ヨナの再召命
神の命令に背いて深い海の底に沈んだヨナでしたけれども、神は魚にヨナを飲み込ませ命を救い、陸地に吐き出させました。魚の腹の中で過ごした三日間は、ヨナにとって悔い改めの時となり、ヨナは自分の過ちを悟ると同時に神の救いを確信するに至りました。そんなヨナを、神は改めて御自身の預言者として召されます。陸地に吐き出されてから何日目のことか分かりません。場面はこの3章で一新されています。あるいは数ヶ月経った後のことかも知れません。ともかく、神の召しは一方的です。神に逆らったヨナには、もはや預言者としての資格はないと思われるかも知れません。神ならばヨナの代わりに別の預言者を幾らでも立てることがおできになるはずです。しかし、神はヨナを再び立たせます。それは、ヨナがただの道具ではなく、人間として、神が大切にお用いになる僕であるからです。ヨナは再び神に召されて、初めと同じ使命を与えられます。そして、今度は御言葉どおりに直ちにニネベに向かいます。ニネベの宣教という主の事業は、こうしてようやく端緒に着きます。そのために、神はヨナという一人の預言者を回心させる手間を省きませんでした。
二度目に告げられた言葉の中に、新たな指令が含まれています。ヨナは主の命令どおりニネベに直行しますが、そこで注意すべきことは、神がヨナに語る通りにニネベに呼びかけることでした。これがヨナに課せられた次の訓練です。4節に「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」とヨナが呼びかけた言葉がありますが、それが主の言葉そのものであるかどうかは、ヨナが新たな命令に忠実であるかどうかにかかっています。
悔い改めの猶予期間
そもそもヨナがニネベに派遣されたのは、ニネベの悪行が主の目に余るものとなったからでした。ヨナは他のイスラエル預言者たちと同じように、審判預言者としてニネベに送り込まれています。3節後半で、「ニネベは非常に大きな都で」とありますが、1章でも同じように大きさが強調されていました。ニネベは今日発掘されてもいますから、その大きさが実際に知られています。「一回りするのに三日かかった」とありますが、実際にはそれ程大きな町ではありません。「一回り」と訳されている箇所は「訪問」や「旅程」を表します。つまり、ニネベに行って、泊まって、帰ってくるのに三日かかるという意味です。4節に記されているのは、ヨナはまず都に入って一日目の日程を終えた、ということです。ニネベの「大きさ」は4章の終わりには12万人以上の住民がいると言われますから、実際に規模をも含むものでしょうが、それ以上に含みがあります。「大きな町」はそこにある悪の大きさをも語っています。神に滅ぼされた町ということで関連の深い箇所は『創世記』19章です。主がソドムとゴモラを天から降り注ぐ硫黄の火によって滅ぼされたことが記されています。アブラハムの甥であるロトとその家族がソドムで暮らしていたところ、神の使いたちが訪れて次のように告げました。
実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを使わされたのです。(13節)
そこで、御使いたちに促されてロトの一家はソドムを脱出するのですが、そのときロトは主に願って次のように言いました。
御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。 あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。(20節)
これを聞いて主はロトの願いを受け入れて、その小さな町は滅ぼさないことにした、とあります。つまり、町の大きさが悪の大きさに比例して裁きの対象になることを表しています。また、「大きい」とはサイズよりも重要度を表す場合もあります。3節では「ニネベは非常に大きな都で」とありますが、ここには伝統的な解釈が当てはめられています。「非常に」とあるところは、ヘブライ語原典でもギリシャ語訳でも「神にとって」と書いてあります。神にとって大きいのだから人にとっては尚更だと言いたいのでしょうが、文法的にはこのような表現は他には殆ど見られません。現代の日本語訳では、岩波聖書がここを敢えて訳出して「神々に献げられた非常に大きな都」としています。それも一つの解釈ですが、ここは単純に「神にとって大きな都」としてよいと思います。その意味は、4章の終わりで明かされます。ニネベは神にとって重要な都でした。
ヨナはこの大きな都ニネベで神の裁きを呼ばわりました。イスラエルを滅ぼした憎き敵の都ですから、ヨナの言葉には恨みがこもっていたかも知れません。ともかく、ヨナは主がお告げになった通りの言葉を巷で呼ばわりました。「あと四十日で、ニネベは滅びる」との言葉です。「40日」もしくは「40年」とは、聖書ではある意味を表す典型的な数字です。「荒れ野の40年」と言われますように、それは試練と忍耐の期間を表します。ノアの時代に洪水が大地を飲み込んだ期間が40日、モーセが律法を授かるためにシナイ山に籠った期間が40日でした。つまり、ニネベにとっての40日は、ヨナが魚の腹の中で過ごした3日に相当します。
