預言者ヨナは神の召しに背いてタルシシュに逃れようとしましたが、神は大風によって海に嵐を引き起こし、彼を海中深く沈めました。創造主なる神の力に接して異邦の船乗りたちは命の危険の中で真の神へと回心しましたが、ヨナもまた深い淵の底に沈む死の経験を通して救いの神に立ち返ります。

 さて、海に沈んだヨナですけれども、神は大きな魚に命じてヨナを飲み込ませて命を救いました。大きな魚はどんな種類かと興味があっても聖書に答えはありません。「居心地がいい筈が無い」と書いた注解書がありましたが、魚の内蔵の居心地をリアルに想像してみても物語にはあまり関係はないでしょう。ピノキオの話からクジラを想像しても間違いではないと思います。クジラは魚でないという生物学上の分類についての関心もここにはありませんから。

 大切なことは、この大きな魚は神の任命を受けた道具、もしくは使者であることです。創造主なるお方は自然をご自分の僕として自由にお用いになるお方で、世界を創造された後は、天からそれを見ておられるだけということはありません。神は大風を自由に起こし、大きな魚を潜水艦のようにヨナの救助のために差し向けます。

 ヨナの沈んで行った先は海の最も深いところです。これは祈りの中で確認できます。7節に「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み」とありますが、一見、6節にある大水に飲まれる描写とちぐはぐな感じがします。ですが、ここは古代の世界観に基づく表現で、山々の基は山の裾野から海岸を通って海中深く下った部分を指しています。また、「地の底」は海の底とつながった地下の海のことです。地球は丸いという考えを持たない古代のイスラエル人が思いつくところの一番深い地の底にヨナは沈んだのですから、それは死んで人が落ちて行くところの「陰府」とほぼ同じ感覚です。7節の終わりの行に「滅びの穴」とある通りです。「滅びの穴」は直接には墓穴を指す表現です。ヨナは、ですから、一回死んだのです。もしくは、神の罰を受けて本当に死んで滅びた、と覚悟したところで、魚に飲まれて救い上げられたのでした。魚はヨナを陸地に吐き出すまで腹の中にヨナをとどめ、神の命令通りの働きをします。どうやら神に逆らうのは人間だけのようです。しかも、選ばれた民イスラエルの預言者でさえも!

 魚の腹の中での三日三晩は、ヨナにとって悔い改めの時間となりました。ヨナがそこでささげた祈りが、彼の信仰の再生を物語っています。

 ヨナの祈りから分かることは、この祈りが洗練された祈り手によるものだということが一つ挙げられます。どこからそうした判断がくだされるかと言えば、この祈りの言葉が『詩編』の随所から採集されたものだからです。『詩編』の祈りに習熟した祈り手が、ここでヨナの祈りをささげています。

  苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。

  陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。

船の上では嵐にあっても眠り込んで叫びもしなかったヨナですけれども、波に飲み込まれて命を失いかけた苦しみの中で、最後にすがったのは主なる神でした。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった」。しかし、これはヨナ一人の独特の経験ではなく、イスラエルが歴史を通じて経験してきた神の救いについての信仰告白です。信仰の始まりが、苦しい時の神頼み、であるのはある意味で当然です。本気で救われたいと願った時に出会った救いは信仰を生み出します。イスラエルに受け継がれた信仰は、経験的な裏付けの無い無味乾燥な教義ではありません。確かに、旧約の物語の上では、天地万物を創造された全能の神への信仰や、アブラハムに約束された契約の神への信仰が先に出ていますけれども、神の選びの民であるイスラエルのアイデンティティは葦の海での救済体験に基づいています。彼らはもともと「水をくぐって」救われた民でした。モーセに率いられてエジプトを後にした民は、神の力によって海の真ん中に現れた乾いた道を通り抜け、後を追ってきた敵の軍勢は神の裁きによって深い水の底に沈みました。ヨナは今、自らの経験に先祖たちの信仰告白を重ね合わせて、真の神の救いを叫び求めます。

 「祈り」は単純に願いをささげることではありません。3節から10節に記されるヨナの祈りは『詩編』の分類法に従えば「感謝の詩編」に相当します。通常、「感謝の詩編」には「個人の嘆き」が伴われて、その嘆く声に答える神が称えられます。『ヨナ書』の文脈からすると、ここには罪の悔改めの告白は見られませんし、救命の嘆願もありませんので、幾分ちぐはぐな印象を受けます。従って、これはヨナの祈りを物語の脈絡に合わせて展開したものではなく、窮地に陥った信仰者の祈りの手本として、ここに一つの祈祷文が挿入されたのでしょう。ですから、わたしたちはここに、ヨナの心理描写を追うよりも、祈りの中に顕れる救いの神に目を留めるよう求められます。『ヨナ書』はヨナを主人公にしていますけれども、主体的に行動するのは神であって、神が預言者を教育し、ご自身の器として用います。

