主の祈りの中にあります、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という嘆願の原型とも言える詩編です。これは、3編~7編までの一連の詩編と共通しています。多くの注解者が、これを「病者の嘆願」に分類していますが、カルヴァンの指摘にもありますように、この祈りの背景にある苦しみが、「病気」という苦難に限定される理由はありません。これまでと同じように、敵の圧迫がありますから、敵に追われたダビデの状況を想い起しながら、でよいと思います。表題にある「ダビデ」は歴史的な著者ではなくて、想定された著者と言ってよいでしょう。神の民の代表であり、執り成し手となり得るダビデの祈りとしてこれを読み、模範とすることが表題によって求められているわけです。そのような祈りとして注解するのはカルヴァンです。今日の他の注解者たちは、詩編を無名である一人の詩人の経験に直接結び付けてしまいますので、今日の私たちには同調しやすい解釈ではありますが、詩編もまた、神の言葉であることを等閑にしてしまう傾向があります。この6編も、詩人の弱さに同情するだけでは真の慰めは得られません。むしろ、弱さの中で祈るダビデの信仰に近づくようにしなくてはならないと思います。ダビデは、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りを、苦しみから逃れたいという一心で祈ることよりも、キリストがすでに勝利しておられることに信頼しつつ、来るべき救いの完成のために祈ることが祈りの慰めであり力だと、教えています。
全体として6編は、「個人の嘆きの祈り」に分類されますが、この歌に特徴的な点を取り上げながら、ダビデの祈りを学びたいと思います。
2節で並行して述べられていますのは、神の怒りに触れて赦しを願う祈りです。「罪を犯した」との告白がありませんが、身に降りかかった災いを神の責めと受け取る信仰には、悔改めが含まれていると見なすこともできます。そこで、カトリック教会は、この詩編を「痛悔詩編」の筆頭に挙げています。けれども、「責めないでください」「懲らしめないでください」との用語は、教育的な意味合いで用いられる言葉です。ヘブライ語の辞書を引きますと「ディシプリン」と出ています。つまり、神からの懲罰や訓戒がダビデに与えられているわけです。そこで、この嘆願の内に罪の自覚を読みとることができないわけではありませんが、むしろ、災いを神からの試練と受け止める信仰の表れです。
災いに遇うと神を否定するのが人の常ですが、ダビデにとってそれは信仰が呼び起こされる機会です。ダビデは苦しみの中で神に助けを呼ばわりますけれども、終りの9節に至りますと、「主は聞かれた」と言って、突然祈りが聞かれた確信が現れます。多くの注解者はこれに驚いて、「一体詩人に何があったのか分からない」などと書くのですが、それは何も驚くことはなくて、ダビデは初めから確かに神を信じているのです。主から試練を与えられて、その厳しさの中で率直に自分の弱さを告白しますけれども、その告白は独り言ではありません。神がそこにおられて、私の嘆きを聞いておられる、のです。「主よ、主よ」と、ダビデは繰り返し主の名を呼んでいます。主は、ダビデと契約を結んでおられる神ですから、そのように呼ぶことができます。そしてダビデは、その主の御手の中で苦しみを経験しているのです。
苦しみの経験は誰にとっても本当のものであって、私は信仰者だから決してへこたれない、などとタカを括っては居られません。苦しいときは本当に苦しい。7節には、涙の海を泳ぎ、ベッドが涙で溶け出す程だ、とあります。それは、詩文ならではの叙情を湛えた表現でしょうけれども、そうしてダビデは涙を流しながら、ありのままを訴える。そのとき、神は、私の弱音をそのまま聞いていてくださる。ここに、神と結ばれた者の特別な慰めがあります。
試練の中で、微笑んでいる神を想像することは殆ど困難です。もし、想像するならば、神は恐るべきサディストになってしまいます。しかし、カルヴァンも言うように、「神の本来の職務は病める者を癒し、打ちひしがれた者を立ち上がらせ、弱い者を支え、要するに死せる者を生かしめること」ですから、試練には神が与えた何がしかの理由があります。カルヴァンは、多くの場合に、それは神の前にへりくだりを求めるために与えられる、と指摘します。確かに、私たちは心から神の前にへりくだることがなければ、神を知ることはありません。神を神として確かに知る、ということは、私たちが死すべき人である、ということに気がつかされることですから、へりくだりと信仰とは一つです。
心のへりくだりが肉体の衰えに伴うことは、ホスピスの患者さんたちの事例から知らされます。田村先生が話しておられましたが、癌だと知らされて末期医療に訪れる患者さんたちは、身体の衰えと同時に自分の弱さを始めて受け入れるようになって、神に対しても心が開かれてくるそうです。神は癒し主、罪人を憐れむ神であられますが、私たちの心が様々な苦難によって打ち砕かれたとき、始めてそのことに気がつかされます。
ダビデは、ここで、私の嘆きを言葉にしてくれています。人から責められたり、病にあって、悲しみに沈むとき、言葉にならない私の呻きを詩編は言葉にして、主のもとに届けてくれます。疲れ果てて祈れないようなときも、詩編の言葉が私たちを導いてくれます。詩編は私たちの執り成し手ですから、私たちもこの言葉をもって祈る時、ダビデと共に次のように述べる事ができます。
まことに、主は聞かれた、わたしの泣く声を。主は聞かれた。わたしの願いを。
問題の解決は主のもとから来ます。それを待ちながら、主なる神を私たちの悩みの聞き手とすることができるのは幸いなことです。
祈り
天の父よ、あなたは私たちの祈りに耳を傾け、私たちの深い嘆きや悲しみを心に留めていてくださいます。私たちは尚も頑なで、自分は何者でもないのに自分の足りなさを嘆き、あなたの訓練を軽んじます。どうか、御前にありのままの自分の姿を認めることができますように。へりくだって、あなたの憐れみに依り頼むことができますように。そして、あなたを信じて平安な心をいただいて、解決を待つことが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
