詩編はこの第2編から第72編を大きなひと区分として、「ダビデの祈り」がそこに集められています。1編が詩編全体の序文をなすのであれば、続く2編はその「ダビデの祈り」への導入です。1編と2編は互いに関連付けられていて、2編の最後に置かれた「幸いです」との一句が、1編同様に会衆への「招き」として働きます。そういうわけで、2編もまた序文として置かれていますから表題がありません。そしてここにも、詩編全体に関わる大きな主題が与えられています。この詩は、エルサレムに新しい王が即位したことを告げる歌です。祭司によって油を注がれた王がエルサレムの王座に着く時に、王国には新しい時代が到来します。この詩では、その新しい王の即位式の場面が描かれます。
お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。
7節のこの言葉は、サムエル記下7章にある、預言者ナタンに告げられた神の約束を背景としています。
あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。(12−14節)
ダビデ王朝による統治が行なわれたユダ王国では、預言者ナタンを通じて与えられたこの契約に支えられて、「主に油注がれた」王をいつの時代も迎えることができました。王の世代が移り変わるとき、国は新しい時代に入ります。その王の名をもって一つの時代が画されます。ユダ王国が続いたおよそ340年間は、エジプトとメソポタミアを支配する二つの強大な文明の覇権争いに巻き込まれ、さらにアラムやモアブなどの周辺諸国との戦乱に明け暮れた戦国時代でした。新しい時代を背負って立たねばならない次世代の王は、国民の期待を担ってこうした困難な時代に立ち向かわなくてはなりませんでした。そうした中でエルサレムに新しい王が誕生する。それは「主に油注がれた方」、メシアの誕生でした。
聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた。(6節)
エルサレムは「シオン」と呼ばれます。神がそこから世界を統治する、終末的な展望がかけられた呼びかたです。シオンであるエルサレムに王が即位するのは、国民の総意によるのでもなく、王朝の権力によるのでもありません。主が油を注ぐことによってです。真の神の後ろ楯があってこそ、ダビデの王朝は存続し、王国は保たれます。詩人が歌に託した希望はまさにそこにあります。文明の伝統を誇るのでもなく、兵力の強大さによるのでもなく、天を王座とする方を畏れ従うことにおいてのみ、王も国民も新しい時代に期待することができます。
1節から3節で、詩人は周辺諸国の不穏な動きを捉えます。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」-そういう声が王宮にまで届いています。国王の交代する時期は、周辺諸国にとっては攻め込むための絶好の機会です。こうした緊迫した状況にあって国民も指導者たちも動揺するに違いありません。しかし詩人の眼差しは「天を王座とする方」と共にあって地上の諸国を見下ろします。国々は騒然とし、人々は声をあげ、王は出陣の準備をし、支配者は謀議を巡らします。しかし詩人は、戦争の準備が着々と進められる地上の騒ぎに、「なにゆえ」と呼びかけます。メシアに対する反抗は、真の王である天の神に対する反抗です。地上の支配者たちの反逆は、神の目からすれば空しい騒ぎに過ぎません。神に逆らえば、かえって怒りを買って恐怖に落とし込まれるばかりではないか、と4節からの段落で、詩人は揺るがない神への信頼を語ります。今ここで王位につくお方は、神ご自身が即位させてくださったお方である、と、騒ぎ立つ国々に対して神の警告が向けられます。
7節から9節の段落はメシアによる神の託宣です。ダビデの契約が想い起こされて、王の即位が神の子の誕生として告げられます。王が願うならば、子の願いを父がかなえてくれるように、神は全世界をも彼に与えて下さる。そして逆らう者どもを鉄の王錫で打ち砕くことができる。それは丁度、陶工が土器を粉微塵に打ち壊して、もはや回復が不可能にしてしまう様に似ています。こうした神からの保証が与えられて、王は揺るがない信仰をもって統治に当たります。
最後の段落で、詩人は世界の支配者たちに呼ばわります。「諭しを受けよ」と訳されていますが、7節にある「主の掟」から学ぶことを意図するとも考えられます。それは書物から知識を得るということよりも、歴史を通して、経験によって学ぶことになるでしょう。1編にありましたような、主に逆らう者の儚さを歴史の実体験によって学ぶことは、神の掟に適った訓育ともなります。真の神である主を畏れ、主に仕えることが道であり、幸いに生きる術である、との勧めが、詩編1編からここへと流れ込んでいます。「子に口づけする」とは、支配に服すること。空しい反抗は止めて、神のお立てになったメシアに従うことが、歴史の全体を支配する神の御前で謙遜に生きる道なのです。
