」です。ここにダビデと主なる神との親密な関係が伺えます。小さい子どもであれば、怖いことがあれば、父親や母親のふところに飛び込むのだと思います。私の場合は祖母でしたけれども。何事にも動じない人でしたので、祖母は無敵だと子どもの頃は信じていました。それは一番近くにいて心を許していたからですが、ダビデにとっては、それが主なる神でした。神を心から信じる者には最後のぎりぎりのところでもまだ逃れ場がある、ということを私たちはここから教えられます。祈りが逃れ場となることについては、人生の苦しみを経験した人々の間で共感が得られるのではないかと思います。しかし、聖書が教えてくれるのは、そうした行き場のない思いが人間の心の内に祈りを生じさせるということではなくて、そこに救いの神がおられるから祈ることのできる恵みであり、慰めです。

神の法廷に訴える

そして、この詩では、敵の手を逃れて駆け込んだ場所が主の法廷とされています。実際には神殿であったのかも知れません。4節から6節は、主なる神の前でなされた潔白の誓いです。もし自分が不正に手を染めていたならば、敵に滅ぼされても当然です、と訴えています。ここから、ダビデは主なる神に同情を求めているのではないことが分かります。単に温情にすがろうというのではなくて、神の公正な裁きに訴えているわけです。

正しい裁判が行われることこそ、力のない者が最後の頼りとするところです。ところが人間の社会では裁判が権力者の手に落ちて不正な裁きがまかり通るようなことになってしまう。力ある者がその特権を笠に着て、弱い者を虐げ、食い物にするような世の中で、公正な裁判にも期待できなくなる時には、弱い者にはもはや地上に逃れ場はありません。そうした救いのないところで仰ぎ見る神は、人間とは違って唯一の正しい裁きを行うことができるお方です。

 主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり/憤りをもって身を起こし

 わたしに味方して奮い立ち/裁きを命じてください。

 諸国をあなたの周りに集わせ/彼らを超えて高い御座に再び就いてください。

 主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください

 お前は正しい、とがめるところはないと。(7〜9節)

神の怒りを知る

「立ち上がって下さい」「起き上がって下さい」「奮い立って下さい」と、ダビデは神の積極的な裁きの介入を強く願います。神は世界の裁き主であって、何人たりともその前に申し開きをすることができないことをダビデは知っています。10節に「あなたに逆らう者」と訳されている言葉は、「邪な者」「悪人」です。不正な裁きによって人の命を踏みにじる悪人は、神に逆らう者であって、そのような悪に対して神は激しい怒りをもって臨まれることを、ダビデは聖書の律法から、またイスラエルの歴史的な経験から知っています。

自分自身の罪に苛まれている状態で、神の怒りを望む人はありません。しかし、不正義によって大切な人が傷つけられ、自分自身も苦しめられる中で、人は自分に対する裁きを恐れることなく、真実が明らかにされ、神の裁きが下ることを心から願うようになります。「義に飢え渇く人は幸いである」とイエスが山上で語られた時、そこには神を見失った世の中で、愛もなく冷たく見捨てられた人々が、世界の滅びを願って祈っていたかも知れません。

私たちがそういう人々から遠く離れている時に、聖書がこうして語る「神の怒り」は煩わしいものであるかも知れません。神は慈しみ深く愛と慰めに満ちておられる方で、人のどのような罪も赦してくださる寛大な方だと、聖書は一方で語っています。それで十分ではないか。地獄の裁判官のような神を引き合いに出して信徒を威嚇するのは教会の不徳であると言わんばかりの言説が、キリスト教会の中でまかり通ったりもします。確かに、私たちが神に成り代わって、自分自身を高みにおいて、社会の不正を糾弾したりするのは、神に対して高慢の罪を犯すことにもなりかねません。けれども、もし私たちが、不正の中に捨て置かれて、呪いの言葉を吐きながら義に飢え渇いている人々に共感できず、近づこうともしないでいるならば、聖書でご自身を明らかにしている神からも遠いところにいると言わざるを得ません。ダビデは「神はわたしの盾」(11節)と神を心から頼りにしていますけれども、その神は「正しく裁く神、日ごとに憤りを表す神」であって、「逆らう者を災いに合わせて滅ぼす」お方です。

