神が遠くに感じられる時

この10編に表題がないのは、先の9編からの続きであるからです。アルファベットの後半がこの詩に続きます。1節では、苦しみの中で神が遠く感じられる時の嘆きが訴えられます。

 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。

天におられる神と地上にある私たちとの間には、本来越えがたい距離があります。しかし、神は救いの神であって、旧約のイスラエルにご自身から近づいて来られました。モーセの律法を介して結んだ契約と、神殿で行われる礼拝が、天地を創造された偉大な神が共にいてくださる近さをいつも感じさせてくれていたはずです。そんなイスラエルの民にも、苦難の時が訪れます。それは信仰が試練に晒される時です。苦しみが長く続いて救いが見出せないような時、神との間の距離が果てしなく広がって、人々の心からも生活の中からも神の姿が見えなくなってしまいます。「隠れておられる」とあるところは、本来、「眼を覆う、耳を塞ぐ」という意味です。私たちの側で神を見失っている、ということよりも、神が私たちを見放してしまっているのではないか、と訴えているわけです。本当にそうであれば救いはありませんが、ここにあるのは諦めの嘆きとは違って、私の声を聞いてくださるとの信頼を尚も失わないで神に向かう祈りです。

神に逆らう世界

9編に続く本編の特徴は、神に逆らう者たちの描写が克明で、カルヴァンを初めとする注解者たちは「世の中を写す鏡」だと言っている通りです。昔の日の教会と現代の教会を比較すれば、信仰者がかつての日に感じ、体験しなかったようなことは今日の我々にも何一つとして起こらない。誘惑が信仰をぐらつかせ、神の子らが勇気を失うことのないように、目を上げてこの鏡を見ようではないか、とカルヴァンは勧めます。

「神に逆らう者」と、ここで訳されている語は、「正しい者」「義人」と対になる「悪人」を意味します。聖書を通じて知らされる善悪の判断基準は神ご自身にありますから、悪人とは「神に逆らう者」です。そうするとキリスト教信者ではない者の全てが「悪人」ということになりますが、ここでは倫理的な側面が前面に出ていますから、まずその点に注意を向けるべきです。

キリストの福音から知られる神は、確かに愛と赦しの神です。しかし、同時に神は悪を正すお方でもあります。最初に訴えられているように、もしも神が悪には無頓着で、その仕業に目を覆っておられるとすれば、苦しむ人々に救いはなく、神は世界を見捨てておられる、ということになるでしょう。

神に逆らう者が心の中で何を考えているか、が、この詩の中に繰り返し述べられます。まずは6節、

 わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない…

「平和ボケ」などという言葉がかつて頻繁に言われましたけれども、ここにあるのは自分の状況に満足してしまっている慢心、そして根拠のない自己確信です。「ブレない」生き方は見た目にはカッコよく思われますが、どのような基盤にブレないのか、その内容をよく確かめもしないで、ただ自分で自分を保持するために「ブレない」でいるのは単なる虚飾であるかも知れません。「災いに遭うことはない」と思っている矢先に破滅が訪れた、と聖書はイスラエルの歴史に託して何度も語っています。

11節にはこうあります。

 神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない…

『新共同訳聖書』は10節と一続きの文にして、これを「不運な人」の言葉にしていますが、確かにそのようにも読めるのですけれども、多くの注解者はこれを「神に逆らう者」の言葉としています。「神は忘れ、み顔を隠し、永遠に顧みない」から、何をしても大丈夫だ、との言い草です。これが13節にある「罰などはない」との言葉に続きます。「罰などはない」とは意訳で、原文通りに言えば「神は追及しない」です。

