マラキという預言者

 『マラキ書』は「十二小預言書」の一つに数えられて、その最後に位置付けられます。私たちの旧約聖書では最後の書物ですから、ここから新約聖書にどう繋がるかという点も興味深いところです。「マラキ」という名前はここにしか登場しません。また、この名前の意味は、「私の使者」であって人の名前らしくありません。3章1節を見ますと、そこで主が「私の使者を送る」と言っておられます。そちらは「マラキ」ではなく「私の使者」と訳されています。ですから、おそらく「マラキ」は個人名ではなくて主から遣わされた無名の預言者を指します。この預言者の素性についても本書からは知られません。

この言葉が語られた時代は、おそらくネヘミヤやエズラが活躍したペルシャ時代です。バビロン捕囚から解放された人々が、エルサレムに帰還して城壁を修復し、神殿を再建した頃です。主から送られてきた預言者たちは生き残ったイスラエルの民を励まして、慰めの言葉を語り、新しく始まる神の御業に人々の心を向けさせました。神殿を再建して神との契約に立ち返り、喜びと希望に溢れた礼拝が再び始まったのですけれども、同時にそれはイスラエルの信仰にとっての新たな試練の始まりでした。

その一端がこの書物から伺われます。『ネヘミヤ記』8章では、エズラが持ち帰った律法が朗読されて、人々は涙を流して罪を悔い改め、祭りを祝った様子が語られました。しかし、そうした感激がその後もずっと続いたのかと言えば、必ずしもそうではなかったようです。もちろん、そうした記念すべき出来事があってこそ、戦後の復興が可能であったわけですが、社会が再び安定を取り戻してゆく中で、人の心もまた変わってゆきました。

マラキが指摘する民の堕落は、例えば3章の次のような言葉に表されます。13節以下です。

あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。(13−14節)

神様なんて信じたって何も良いことがないじゃないか。律法なんて不自由なばかりで、罪を悔いるなんて暗いばっかりで喪に服しているみたいだ。そんな人々のつぶやきが聞こえます。あなたたちはひどいことを言う、と主はお語りになるのですけれども、どんなひどいことを言ったというんだ、と人々は自分で気がついていない。むしろ開き直ってしまっている状態です。神は預言者マラキを通じて、こんな風に人々のつぶやきを取り上げて議論しながら、信仰の立ち返りを求めます。

神の愛と選び

「わたしはあなたたちを愛してきた」と主は語りかけます。出エジプトの救済からこの方、イスラエルの民は神との契約の中に置かれてきました。以来、度々掟に背いて神の怒りを引き起こすこともしたのですけれども、神はモーセを初めとする預言者たちを忍耐強く送り、イスラエルの民を決して見捨てることなく育てて来ました。王国時代には偶像崇拝の罪が熟して、ついに国を失うまでに至りましたけれども、それでも民が生き延びて来られたのは、神が御自身の契約に忠実で、自分で選んだ民を慈しんでおられたからです。ですから、「どのように愛を示してくださったのか」とは、恩知らずな言い草です。つまり、この時、イスラエルの人々は神の愛を信じることができなくなっていたのでしょう。

そうした彼らに対する主のお答えは、自分が選んだのはエサウではなくヤコブだ、とのことです。『創世記』に記されていますように、エサウとヤコブは双子の兄弟です。これが後には、エサウの子孫がエドムになり、ヤコブの子孫がイスラエルになりました。本来、神の祝福を受けるべきは兄のエサウであったのですけれども、神は弟のヤコブに現れて、彼にイスラエルの名を与え、その子孫と契約を結んだのでした。バビロニアとの戦いでイスラエルの国が滅ぼされた時、エドムは混乱に乗じてイスラエルを略奪しました。ヨルダン川の対岸に位置するエドムの山が荒廃させられたのは、おそらくその後でバビロニアがそうしたのだと思われますが、主なる神はイスラエルに手をかけた彼らに報復すると語っておられます。神の選びは神の愛に基づきます。それは人間で言えば結婚に相当します。「どのように愛してくださったの」とは、夫の愛をもはや信じられなくなった妻の言い草です。そんな彼らに預言者は「わたしがあなたを選んだ」と諭します。