 3節の導入部では、「わたし」の経験した救いが端的に告白されます。

  苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。

  陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。

神がわたしの祈りに答えてくださった、という経験です。人生には時としては答えのない祈りがあります。しかし、聖書は、祈りは答えられると告げています。ヨナの例は特殊なものではなく、すべての信仰者のための模範です。真の神に向って「呼ばわり」「叫ぶ」とき、「わたし」の声は確かに届いています。「陰府の底」(3節)という表現は、原文では「陰府の腹」となっていて、魚の腹を容易に連想することができます。「陰府」は死者の世界ですが、「腹」は命が受胎する場所です。この二つが結びつくところに神の手が働きます。神が「わたし」の叫びを聞き上げるとき、「わたし」は死から命へと引き上げられます(7節)。それは、復活であり、新しい命への誕生です。

 4節・5節は一組となって3節の主題を展開します。

あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。

「わたしが窮まった」(1節、試訳)状況は、海に飲み込まれる絶体絶命の危機として描かれます。これは物語の差し出すヨナの状況と適合しますが、ここでは「深み」「潮」「大波」はすべて象徴的に捉えるべきでしょう。先に述べましたように、この祈りはヨナの描写をするのではなく、信仰者一般に対する範例です。「深い海」と新共同訳にある部分は、本来「海の中心にある深み」となっていて、海を水平面で捉えたときの「中心」と、断面で捉えた場合の「深み」を指し、救いの見込みがないことを表現しています。「潮」「波また波」は、溺れる「わたし」を翻弄する絶え間ない苦難の連続を指します。しかし、これは決して運命なのではありません。神が「わたし」を海中に投げ込み、波に襲わせている。明言されていませんが、5節前半から察するに、これは神から来る罰、もしくは、試練です。ヨブと比較することもできます。

 ともかく、「わたし」の苦難は、神の目の前から追放されたことにあって、直接的には神殿での礼拝から遠く隔てられた状況を指します。新共同訳では多くの翻訳とともに5節後半を修辞疑問文として「見ることがあろうか?」と訳していますが、ここでは7節との並行を重視して「再び見るであろう」という確信の表明としたいところです。「あなた」である神と「わたし」はそれほど緊密であり、祈りが届くとき、つまり、真に祈ることができたとき、神の救いは確実なものとなります。

 6節・7節は前段の変奏であって同じモチーフが繰り返されます。「山々の基」とは陸の端が落ち込む海の深みを表し、「永久に扉を閉ざす」とは「閂(かんぬき)を掛ける」ことです。そうした、もはや息絶えんとするところで神が自ら手を下し、死の穴から「わたし」を引き上げてくださいました。原文は新共同訳とは語順がちがっていて、7節末の句は「主はわたしの神」と力強く締めくくられます。

 8節は3節を受けて主題を要約しています。死の寸前にわたしの神、主を想い起すことで、信仰者であるわたしは祈りが聞かれたことを確信します。神の臨在の証である神殿にそれが結びつくのは、この詩の礼拝的な性格をよく表していて(5節と並行)、読者に神殿を慕う想いを掻き立てる役割を果たします。例えば、巡礼への促しです。

 9節、10節の最終段落は礼拝の誓いで締めくくられます。9節の「偽りの神々に従う人々」は、異邦人よりも同胞を意識してのことでしょう。「わたし」は神によって新しく生まれました。だから感謝をもって神殿に集い、礼拝をささげると誓います。「わたし」と「主なるあなた」は礼拝を通して結ばれる。「救いは主にこそある」。聖霊がわたしの内に働くとき、祈るものに救いの確信を与えられ、この信仰告白が口に上ります。こうして、後の人はイエス・キリスト復活の奇跡に「ヨナのしるし」を見ることになります。

祈り

 全能者である御神、私たちはあなたの御言葉に逆らって自ら罪の深みに落ち込んでいましたけれども、あなたは主イエスの十字架と復活によって、私たちの命を死の滅びから引き上げてくださいました。今もなお、罪を犯しつつ御前を歩む私たちですが、どうか私たちの祈りに答えてくださって、聖霊によって私たちの心を引き上げ、真の悔い改めと信仰をもって、御前に進み出ることができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。