神が居られるということについては聞いているので、このような言い草にもなるのだろうと思います。初めから神の存在を否定しているのとは違うようです。けれども、神は自分のことなど関知していない。罪を犯しても問われやしないとうそぶくのですから、実質的には神はいないも同然です。ですから、4節にあるように「何事も神を無視して企む」。ここは原文では「彼の企てのすべてに神がおられない」です。神に逆らう者たちは、「神はいない」とする慢心からすべての悪に流されていってしまう。あるいは逆に、すべての悪には「神はいない」とする人間の驕った思いがある。『詩編』14編によれば、ここに世界全体を覆う人間の愚かさがあります。

  神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。

  人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。(1節)

「神を知らぬ者」との訳は、これも『新共同訳聖書』の婉曲的な訳で、元の言葉は「愚か者」です。

 こうして善悪を裁く神を恐れない人間が、自分の欲望を誇り、貪欲をたたえ、貧しい人々を食い物にするために策略を用いている。その恐るべき企みの影で、貧しい人々、不運な人々、みなしごなどの、力のない者たちが、まるで神なき世界に生きているかのように虐げられている。

内田樹さんはグローバリズム経済の席巻するこの世界は、「株式会社化」していると言います。つまり、国境を超えて発展する多国籍企業の目的は、株主に利益をもたらすことにあります。利益が生じないならば切り捨てる他はない。ですから、利潤のためにあらゆることを犠牲にするシステムを社会に構築するために、政治・医療・経済・教育・産業・メディアのあらゆる分野を吸収して成長します。そこには、一個の人間を尊ぶ価値観などは入り込む余地がありません。世界の人口の1パーセントに満たない大企業の株主たちに富をもたらすために、残りの99パーセントがしのぎを削って生存競争を繰り広げます。米国における医療産業や日本における原子力産業、世界の軍事産業の発展の影で見捨てられていく人々を脇に見やりながら、人間の命の価値は今、ほとんど戦時下にあるのと同じほど貶められてしまっています。

 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

 村はずれの物陰に待ち伏せし

 不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。

 茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ

 貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。(7−9節)

現代ラテン・アメリカを代表する詩人であり、ニカラグアで司祭となったエルネスト・カルデナルは、1970年代に中米で行われた解放運動の中で、この部分を次のように翻訳しました。

 正義は スローガン

 彼らの新聞に出す宣言は 虚偽と欺瞞

 彼らの言葉は 一連のプロパガンダ 抑圧の道具

 彼らのスパイ網が 私たちを取り囲んでいる

 彼らの機関銃が 私たちを狙っている

 (エルネスト・カルデナル『深き淵より-現代の詩編』29頁)

こうして今の時代に置き換えて翻訳してみますと、『詩編』の言葉は実にリアルです。カルヴァンが「鏡」というのも頷けます。しかし、私たちにそのように読む感性と霊性とがありませんと、その現実味も分かりません。

孤児を顧みる神

神をいないとしてしまう世界の中で、貧しい人々が見捨てられています。どうしようもないんだという諦めの中に捨て置かれた人々が、この日本にも、福島や沖縄に多数あります。しかし、神と人との間に立つダビデは、諦めないで祈ります。

 立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。(12節)

神はいないのではありません。天の神にはご自身で定めた時があります。神を侮って、人を食い物にする世の中に対しては、終わりの時に裁くものがあります。力のない者たちもまた、「神に見捨てられた」とか、「神はいない」という世の思いに囚われて、生きる希望をいとも簡単に潰されてしまいます。けれども、人間の吐く言葉のうちに永遠のものなどありません。真実は、私たちの思いを超えたところにあります。

この詩編が訴える神は、「みなしごを助ける神」です(14節)。また、「みなしごと虐げられている人のために裁く神」です。「みなしご」とは、夫を失った寡婦や、故郷から離れて異国に暮らすようになった寄留者と共に、聖書を代表する弱者です。親をもたないみなしごたちを、神が養ってくださる。神はこの世界の周辺に押しやられた弱い者たちを見捨てる方ではありません。その苦しみは常に神の御前にあって、嘆きの声は聞かれています。悪人の罪が力をもって一時の間、世に暗闇をもたらすことがあります。しかし、ダビデの祈りが神の御旨と一つになる時に、裁きは確かに実現します。信仰者は、それを信じているからこそ諦めません。祈りつつ、忍耐しつつ、救いの時を待ち望みます。