軽んじられた食卓

神に愛されていることがもはや感じ取られないところで、イスラエルは神への愛を表すことができなくなりました。6節では、神はご自分を父親に、イスラエルを息子に例えています。また、主人と僕との関係に置かれます。確かに、主は主人です。同時に、愛情を持って子どもを養育する責任を負った親です。ならば、「子は父を、僕は主人を敬う」のが当然です。「父と母を敬え」とモーセの十戒にも教えられている通りです。しかし、そうした尊敬も人々の間から消え去っていました。ここで責められているのは祭司です。しかし、堕落した祭司が幾人かいたことが問題なのではなくて、民が祭司のところに汚れた献げ物をもってくるような杜撰な礼拝に、その当時の人々に信仰の危機が訪れていたわけです。

モーセの律法から教えられることは、神への献げ物には万全が帰されなければならないことです。8節によれば、人々は傷のある動物を献げ物にして持ってきたとあります。これは明らかな律法違反です。例えば、『レビ記』22章には、聖なる献げ物について、次のように呼びかけられています。

主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに告げなさい。聖なるわたしの名を汚さぬよう、イスラエルの人々がわたしに奉納する聖なる献げ物に細心の注意を払いなさい。わたしは主である。(1−2節)

そして、動物の献げ物についてはこう言われています。

アロンとその子らおよびイスラエルのすべての人々に告げてこう言いなさい。イスラエルの家の人であれ、イスラエルに寄留する者であれ、満願の献げ物あるいは随意の献げ物を献げ物として、焼き尽くしてささげるときは、主に受け入れられるように傷のない牛、羊、山羊の雄を取る。あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである。もし、和解の献げ物を主にささげ、満願の献げ物、あるいは随意の献げ物として誓いを果たす場合には、神に受け入れられるよう傷のない牛または羊を取る。どのような傷があってもいけない。目がつぶれたり、足が折れたり、傷ついたりしているもの、こぶのあるもの、できものや疥癬のあるものなど、このような動物を主にささげてはならない。そのいずれも祭壇で燃やして主にささげてはならない。(18−22節)

傷物をささげる人の心理とはどのようなものでしょうか。それはおそらく、ささげるというよりも処分することではないでしょうか。いらないからあげる、という類のものです。そこまでは思っていなくとも、別に食べられないわけではないからいいではないか、といういい加減な思いではないかと思います。「それを総督に献上してみよ」と言います。日本であったら天皇でも構いません。天皇に献上する品として、おそらく切り落としたクズですとか、賞味期限切れのものですとかを持っていく人はいません。それが大変な失礼であることは誰にでもわかるはずです。別に皇室ではなくても、親しい人にであっても、敬意を表すためならばそれなりの注意を払います。

「我々はどのようにして御名を軽んじましたか、あなたを汚しましたか」と祭司たちはうそぶいている。7節は別の読み方も出来るようで、岩波訳ですと、「主の食卓は軽んじられてもよい」というのは民衆の言葉になっています。つまり、献げ物を携えてくる参拝者がそういう姿勢で困る、と祭司たちはつぶやきながら、自分たちは「いつあなたを汚しましたか」と責任を民衆に押し付けている。しかし、神の目をごまかせるものは誰もいません。

「それはあなたたちが自分で行ったことだ」と追及されます。神の言葉にもはや聞こうとせず、心の伴わない形ばかりの礼拝制度がだらだらと続けられるのに、神は忍耐されません。神殿の扉を閉じてしまえ、と言います(10節)。また、「わたしは献げ物をあなたたちの手から受け入れはしない」と献げ物を拒否します。もとより、献げ物とは神がイスラエルのために備えてくださった恵みの制度です。地上の王たちが臣民に要求する貢とは違います。献げ物の動物によって、イスラエルの罪が赦されることになっていました。また、罪を赦された民が神との交わりを喜ぶ機会でもありました。その献げ物によって、聖なる務めに就く祭司やレビ人たちが養われ、イスラエルは神との契約を固く保つことができました。そうした意味を忘れて、「なんと煩わしいことか」と言って礼拝を軽んじることは、神の御名を汚すと同時に、それは救われて今、神と共にある恵みの状態を、自ら放棄することになります。

