前に置かれた詩編3編が朝の目覚めの祈りだとしますと、こちらは夜就寝前の祈りです。カトリック教会の聖務日課では、主日や祝日の夜の祈りにこの4編が用いられます。9節の終りの部分を見ますとこうあります。
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。
ここには主なる神への揺るがない信頼が表明されていて、その信仰から来る平安が祈り手を包んでいます。夜、安心して眠れるというのは幸せであることの証拠です。カルヴァンもこのところを注解しながら次のように言っています。
すべての恐れから自由で、いかなる孤独感にも苦しめられることがない、ということが、あらゆる他のものにまさって、われわれの熱望する善であることをわれわれは知っている。 ...内的な心の平安こそは、われわれがこの世にあって想像することのできる万物にまさっている...。
私たちの暮す現代社会はとても複雑で、隣人との関係でいつも緊張を強いられるようなところがありますから、私たちにとってダビデの歌う安らかな眠りは本当に望ましく思われます。
本編の主題は3編から引き続いて「確かな信仰」です。神に信頼する人の平安が歌われます。3篇と同様に「ダビデの歌」との表題がおかれて、この歌は信仰の導き手による祈りの模範として私たちに差し出されています。身内のものを敵に回して逃亡生活を余儀なくされたダビデの受難は、神への嘆願が生じる背景に具体的なイメージを与えてくれます。必ずしもダビデほど深刻でなくとも、私たちにも同じような差し迫った状況が生じた時、ダビデの経験した苦しみを想像しながら、そこで祈られた祈りをここで学んで、私たちは自分で祈る術をここに見出します。
冒頭の2節はそれだけでも独立した祈りになります。
呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ。
苦難から解き放ってください、憐れんで、祈りを聞いてください。
「わたし」を責め立てる敵に囲まれた状況の中で、神に率直に助けを求めます。「わたしの正しさを認めてくださる神」とは、すでに十分に解釈を含んだ訳になっていますが、直訳すれば「わたしの義である神」です。新共同訳の理解では、私が正しいことをご存知である神に、私の正当性を敵の前に弁護して欲しいからそのように訴える、ということになるでしょう。しかし、周囲から訴えられているとき、わたしの正しさがそれほど確かでないこともあります。その場合は、今自分が責められている状況は、身から出た錆び、もしくは神の審きにもなり得ます。おそらく詩人の理解では、「わたしの義」はわたしの所有する義ではなく、神のうちにある義なのでしょう。「私の義を認めてくださる神」ではなく、「わたしに義を与えてくださる神」、もしくは「わたしの義となってくださる神」に呼びかけています。意訳すれば「わたしに責任を負ってくださる神」「わたしを愛してくださる神」としてもよいと思います。
「苦難から解き放ってください」は文脈を考えて原文を読み替えているのですが、ここは文字通り読めば「解き放ってくださった」です。解放されたのなら嘆くこともないではないか、と思われるかも知れません。しかし、祈りは神との生きた対話です。肉にあって苦しむわたしと、霊にあって救われたわたしは一つであって、その一つの祈りの中でわたしは苦しみつつ信頼をもって神に願います。その生ける対話の中にこそ神からの回答が与えられます。
窮まったとき、あなたはわたしを解放されました。
これは、祈る信仰者の根底にある救いの体験であって、神への信頼の源泉でしょう。ここのイメージをよく捉えたいと思います。語のニュアンスをよく汲み取って述べますと、ここで言う「苦難」とは狭いところに押し込められた感じ、敵に追い詰められて逃げ場を失ったような心理的な状況、また現実の状況です。神はわたしのためにそこを「大きく広げてくださった」というのが元の文です。広々としたところを悠々と歩く開放感があります。ダビデはそういう救いをもたらす神を知っていて、信頼を持って神に祈り願います。「信じて祈る」ということを私たちもよく言いますね。月本昭男先生がここで祈りについて次のように解説しています。
神への祈りは、それが切実であればあるほど、神への信頼と切り離せない。神に信頼しない人は神に祈らない。神に深い信頼を寄せればこそ、人は神に向って嘆き、訴え、懇願する。
「神に信頼する」。私の義となってくださって、私を救うことのできるお方がそこにおられる。だから、私は祈るのであって、祈りの中で忍耐し、助けを待ち、しかも、安らぐことさえできる。これが、この詩編で示されるダビデの祈りであり信仰です。
一方で、神への信頼を欠いた祈り、というのもあるかも知れません。それが3節の呼びかけから、また7節、8節から伺えます。「人の子ら」とは、ここは直訳になっているのですが、その意味は「社会的な地位のある人たち」のことでして、いわゆる「人間」というような一般的な言葉づかいとは異なります。「貧しい人々」と対比されるところの、裕福な社会層の人々です。それは必ずしも異教徒とは限りません。先に触れたダビデの状況と重ねれば、それは身内でした。彼らも祈ることを知っているはずです。しかし、その祈りは、「むなしいものを愛し、偽りを求める」ことで、神を信頼するどころか、かえって神を侮辱するものとなります。