神が「みなしご」を顧みるのは、本当は、私たちすべての人間が、神から見れば「みなしご」だからです。罪を犯して創造者である神を離れ、それぞれ自分の思いに従って、親である神をいないことにして済ましているのが、私たちの世界です。そこで頼る者なく、真実を求めることをも諦めてしまって、自分の欲望のリアルにだけ突き動かされて、命を虚しくしてしまって、行き着く先は虚しい滅びだけです。そんな世界に、神は御子キリストを送られました。貧しい者の希望であった救いでしたが、それは、世界のすべての人々へのメッセージです。イエス・キリストは『ヨハネによる福音書』の中で、弟子たちに対して「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言いました。ご自身を介して、神のもとに引き戻してくださって、神の子としての立場を回復させてくださるとの約束です。それが、ダビデの祈りに答えて「立ち上がった」神からの答えです。

神は今も「貧しい者たち」「みなしごたち」に心をかけておられます。しかし、その神の配慮をこの世にあって実現して行くのは私たちです。私たちは世界の現状を憂いて、なすすべもなく祈りに向かうところもあります。「神に委ねる」ということを今日の詩編も教えてくれます。しかし、神は主イエスを通して、すでに行動しておられます。先に引用したカルデナル司教は、故郷のニカラグアを離れて米国で修道生活を送る中で、自分の心の中にある「核爆弾」に気がついたと言います。私たちは自分で直接「神に逆らう」ような行為に手を染めていなくても、この世界の繁栄を享受する中で、心の内に「搾取」を抱え込んでしまうことがあるのだと思います。神がキリストによって働かれるのは、人の心を通してです。み言葉の戒律によって外側から縛ることでは人間は変わらない。キリストが自分の血を流して、命を捨てて買い取った、罪人の命を新しくするという、内側からの働きかけが、神の御旨を実現します。心の内なる「核兵器」を取り除くのは聖霊です。その内的な変革こそが、虐げられている人のための裁きを実現します。

キリストによって備えられた道を通って、力はなくとも信仰に生きた者たちが、もはや命を脅かされる危険のない神の国へ入って行くようになりました。そこに決定的な解決があり、そこに世の人々を招くことが神による伝道の働きです。しかし、神はこの世界を見捨てておられるのではなく、主イエスと共に神の子とされた私たちによって、霊による支配、愛によるご自身の王国を終わりに向けて目指しておられます。

 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。(16節)

その終わりの時には、もはや異邦人はいません。世界は神のもとに回復され、すべての人が主イエスと結ばれて、神の愛のもとに包まれます。その終わりに至る途上にあって私たちは生かされ、選ばれて、主イエスの居場所を指し示す指標とされています。神をいないとする世の力に屈して、信仰と希望と愛を失ってしまわないように、神の力に頼りながら、世の貧しい人々、虐げられている人々と共に立つ教会でありたいと願います。

祈り

天の父なる御神、私たちの暮らすこの世界の混乱をあなたはご覧になっています。考えることにおいて、語ることにおいて、行うことにおいて、創造主であられるあなたの御名を汚すことばかりですけれども、怒ること遅く憐れみ深いあなたはこれを支えて、人々が立ち返るのを待っておられます。どうか、苦しみの中にある人々を助け、今ある困窮の中から一日も早く救い出してください。また、あなたを見上げることをせず、自分の思い通りに世界を動かし、利用しようとする人々の奢りを打ち砕いて、これから未来に生きる子どもたちのために平和な場所を備えてください。教会にあって主のもとに集う私たちが、み言葉に示されたあなたの御旨こそを尊び、それを生きることができるように、忍耐と希望をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。