詩編のダビデは祈りの達人です。私たちは詩編から、ダビデと深い交わりをもっておられる神ご自身について知ることができますが、それと共に、神に向っていかに祈るかという、祈りの方法や祈る言葉について学ぶことができます。詩編は神の民が信仰によって神と結びつくための祈祷書です。祈る言葉をもたない私たちが、ダビデによって祈ることができる、教会の祈祷文集です。

そして、祈りを学ぶということは、祈りの言葉を通して、その心を知ることです。ダビデが詩編の祈りによって私たちに教えてくれるのは、神に信頼する心です。詩編の言葉を自分の口に移しながら、私たちはそこで神への信頼に導かれます。慈しみをもって、私たちの盾となってくださる神を、祈る中で確かに感じ取ることができたならば、私たちは詩編の約束する祝福がどのようなものであるか知るようになります。続けて詩編から学んでいますが、祈る心をここで養っていただくために、詩編の言葉で祈りながらの学びにしたいと思います。

2~3節には主なる神への訴えがなされます。わたしの言葉に耳を傾けてください、という切なる願いです。神は見えない方ですが、見えないから不安な思いで中空に向ってそう訴えるのではなく、「わたしの王、わたしの神」「あなたに」とはっきりと神を知っていながら願います。祈りは、いわゆる「願をかける」こととは違います。願っていればいつかは叶う、というような信心が大切なのではありません。この詩からすれば、それはむしろ法廷に訴え出ることに似ています。正義を司る裁判官に直接申し出ることです。聖書の中から例を探せば、列王記上にこういう話しがあります。

ダビデの子ソロモンが王位についたとき、二人の遊女が彼の審きを求めてやってきました。二人が寝ている間に、一人の幼子が死んでしまった。そこで、残った一人の子を、それぞれ自分の子だと言って取り合っているのです。ソロモンは神から与えられた知恵をもって、本当の母親はどちらかを言い当て、赤ちゃんを母親に返してやりました。「聞いてください」と願うのは、この知恵ある王に訴え出るようなものです。しかも、知恵にも力にも権威にも限界のある人間にではなく、万物の創造者である神に願いを聞いていただくのです。私たちの祈りは、決して相手を知らずに願うのではありません。まして、相手を無視した勝手なお喋りや、言葉の意味もわからずに繰り返す呪文ではありません。むしろ、口をついてはっきり言葉にできなくても、心が神に向いていれば、その言葉にならない言葉を神が聞き分けてくださいます。マタイによる福音書で、主イエスはこう教えておられます。

あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(6章6節)

父なる神に願い求める私たちの祈りは、人に聞かせるためにではなく、神と向き合って、つつましくささげられる言葉です。「あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存知だ」と主イエスは言われます。天の父は、御自分の子らの願いを聞き流さず、つぶやくような小さな声に耳をすませ、「救いを求めるわたしの声」を心に留めておられます。そのことを信じて、すべてのことを私たちは祈りに託して、神の御前に訴えることができます。

4節で、ダビデは朝に祈っています。朝ごとに祈る、毎晩床の上で祈るのは、この詩編が作られた時から信徒の習慣であったことでしょう。日没から始まるユダヤの暦に従えば、朝は一日の始りというよりも、闇から光へと移行する時間です。昼の光の中で神の御業が表されます。朝「主の御前に備える」とは、毎朝神殿に主のためのパンを供えた祭司の働きを想い起させますが、これは特別な職務に限らず、すべての信徒に当てはまることでしょう。朝、主を迎える準備をして、私たちの祈りを聞いておられた神が、これから何をしてくださるのか「待ち望む」。ここで「待ち望む」というのは、原語では「見つめる」ことです。神の恵みに期待して、昼の働きが始まります。

5節にあるのは、朝の祈りの中で明らかになる、神のお姿です。「姿」と言っても顔かたちではなく、完全な義をもっておられる神のことです。神は正しく善い方である。この確信によって、日々の歩みが導かれます。「あなたは邪悪を好む神ではない」とありますが、これは5編の主題の一つです。神は何を喜び、何を憎まれるか。それを知って歩むのが、祈りつつ日々を歩む信仰者の道です。「悪人はあなたのもとに住むことはない」。そして、終りの13節にあるように「あなたは義人を祝福する」。詩編1編と同じく、ここには義人として歩むように召されている、信仰者の道が示されています。