主の御名のために

5節で預言者は、まだ完全に失われたわけではない人々の信仰に訴えてこう言います。

あなたたちは、自分の目で見/はっきりと言うべきである

主はイスラエルの境を越えて/大いなる方である、と。

イスラエルに愛を注いで来た主なる神は、地上の権力者たちに優って大いなる方であり、世界の上に君臨しておられる方である。そのお方を知っているはずのあなたがたが、なぜ地上の権力にはおもねり、天の神を畏れないのか。これは明瞭な道理ですから信仰者なら誰もがわかっているはずのことですが、実にここに人の信仰の弱さがあるとも言えます。理屈では神のことはわかっているつもりだけれども、心から神を信じて敬うことができない、という状態がある。それが、礼拝においては形に現れてきてしまいます。礼拝は神がお定めになった制度ですけれども、それは決められた通り実行すればそれ済むのではなく、そこに心が伴わなくては意味がありません。罪の告白や讃美や祈りには形式があるのですけれども、それらの言葉は礼拝者の心を導くための手段です。献げ物もそうです。献金もまた私たちの心を形に表したものです。

時々テレビドラマで、神社でお賽銭をささげる場面が登場します。主人公が神社の前を通りかかると、どれお願いでもしてみるか、とポケットから小銭を取り出して賽銭箱に入れ、パンパンと柏手を打って商売繁盛か何かを祈ります。教会での献げ物はそうした気まぐれなものではありません。神に命を頂いた恵みに感謝して、心から神に従う思いで準備したものをささげます。もとより、信仰者にとって献げ物とは自分自身です。パウロが『ローマの信徒への手紙』で次のように述べている通りです。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

献げ物には傷のない完全なものが求められたことは先に律法から確認した通りです。ですから、本来ならば傷のない自分自身を神におささげしなければ、それは受け入れらないはずです。けれども、私たちには傷のない小羊として、イエス・キリストが与えられました。イエス・キリストが私たちに代わって、完全な献げ物として、御自分を神にささげてくださいました。ですから、私たちは誰もが罪のために傷ついているのですけれども、神は御子キリストを通して、私たちを受け入れてくださいます。

私たちの献身を、どのように礼拝において、また献金において表して行くかが私たちの信仰の課題です。真心を形にして行う、ということに全てが掛かっています。形ばかりの習慣は、それなりに意味があると評価する人もありますが、そこに聖霊による刷新を求めてきたのがプロテスタント教会の信仰です。神の愛が感じられなくなり、日々の暮らしだけが頭の中を巡るような日常にあって、私たちは常に聖霊の助けを必要としています。その賜物を常に祈り求めながら、真心からの礼拝をささげて、私たちの父なる神に喜んでいただけるようにしたいと願います。

その私たちの礼拝に、神の御名が置かれていることを最後に加えておきます。

わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている(14節)

と主が名乗りを上げておられます。これが実際何を意味するかは注解者の間で議論されています。世界に離散したユダヤ人たちを通して、真の神の名が伝えられている現実を指すのか、はたまた神の御計画の中にある未来のヴィジョンが開陳されているのか、おそらくどちらもそうなのだと思います。しかし、ここに、イスラエルの民が愛され選ばれた理由があります。神は、ご自分の民によって、真実な礼拝をささげられることによって、御名の栄光を世界に表されます。それがキリストの教会に託されていることです。私たちの真実な礼拝は、全世界の主であるキリストを通して神の栄光が世に現れるためです。そのために、事細かく気を配って、礼拝を整えていくことは、私たちの信仰に相応しいことではないでしょうか。

祈り

全世界の創造主であられ、御子キリストによってこれを治めておられます、天の父なる御神、私たちのささげるものは真に拙いものでありますけれども、あなたは主にあって私たちを召し、これを喜んで受け入れてくださいます。その恵みを覚えて、私たちが自分自身の献身を礼拝に表すことができますように、そして、真心の現れとして献げ物をすることができるように、聖霊の助けを御与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。