「むなしいもの」「偽り」という語は、預言者たちの言葉遣いではよく偶像に対して用いられますが、ここではもっと広く考えてよいでしょう。「空しいもの」も「偽り」も、どちらも救う力をもたず、信頼するに値しない朽ちてしまうものであることを表します。そういう「人の子ら」たちの祈りは、まず、結果を求めます。そしてそれが得られなければ、7節のように「良いことが無い」と諦めてしまう。彼らは豊作が叶って、新しい穀物や新しい酒がふんだんにあるときは幸せであるでしょうが、そうした世の富を頼りにしているがために、神を頼らない。神は自分の生活を豊かにするための道具になってしまっている。確かに、神の祝福は生活の内に具体化するものと、特に旧約聖書では表されています。けれども、神は人の欲を満たすための道具ではありません。そのような扱いを受ければ、神の栄誉が汚されます。いつ、どのように、良いことをもたらされるかは、神が決めておられます。その意志に服従するつもりなくして、魔術めいた祈りで神を動かそうなどという心に、生きておられる真の神に対する信頼も畏れもありません。初めから、神との交わりは成立していないのですから、祈りは神に届いていません。
祈りにおける真の神との交わりは、偽りのない心で神と正面から向き合うことから始まります。それは自分の信心深さがなせる業ではなくて、神がわたしを選り分けてそういう関係に立ってくださるから、成立する交わりです。そうしますと、5節・6節は空しい祈りをささげる「人の子ら」に対するダビデの勧告となります。
おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り そして沈黙に入れ。
生ける神を弁えずに自分の要求を並べ立てる前に、まず、神を畏れて罪を犯すな、というのでしょう。ただ、ここには別の訳もあります。ギリシャ語訳では「怒っても罪を犯すな」となっていて、新約聖書ではパウロもそのように読んでいるようです(エフェソ4章26節)。そうしますと、ここでは特に言葉の罪が問題になっているとみることができます。3編でもそうでした。激情に駆られて暴言を吐いて、同胞を罪に定めたり、神を冒涜するようなことになってしまわないように。或いは、あれが欲しい、これが足りないと騒いだり、これ見よがしな信心深い祈りで自分をたたえたりして、神を偽り者としてしまわないように、言葉を慎むということでしょう。「寝床の上」とは「人間の本音が出る場所」と月本先生が面白いことをいっておられますが、そこは独りになる場所で、静かに自分自身と向き合うことのできる場所です。そこで心のうちにあれこれ語っても口にだしてはならない。「ふさわしい献げ物」とは、直訳すると「義の犠牲」ということですが、ここは、神に求められている礼拝の義務、と理解することができます。沈黙のうちに神への義務を淡々と果す。そういう、神に対する「忠実さ」がここで呼びかけられている。そのような服従の中に、神への信頼がある。こう見てきますと、ここの言葉の背景に、沈黙して自らを神への犠牲として捧げた主の僕の姿が浮かび上がって来ます。そうしますと、主に信頼することとは、主にすべてを委ねてしまって、主から来るすべてのことを沈黙の内に受けとることになります。
「人の子ら」の物質的な要求に対し、忠実な者であるダビデが神から求めたのは、7節によれば「御顔の光」です。わたしの神が、わたしを顧みて、顔を輝かせてくださること。それが、わたしの心の喜びだ、とダビデは語ります。窮まったとき、わたしを解放するのは、私を義としてくださる神の御存在そのものであって、その神がわたしと共におられることが、この世のあらゆる物質的な祝福を越えた祝福である。
そのことを知るときに、祈りはすでに聞かれていて、神の応えが与えられている。祈りの中で、神への信頼に呼び覚まされるとき、それが実に神の答えなのです。これが祈りの奥義、信仰の秘密ではないでしょうか。この詩編から、サムエルを産んだハンナの祈りが分かります。ハンナは苦しめられて、解決をもとめて聖所で祈りました。不平を言葉にせずに、呟くようにして祈っていました。そこで、祭司であったエリは祝福を約束しましたが、ハンナはそれで祈りは応えられたと満足して平安の内に帰りました。祈りの中でハンナが得たのは、主への信頼だったのです。信仰を与えられて、結果を主に委ねて、帰っていったのです。
信じる者たちにとって、主は喜びです。神が慰めです。祈りは聞いていただいている。それで十分です。だから平和のうちに、シャロームをもって、「わたし」は眠ることができます。終りに置かれた一行にある「確かに」という語は、文字通り訳せば「安全に」ということで、敵の攻撃から守られている状態を指します。私たちは自分の力で安全を確保しようとして、かえって言葉の罪を犯し、神から離れて危機に陥ってしまうという弱さがあります。しかし、正しく神を知るときに、私たちは神のもとにこそ本当の守り手を見出すことができます。
神は私たちにイエス・キリストをくださって、私たちを罪の裁きから解放してくださいました。私たちは「もう、罪を犯してはならない」との勧告を聞きながら、忠実に果すべき義務を果たして、神に信頼する僕でありたいと願います。そこで、私たちの主が、何よりも私たちの喜びであるならば、私たちには変らない平安が与えられます。他のものに気をとられると、平和も失われます。主イエスが私たちと共におられる喜びを心に受け入れて、心から安んじて眠ることのできる日々を、私たちも与えられたいと願います。
祈り
ただひとり、私たちの主であるイエス・キリストの父なる御神、御子イエスが私たちの信頼の源であり、私たちの喜びと平和でありますことを心から感謝します。苦しい状況に陥って、心に責めを覚えますときにも、どうか、すべてをあなたの御手から受けて、主と共に耐え忍びながら、あなたの与えてくださる信仰によって平安を得ることができますように。生きておられるあなたの御前に、自らあるがままをいつも悟らされて、あなたの促がしに従い、罪を改め、あなたに依り頼む者とならせてください。今宵も思い煩いに捕らわれて眠ることのできない兄弟姉妹たちを憐れんでくださり、聖霊の助けによってあなたから平安を得させ、安らかな眠りを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。