神に厭われる悪の道について、6・7節が述べています。「尊大な人々」とは、自分を誇りとする人々のことですが、神の正面に立たされたときには罪の裁きを前にして立っていることができなくなる。ここでいう「立つ」とは、地に足をつけてしっかりと立っていることですが、自分に思い上がってしまった人間は、神を前にした時に打ち砕かれます。「邪を働く人々」-これは偶像崇拝にも結びつく言葉です。「むなしい活動に従事する人々」とも訳せます。「偽りを語る人々」-この「偽り」も、また続く「流血と欺き」も偶像崇拝を予想させますが、どれも神を無視し、隣人を軽視する人々であることには違いありません。それは、神が憎み、滅ぼし、忌み嫌う人々である、とダビデは知っています。

では、ダビデ自身はどうでしょうか。8節の初めの言葉遣いからしますと、「しかし、わたしは~です」となりますから、わたしは神に憎まれてはいない、と信じています。律法を完全に満たしたかどうかはともかく、わたしが先ほどの人々と異なるのは、「あなたの家に入り」「あなたの聖なる宮に向って跪いて」、真の神に礼拝をささげていることです。それが偽りの、形式的な礼拝ということではないことは、「あなたへの畏れをもって」ということから分かります。心からの礼拝をささげている。8節前半の句は二通りに理解できます。一つは、神の大きな慈愛―これはヘセドという言葉ですが―によって、わたしは神殿に入れていただいている、ということです。多くの注解者はそのように理解しておりますが、ダビデは自分が完全であったかどうかということではなくて、ただ神の憐れみによって、心から神に礼拝をささげる者とされている。そこに、わたしは神から嫌われていないことの証しがある。「悪人はあなたのもとに留まらない」のですが、わたしは現にこうして神の宮に留まっている。

「あなたの大きな慈愛によって」とあるのところのもう一つの可能性は、「あなたへの大きな忠実さによって」とすることです。神のヘセドに応える人のことを詩編では「ハシード」と言いますが、神のヘセドは「慈しみ」ですけれども、人のヘセドは「忠実さ」となります。あなたへの大きな忠実さをもって、わたしは今神殿に礼拝にやってきた、そしてあなたへの畏れをもって、跪く。神に対する誠実な信仰がここに表明されていると見ることができます。そうしますと、11節にある「彼らの大きな背き」が、それと対照的に示されていることも分かります。

ダビデはこうして日々信仰に生きています。しかし、罪を犯して身に滅びを招いてしまう恐れがないわけではありません。道を外れてしまうかもしれない。だから主の導きを祈らざるを得ない。9節の願いはそう理解できます。わたしは主の前に真直ぐな道を歩みたい。それを阻もうとする、足をすくおうとする輩が多くある。そういう毎日にあって、わたしを正しく道に導くのは、わたしが自分勝手によしと判断することではなく、「あなたの義」、神の義に他ならない。神が正しいと認められる基準に従って、わたしが正しく歩むときに、わたしは真直ぐ進むことができる。それは、自分は救われていると勝手に思い込んで尊大になってしまう人の信心ではなくて、あくまで神が御心を表された律法にある義を基準として、そして、神が憐れんで無償で与えてくださる義に頼って、神と共に歩んで行く道です。9節は、キリストの祈りとして次のように要約できるでしょう。「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」。

10・11節では、ダビデの敵に対する呪いが記されます。王の前に訴えられた敵の罪状、というところです。ダビデを陥れようとしているのは、言葉の罪です。3編から共通して現れるモチーフですが、口・腹・喉・舌がすべて偽りを生み出す器官として描かれます。「その口には正直さがなく」とは、確かなこと・本当であることがないということ。「滑らかな舌」は「へつらい」とも訳されます。これが、「あなたの大きな慈愛」もしくは「あなたへの大きな忠実さ」と比較されるとき、思いやりや誠実さを欠いた「陰謀家」たちの態度は、神への反逆であることは明らかです。