先週の日曜日(5月17日)に、沖縄で米軍基地移設に反対する大規模な集会が行われました。3万5千人もの参加者があったとのことで、翁長知事の下で沖縄市民が結束しつつある姿が鮮明に映し出されました。沖縄に対する全国的な関心も高まりつつあります。この反対運動は単に辺野古の美しい海を守る為だけではありません。日米安全保障条約の下で米国の軍事基地とされてきた沖縄が、これまで味わってきた屈辱に対する、やるせない思いから、いよいよ立ち上がったことを意味します。20日の訪米前の記者会見で翁長知事は次のように述べました。

 今回の普天間基地のあり方ですが、日本政府は「普天間基地の危険性除去が原点」と言っております。新辺野古基地が「唯一の解決策」と言っています。しかし沖縄から言わせますと、普天間基地の原点は戦後、住民が収容所に入れられているときに、米軍に強制拠出させられてできています。何も貸したわけではないんです。沖縄は今日まで自ら基地を提供したことは一度もございません。普天間もそれ以外の飛行場も基地も、戦後、沖縄県民が収容所に入れられているときに取られたか、住民が住んでいるときはブルドーザーと銃剣でどかして家も壊して、今の基地はすべてできている。だから、自ら土地を奪っておいて、県民に大変な苦しみを今日まで与えておいて、「普天間基地が老朽化したから、世界一危険になったから、お前たちが負担しろ。辺野古が唯一の解決策だ。それが嫌なら代替案があるのか。日本の安全保障をどう考えているのか。沖縄県のことを考えているのか」という話がされている。私は、日本の安全保障や日米同盟を考える上で、日本国の政治の堕落ではないかと申し上げている。… 70年前に10万人も沖縄県民が亡くなった。講和条約で、あれだけ日本国に尽くした沖縄をさっさと切り離して独立してしまった。残された沖縄は27年間、無国籍人で過ごしてまいりました。万が一の時は、沖縄はまた切り離されるのではないかという恐怖心を持つのは当たり前でして、日本政府は「日本の防衛」という視点からしか発信しない。そういった中で、中央では一切無視されていますので、本土の方々にご理解を得るすべがない悔しさはあります。(ハフィントン・ポスト5月22日)

今、西部中会では中会設立70周年記念宣言を出す為の準備をしています。神学校の袴田先生を初めとする委員会が立てられて宣言文の起草がなされていますが、その素案を中会の議場で協議する中で、甲子園教会の吉田隆先生から、西部中会には地域に固有の課題として沖縄に対する取り組みがあるはずだとの指摘がありました。沖縄には那覇市に改革派教会がありますから、確かにこれは西部中会の領域にはいるわけですが、そこを基点にした宣教の課題として、私たちがそうした重荷を負った沖縄とどう関わるのかということは本来ならばもっと関心をよせてもよかったのではないかと思います。それを宣言文にどう盛り込むのか、盛り込まないのかは別にしても、沖縄の苦しみを前にして、私たちの教会はどこに立っていたのか。主の十字架はどこに立っておられるのか、ということが改めて西部中会にも問われるのではないかと思います。

福島の原発事故についても同じことが当てはまります。放射の汚染が私たちの日常生活に与える影響を恐れることだけで、私たちは反原発などの運動に関心を持つのではないと思います。むしろ、事故によって被爆した人々が放置されたまま、まるで影響がなかったかのように扱われて、沖縄同様に結局見捨てられることになっている現状に対して、私たちは痛みを覚えます。東京電力を支えて経済界を救う為には骨身を惜しまないけれども、被災した市民への保障はもったいないから最小限に抑えたい、という現政府の立場が支持されている現状にあって、私たちはどうするのか。信仰者として、キリスト教会として、どこにキリストの十字架を見るのかがやはり問われます。

私たちはこうした現代の社会にあって、この詩編の中で正義の神に訴える、義に飢え渇く人の叫びを聞き、また15節以下にあるような呪いの言葉をも聞きます。

 御覧ください、彼らは悪をみごもり/災いをはらみ、偽りを生む者です。

 落とし穴を掘り、深くしています/仕掛けたその穴に自分が落ちますように。

 災いが頭上に帰り/不法な業が自分の頭にふりかかりますように。(15〜17節)

