第1編は『詩編』全体への導入として置かれた、いわば序文にあたる働きをしています。主題は神に従う義人の道を神に逆らう悪人の道と対比させながら、神に従う人の幸いを扱いますが、2節に表される「主の教え」がそこで最も重要な言葉です。

主の教えが彼の悦び、その教えを昼も夜も唱えます。

「教え」とは「トーラー」という言葉で、私たちに親しい語を用いますと、「律法」とも訳されます。「律法」という言葉には、新約聖書での批判的なニュアンスが含まれますから、ここでその語を用いますと私たちの理解も複雑になります。ですから、本来の意味合いである「教え」がよろしいかと思います。どちらにせよ、それは主がイスラエルに託して、これを守るように命じられた契約の言葉を指します。後にはそれがモーセ五書を表すようになりますが、『詩編』1編ではその意味を限定するのは困難です。あるいは続編に含まれるシラ書のように、トーラーは知恵をも含むものになるかも知れません。ともかく、1編では、そういう語を『詩編』自体に当てはめようとしているようで、この後に続く『詩編』を「昼も夜も」、つまり、一日中いつでも唱えることを勧めます。それが義人の道を導きます。

1節から順に辿りますと、「幸いです」との呼びかけからこの歌は始まります。これは主イエスの「山上の説教」にも用いられた「幸いである」という呼びかけと同じものです。私たちは『詩編』から主イエスの言葉遣いを学ぶことができます。ここでは、幸いな人とは、悪人の仕業に加担しない人だと言われます。三行からなる並行句でそれが述べられていますが、ここには人を悪の道に誘う仕方が現れます。まず、悪人ですが、これは神に背く者のことです。ある事柄を悪とする基準が世の中の常識のような人間の判断にあるのではありません。「悪人」とは神の教えに背き続ける「罪人」です。どちらもここでは複数で述べられていますから、それは集団をつくります。

三行目では「軽蔑する人々」、と、より具体的にその有り様が示されます。人を見下す人々、弱い者をあざ笑う人々です。新約聖書に、「兄弟を馬鹿者と呼ぶな」とありますが、これは聖書では重大な教えです。それは、ここで言う「蔑み」に相当します。新約時代に並行するユダヤ教においても、隣人の誇りを傷つける名誉毀損は、最大の躓きの一つに数えられます。例えば、嫌いな同胞を宴席から締め出した、という些細ないさかいが、結局はローマ軍によるエルサレムの崩壊を招いた、というような古い説話が残されています。「馬鹿」のひと言が、民族の破滅を導くこともある。そういう広がりで、ここの「蔑む人々」も読むとよいと思います。そしてこの集団の者は「助言」を与えたり、「道」を説いたり、「座」を囲む交わりをもっていて、知恵をもって唆すわけです。神に背く知恵者の集まりがあって、それが人を誘惑する。すると、人は傲慢になり、人を蔑むようになってしまう。そういう人々の交わりに加わらないことが幸いな人の道です。

積極的に言えば、先に2節で見たように、罪人の誘いではなくて、主の教えに学ぶことが幸いに至ります。主の教えが喜び、楽しみであって、いつも口にその御言葉がある。ここには、御言葉を愛する人の告白があると見なすことができますが、この点で、『詩編』1編は119編とも共通します。そこから、1編が始まりであり、119編が終りである、とみなす見解もあります。

義人の道に示される具体的な教えの内容はここに記されません。ともかく、主の教えに従って歩む義人の道は神の祝福に続き、主の道に背く悪人の道は最終的には滅びに至る、とこの詩は教えています。自然をモチーフにしたその二つの道の対比は、3節と4節に鮮やかですが、ここに終末のモチーフを見てとることもできます。「運河」とは人工の灌漑用水路を指す言葉ですが、このような河はエデンの園のイメージともつながります。水際でよく手入れされた木のイメージは、創造の最初の風景であると同時に、終末時の民の姿でもあります。エゼキエルの幻や『ヨハネの黙示録』に描かれる天上の都エルサレムは、命の水の流れる都です。

風に吹き散らされる籾殻には、逆に神の裁きに散らされる罪人の儚さが表れます。籾殻はパサパサに渇いていて中身がありませんから、簡単に吹き散らされてしまいますし、箒で掃き集められて最後は燃やされてしまいます。ここには大国に蹴散らされて焼かれてしまったイスラエル民族の歴史的な経験が反映しています。悪人といっても他人事では済みません。神に背いた生き方は本当に儚い、ということは旧約聖書の根底にある実体験です。結論として述べられるのは、主なる神が義人の道を知っておられ、人との交わりをもっておられるということですが、それゆえに義人が生かされ、悪人の道は滅びに至ります。ここでより確かなのは、おそらく悪人の道の方でしょう。今述べましたように、それはイスラエルがすでに経験済みだからです。主の教えに背いて、滅ぼされてしまった経験をイスラエルは深く心に刻んでいます。ですから、『詩編』全体の序文としておかれたこの詩が、義人として生きるために、主の教えにひたすら学ぶことへと全ての信仰者を招きます。

主の教えを悦び・楽しみとするのは、そこに貧しい者への福音が示されていて、主の憐れみが溢れていることがわかるからです。そして、その言葉が真実であるとの信仰があるからです。義人は神の憐れみなくしては義人たり得ません。神が義としてくださるのでなければ、誰も義人にはなれないからです。私たちは神の憐れみによって義とされて、主の教えを心から喜ぶようにさせられます。神の言葉が真実だと信じることができて、それを唱えることの楽しさが分かります。私たちはキリストを通して御言葉の真実を悟り、聖霊に促されて主の教えに従います。信じて『詩編』を口にするとき、私たちはその楽しさ・喜ばしさを体験します。籾殻のようであった命に、御言葉が実を実らせてくださるのをそこで確かめることができます。

真の義人はイエス・キリストをおいて他にありません。『詩編』はいつでもイエス・キリストのことを証します。ですから、私たちは、わたしの主、わたしの神であるキリストを信じて、『詩編』から学びつづけて、その歌を口ずさむものでありたいと思います。それは、私たちの信仰生活を豊かな水際に導いてくれます。

祈り

父なる御神、『詩編』の御言葉は、主イエスが私たちのために用意してくださった義によって、私たちの上に成就しました。私たちは罪の故に、御前に悪人であり、罪人であり、兄弟姉妹を蔑む愚かさから逃れられませんけれども、主イエスを信じる信仰によって私たちは赦されて、あなたの教えを喜ぶことができます。どうか、私たちを悪の道から遠ざけ、主イエスの道を歩ませてください。神であるあなたを愛し、隣人を愛する歩みを最後までなさせてください。そのためにも、聖書の言葉を口ずさむほどに、御言葉から豊かな学びをさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。