たとえ悪人といえども、私たちは呪いの言葉をもって祈ることができるか、という問題は、詩編に根本的なこととしてあります。「彼らを有罪としてください」。私たちはここで、これを自分の言葉とするのに距離を感じるかも知れません。しかし、第一に考えたいのは、ここにはダビデの無念があるかも知れませんが、ここに神の義が表示されていることです。何も起こっていないところで「呪い」は生じません。策略や陰謀、愛の拒絶があるところに、傷ついた魂が叫びを挙げます。神はその声に耳を傾けるお方です。ですから、悪に対する裁きを願う、呪い、もしくは報復の願いは、神の正義のゆえに正当だと認めざるを得ません。次に問題は、そのように悪人の裁きを願いながら、自分自身を免罪しておくことができるかどうかという、わたしの罪と裁きについての問題です。つまりこういうことになると思います。わたしが誰かを傷つけ苦しめたのならば、当然その人の呪いも正しい、神はその祈りを聞かれる、ということです。そこで考えられる結論は、互いに呪いあって報復を図れば、互いに裁きを招いて滅びてしまうのだから、もはや呪うことはやめようということです。恨みや復讐心は良くない。だから、詩編の呪いの言葉も取り去ろう、ということになるでしょうか。「いかに幸いなことか、お前がわたしたちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は」(137編8・9節)。詩編137編の最後にある、この呪いの言葉は、長いあいだ教会では読まないことにされていました。

しかし、呪いは悪に苦しむ人の心です。そこには、義を求める神の心と共通するものがあります。本当に呪いを取り去るならば、その事柄そのものを取り去らなければ嘘です。呪いを消すのならば、呪いを生み出す現場が歴史から消滅しなければなりません。詩編に表示される呪いや報復の願いを、自分を義として他人を裁く邪で安易な正義感に基づくもののように読むことはできません。そこには義なる神の前で苦しむ人々のやむにやまれぬ訴えがあり、私たちはそこに、今もどこかで不正に苦しむ人々の無念を聞き取って、真剣に神の裁きを祈るよう招かれています。その時、私たちも自分の罪の故に裁かれます。神の正義が正しい裁きを世にもたらすようにと祈るのですから、私たち自身の罪も当然裁かれます。詩編にある呪いの言葉は、私たち自身に神の裁きを受ける覚悟を迫るものです。

敵への報復を祈るダビデは、どうでしょうか。今述べたような理由で、彼もまた神の裁きの下にあることは免れ得ません。しかし、彼は裁かれる運命を諦めてしまっているのではなく、唯一の裁き手である神を「わたしの王」としていただいていて、その神の加護の下に置かれて礼拝をささげます。そして、彼の心は、「義をもって導いてください」「わたしの前にあなたの道をまっすぐにしてください」と、神の示す愛と憐れみの道を歩む決心をしています。つまり、悔改める心をもって、彼は神と共に生きています。そして、悔改める心こそ、敵への報復を願ってやまない人の心に最終的に示される神の答えではないでしょうか。悔改める心が、真実に神の道を歩み始めることによって、「義人」が誕生します。ダビデは最後に、義人の祝福について述べています。神は悪からの逃れ場です。そのお方のもとには偽りはありません。そして神の慈しみを信じて、赦しを信じて御前に集う者たちを、神は拒まれません。神はダビデのように、ご自身のもとに逃れてくるものを赦し、義とされます。どのように義としてくださるかは、キリストの十字架に示されます。神はご自分から、ただ無償で義としてくださいます。信じるならば、私たちは「義人」です。呪いの言葉に示された罪の裁きは人間社会全体の上にかかっています。私たちは皆、思いと言葉と行いにおいて、神に「反逆した」のです。そこには、互いに報復を誓い、呪いの言葉をかける怨念が渦巻いています。その中に、赦された義人が生じる。神の憐れみによって、神の正義を求めて生き、祈りつづける義人が現れます。それが、呪いの根源を断つために、神がこの世に送られた、祈りの答えです。

朝ごとに、私たちは祈り、正義であり、善である神の御前に進み出て、昼の光の中へ送り出されます。神は私たちの祈りに応えて聖霊をくださいます。その聖霊が、私たちの心を照らし、神の義であるキリストの御業へと押し出してくださいます。それは、祈りつつ信じて主の道を歩む私たちの毎日です。そこに、嘆き祈る、小さな人々に対する、神の答えがかかっています。

祈り

主よ、まことに、あなたは悪を好まれる神ではありません。正義をもって世を裁くお方です。しかし、わたしたちは、わたしたちを様々に苦しめる悪に囲まれており、また、わたしたち自身の心に宿る罪のために、隣人を傷つけ、あなたを蔑ろにしてしまいます。どうか、御子の十字架による、あなたの偉大な赦しをもって、私たちを真の悔改めに導き、あなたのくださる聖霊によって、主イエスの掟に従わせてください。そして私たちが主と共に義人の祝福に与ることによって、互いに裁きあい、滅びに瀕したこの世の中に、真の喜びと平安と誇りに満ちた場所を指し示すことができますように。主よ、どうか日毎の祈りをもって、私たちの生活を整えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。