メシアによる支配は、畏れと喜びとを同時にもたらします。その裁きを行う権能は恐るべきもので、逆らえば破滅が待っています。しかし、その支配は神の掟にかなった平和をもたらすものであって、主に仕えることは喜びです。メシアの到来は、諸国民の反抗の機会ともなりえますが、神がメシアをお立てになる理由は、諸国の民をも真の神であるご自身への服従へ招いて、「いかに幸いなことか」と歌われる祝福に与からせるためです。
王国時代の政治的な空気をも伝えるこの詩編は、主の民にメシアの栄光と権威を示してきました。しかし、私たちはダビデの王座は政治権力としてはついに終わりを迎えたことを旧約聖書が記す王国の歴史から知らされています。王が敵を徹底的に粉砕するという約束は、国が真の神への信仰を失って王朝の既得権に安住してしまったときには、もはや果されることもなく、かえって諸民族への裁きを自らの上に招くことになりました。メシアの栄光は、神の掟に従っているかどうかが前提にあります。御言葉に背いて王国がメシアの栄光を見ることはありません。ダビデとその子孫への契約は、地上に立てられたユダ王国が世界を支配して強大な帝国となる、という実現には至りませんでした。すべての支配者が目覚め、神の言葉による諭しを受けて、主に仕えるようになる。喜び踊るようになる。そのような幻は、別の道を辿ります。
その道筋は、新約の使徒たちの証言の中に見出されます。使徒言行録4章によれば、神殿で逮捕されたペトロとヨハネが仲間のところへ無事にもどってきた時、兄弟姉妹たちは詩編の第2編を想い起こして、神を賛美し、祈りを捧げました。
主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。(4章24−28節)
また、13章33節を開きますと、今度はパウロがこの詩編を引用して証言しています。
わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、/わたしは今日あなたを生んだ』と書いてあるとおりです。
詩編の歌う主の油注がれた方はイエスであった。「今日あなたを生んだ」と歌われたのは、真の神の子であるイエス・キリストの復活のことであった、と使徒たちは証言しました。ダビデ契約は破棄されたのではなく、地上の権力によるのではない方法でこの世に支配を確立するために、イエス・キリストの新しい契約において保たれます。このお方が新しく即位された真の王であって、神に逆らう敵をもはや跡形もないまでに粉砕される。即ち、イエスの復活によって死が討ち滅ぼされ、力によるのではない、霊による支配がそこから始まりました。信仰を通して復活の主の支配に服するものが、御言葉に従って神を畏れ、救いを喜ぶ人生へと招き入れられたのです。
私たちは、使徒たちと共に、主イエスの業と言葉によって詩編の幻を見ます。力を競い合う地上の空しい騒ぎに組することなく、復活された主イエスを信じて真の王の到来を喜び、天におられる真の神に仕えます。「我らは枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」−神に逆らう罪の声が私たちの耳に届きます。それは私たち自身の内側からも囁く誘惑です。ですから私たちは、いつでも復活された主の栄光を見て、この詩編の招きに応えたいと思います。主イエス・キリストは、私たちのために律法に完全に服従されて、神の支配を完成される救い主です。信じる私たちにとって、主イエスは逃れ場です。鉄の杖は十字架の上で、私たちの罪の上に振り下ろされました。キリストの救いを信じる私たちは、今、赦されています。詩編のことばは、その主のもとに逃れる人の幸いを世界に訴えます。世界の創造者であり、御子キリストによって罪と悲惨に終わりをもたらす方だけが、戦いに疲れ、行き場を失った人々の逃れ場です。復活された主イエス・キリストがすべての人々の逃れ場となるよう祈りつつ、私たち自身、御言葉に従って主の証人とさせられたいと願います。
祈り
天を王座とし、御子において栄光を表したもう父なる御神。どうか、復活の主を仰ぎみて、私たちの信仰が確かなものとされますように、聖霊をお与え下さい。使徒たちに鮮やかに示して下さった御言葉の力への確信を私たちにもお与え下さり、復活された主の御支配を生活の全体において証しさせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。