詩編は信仰者にとって、祈りと賛美の手本です。私たちはしばらく「ダビデの祈り」としてまとめられた詩編から御言葉を聞くことになりますので、「祈り」について共にそこから学びたいと願います。そして、祈ることについて考えて行く中で、互いに言葉を交わす私たちと神との間柄について思い巡らしたいと思います。
この歌は、敵に追い詰められて行き場を失ったダビデの信仰を表すものとして読まれるようにと、標題が付けられています。詩編は信仰者の内面を言葉にしていますので、誰もがそこに自分の心を映して読むことができます。それは詩編の本来の目的に適うことと思います。しかし、旧約の歴史書に記されたダビデの物語と併せて歌を詠むならば、そこには生き生きとした場面が浮かび上がってきます。ひとりの人の実体験が祈りの背景に描かれるならば、詩編の言葉もよりイメージ豊かな生きた言葉となるでしょう。
アブシャロムはダビデ家の三男でしたが、上の二人の兄が亡くなったことからダビデの正当な王位継承者として候補に上がりました。しかし、ソロモンの存在を警戒してか、彼はダビデを王座から追い落とす算段にかかり、クーデターを起こしてダビデとその家臣たちをエルサレムから追い出しました。王宮を離れた一行はアブシャロムの追跡を逃れてヨルダン川を渡り、最後はダビデ軍と反乱軍との戦争になって、アブシャロムはダビデの部下であるヨアブに討ち取られてクーデターは失敗に終わります。逃亡中、かつての王サウルの一族の者が現れ、ダビデを「人殺し、ならず者」と石を投げながら呪いました。また、敵の参謀となったアヒトフェルは1万2千人の兵をダビデ追跡に差し向け、彼を討ち取るよう王に進言しました。これは主の御心ではなかったので実現しませんでしたが、ダビデはこの逃避生活を主からの苦難として受け留め、敵への報復を主の手に委ねました。
そのようなダビデの姿を思い起こしながらこの詩編の言葉を辿れば、そこには敵に囲まれた苦しみの中で、どこまでも主に信頼を置く信仰者の姿が浮かんできます。
ダビデの敵とは誰でしょう。それは必ずしも外からやって来るペリシテ人のような民ではありませんでした。ダビデの場合は自分の息子、そして自分の民が敵となりました。2節にある「苦しめる者」との言葉は、通常「敵」と訳してもよいのですが、自分を攻撃する人々のことです。武器を手にしてとは限りません。ダビデを呪ったシムイのような人物が言葉をもって攻撃することもあります。敵の圧倒的な数もさることながら、その言葉がダビデに絶望を突きつけます。それは、「彼に神の救いなどあるものか」との言葉でした。「神などいない」というならば、それは不遜な発言として退けることができるでしょう。しかし、3節後半のこの言葉は、神を否定するのではなく、救いを否定するのです。神はお前を救わない、というのです。信仰そのものが攻撃に晒されます。
人から責められる事が重なりますと、周囲は皆敵ばかりに思えてきます。健全な人間関係からは締め出されて、疑いと不安の中で死にたいとさえ思うようになります。切羽詰って日常生活さえ侭成らぬ状況の中で「救いがない」のは現実です。しかし、そうした状況に置かれてもダビデは絶望しません。何故ならば、周りの人々が彼の惨めな姿を見て「救いはない」と言ったとしても、ダビデには祈りがあり、祈りに答える主が共におられたからです。救いはこの世からではなく、天を越えた高いところからやって来ます。
ダビデにとって、神は名を知らない誰かではありませんでした。その名を知る「主」でした。主なる神は、わたしの側に置かれた、わたしを守る盾でした。わたしがいかに惨めな姿をしていたとしても、わたしには主という栄光があって、何ももたなくてもわたしは主を誇りとして顔を上げて生きることができました。この信仰がダビデの支えでした。それは彼の強靭な精神が成し遂げたことではなくて、わたしの声が神に届き、「聖なる山から」すなわち、礼拝を通して言葉をいただく、神との交わりによって信仰が支えられていたためです。
六・七節にあるように、ダビデは敵に囲まれていても眠ることができ、また、新しい朝を迎えることができました。主が彼を支えて、守っているからです。ダビデは海辺の砂のような多くの敵を前にしても恐れない、と言います。不安な材料を見てみぬふりをするのではありません。共におられる神が「恐れるな」と言ってくださるからです。もしも神が抽象的な概念か何かであったなら、こうした勇気は沸かないでしょう。神がわたしを支えていることが本当でないと、恐れに勝つことはできません。信仰は、偽ることができないものです。偽っても力がありませんから。
助かる見込みのない世界のど真ん中で、ダビデは助けを求めて叫びます。しかし、それは、絶望の叫びではなく、信仰による希望をもっての叫びです。救いは天から来る。それを信じるから、救いを求めて叫ぶことができます。わたしの神が、主が、わたしをお見捨てにはならない。そして、神を敵に回すことのできる本当の敵は誰もいません。
「彼に神の救いなどあるものか」と人は言うかも知れません。しかし、神は生きておられて、ダビデとの交わりを保っておられました。ダビデは天からの救いを信じて祈りました。そして、恐れを取り除いていただいて、安らかに眠ることさえできました。ダビデが信じたのは、未だ見ることのない、キリストです。そのキリストが、私たちのために天から来られ、罪を滅ぼすために死から「立ち上がった」のです。私たちは主イエスの復活を信じて、今確かに九節の言葉を述べることができます。
救いは主にあり、あなたの祝福はあなたの民に
信仰に支えられて、今週も共に歩んでまいりましょう。
祈り
どんなときにも私たちの希望でありつづける御神、復活された主イエスが私たちの信仰を支え、私たちの日々を支えてくださることを、本当に心から信じることができますように、あなたの御言葉でいつも私たちを養ってください。不安に脅える友を、どうか顧みてくださり、聖霊を送って励ましてください。あなたのもとには必ず救いがあると信じさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。