わたしを裁いてください

ダビデは10節の後半以下では神の正しさについてこう述べています。

 心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。 心のまっすぐな人を救う方…

つまり、神を前にして誰も隠し事をすることはできない。私たちの心の奥底まで神はご存知である全能の神である。そういう神に向かってダビデは、9節ではこう訴えます。

 主よ、裁きを行って宣言してください、お前は正しい、とがめるところはないと。

ここは日本語らしく意訳されていますが、原文ではこうです。

 わたしを裁いてください、主よ、わたしの義にしたがって、

 わたしの完全さにしたがって、わたしを(裁いてください)。

「わたしを裁いてください」と祈ります。その意味は、神の正義を示してくださいとのことに違いありません。けれども、私たちは聖書の歴史書から、ダビデ王もまた罪を犯して神の憐れみにすがった一人であることを知っています。そして、私たちもまた、ここで祈るダビデのようには祈れません。もしも神が私たちの心の内をご覧になるならば、その正しい裁きによって滅ぼされずに済むものは誰もいないからです。

私たちは聖書の全体を考えて、ここに神の特別な配慮が隠されていることを見ないわけには行きません。私たちが自分の罪を思う時、「わたしを裁いてください」と今、自分の正義に頼って祈ることができません。けれども、新約聖書の福音を通して、私たちはこのダビデのように祈ることのできる方に出会います。罪のないお方であった御子キリストであるならば、ここでご自分の完全さに訴えて、神の正しい裁きを願うことができます。

そして、神はこの祈りに答えてくださいました。神は虐げられている者たちのために、決定的な裁きをなさいました。神はこの世界の悪に対して直接的に手を下されました。その裁きとは御子イエス・キリストの十字架です。十字架は世の不正の中で生きる人間に対する最後通牒です。罪ある世界全体がそこで滅ぼされなかったのは、キリストが十字架の上で裁きを負われたことで、一定の猶予が与えられたからです。罪なき者を亡き者にする自らの不正を認めて、神に立ち返るならば赦しが与えられます。そうでないならば自分もまた十字架を覚悟しなくてはならない。

不正によって苦しめられている人々にとって、神の猶予は我慢ならないものかも知れません。しかし、虐げられている人々もまた神の前にあって罪人です。罪は、虐げる者も虐げられる者もともに滅ぼしてしまいます。キリストの十字架は神の怒りと正しさを世界に突きつけていますが、イエスがそこで死んだのは、この世の不正の中で死に脅かされた人々に望みを与えるためでした。イエスは死んで滅びはしませんでした。三日目に復活されて、神の栄光をお受けになりました。たとえこの世界で人間の尊厳が踏みにじられて惨めな生涯を終えることになったとしても、神に認められた人間には栄光が約束されています。この世界では今という時間をものにした人間が「勝ち組」を誇ります。しかし、神に創られた人間としての尊厳と栄光を最後に勝ち取るのは神の子イエス・キリストです。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。(『マタイによる福音書』5章6節)

神を恐れずして、不正を用いてまで富と権力を欲した者たちが、あのローマの百人隊長のようにイエスの十字架を仰いで悔い改めるならば、虐げられていた人々もこの世にあって苦しみから解放されます。悔い改めない者たちには滅びが定められています。キリストは今も教会を通して、神の正しい裁きを世に伝えるように弟子たちを召しておられます。

イエス・キリストを知らなかったのであれば、私たちは沖縄や福島の現実に打ちのめされてしまいます。あるいは日本の指導者たちは、歴史とはどうせ勝ち組が勝手に書いてきた偽りにすぎないのだとか、人間は所詮悪いのだから人生勝ち逃げに越したことはないとかのシニシズムに囚われているのかもしれません。しかし、神は聖書からご自身の義を示しておられます。神の内では裁きが定まっています。イエス・キリストの十字架を見上げて、罪の赦しを受けて生きるところから、一人の人間も、また世界も救われます。

ダビデの歌は、神への感謝と賛美で閉じられます。未だ見ぬ、キリストの救いを神の内に信じて、希望をもって祈りを終わります。私たちは不実なこの世界の中で、自分の罪や弱さをも抱えて生きなければなりませんけれども、福音に示された主イエスの十字架と復活を信じていますから、これからも神が必ず救いを果たしてくださることに希望を持っています。キリストのおられるところに自分も共に召されているとの立ち位置を確かにして、ダビデと共に神をたたえることを忘れないでいたいと思います。

祈り

天にいます父なる御神、あなたが正しいお方であることが、私たちにとっては計り知れない慰めです。私たちはあなたの御前に潔白であることはできませんけれども、あなたは憐れみ深いお方であって、御子キリストに裁きの権限を御委ねになりました。どうか、私たちが主の十字架に頼って、悔い改めに生かされ、あなたの御旨を行うことができるようにしてください。そして、私たちの伝える福音の力によって、サタンに苦しめられている人々を罪から解き放ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。