ギリシャ語訳の本文を見ますと、ここは「あと三日で、ニネベは滅びる」となっています。「三日」は『ヨナ書』では馴染みのある数字ですから、そちらが本来のものかも知れませんが、持っている意味合いは同じようなものです。「三日」もまた、聖書では神の審判が下る前の猶予期間を表します。エジプトでファラオの侍従たちがヨセフのいる監獄で見た夢は、それぞれに備えられた三日後の審判でした(『創世記』40章)。また、イスラエル解放のためにエジプトを襲った十の災いの中で、暗闇が三日間エジプト全土を覆いました(『出エジプト記』10章)。そして、シナイ山で主なる神はイスラエルの民と出会うため、三日間の準備をするよう命じて次のように言われました。
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。(出エジプト記19章10—11節)
ヨナの告げた託宣が「あと四十日」なのか「あと三日」なのかは決めがたいところですが、意味としてはどちらも真の裁き主である神と出会うための備えの期間です。つまり、悔い改めの猶予期間を指しています。ところが、その宣告がニネベに呼び起こした反応は驚くべきものでした。ヨナは三日の日程で宣教活動をするはずでしたけれども、その初日の行動で町中が神の審判を深刻に受け止め、神への信仰に目覚めました。その信仰は悔い改めを表す行動を伴っています。人々は断食を呼ばわり、町中がこぞって粗布をまといます。断食をするのも粗布をまとうのも、裁きに服した者が我が身を嘆くことの表現です。身分の高い者も低い者もとあるのは、原文では「大きな者も小さな者も」ですから、「大人も子どもも」であるかも知れません。どちらにしても、町中の人々がこぞって真摯な悔い改めを表しています。
滅びを免れたニネベ
さらに、ヨナの告げた主の言葉が王宮にも届きます。6節に記された王の一連の行動は、その劇的な変化を伝えます。ニネベの王は王座から立ち上がり、灰の上に座ります。また、王衣を脱ぎ捨て、代わりに粗布をまといます。王は自分の立場をすっかり捨て、乞食同然の哀れな姿に変わり果てます。さらに、王宮では国内全体に向けて断食が布告されました。驚くのはその布告が及ぶ範囲です。人間ばかりではなく、共に生活する動物たちも一緒に断食しなければならないという点です。確かに、かつてノアの時代に洪水が引き起こされた時も、神は次のように言われました。
すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(『創世記』6章13節)
人間と動物とは共に命の霊をいただいたものとして地上で連帯しています。人間が堕落すれば動物も堕落する。罪の無い動物が人間の巻き添えになるのではありません。神の裁きはそのどちらにも臨みます。ですから、神が人をお救いになる時には動物も救います。箱船に乗ったのは人間だけではなく動物たちも一緒でした。そうであるならば、悔い改めるのも一緒です。王はそれを弁えているかのように、動物たちにも布告を出します。
人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。(8節)
「ひたすら神に祈願せよ」は「力を込めて呼ばわれ」ということです。さらに続く王の布告は、預言者が語っているかのような言葉遣いです。
おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
これは預言者エレミヤがエルサレムの住民に告げた次のような言葉とほぼ同じです。
お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。(18章11節)
また、エレミヤは弟子のバルクをユダの王宮に送って主の言葉を告げさせるために、彼に次のように命じました。
お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、 神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。(36章6−7節)
バルクを通じてエレミヤが告げた主の言葉は、ユダの民の悔い改めを導いたどころかヨヤキムの元で燃やされてしまいました。「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった」とその後に記されています(24節)。エルサレムとユダの人々はこうしてバビロニアによってもたらされる神の裁きを自ら決定的なものにして国を失います。
ニネベの王はさらに次のようにも言っています。
そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。(9節)
これもまた、かつて主が預言者に告げられた救いの可能性です。やはり『エレミヤ書』の26章2節以下で主はエレミヤに命じて言われました。
主はこう言われる。主の神殿の庭に立って語れ。ユダの町々から礼拝のために主の神殿に来るすべての者に向かって語るように、わたしが命じるこれらの言葉をすべて語れ。ひと言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの悪のゆえにくだそうと考えている災いを思い直す。(26章2−3節)
また、預言者ヨエルが同じような言葉でユダの民に次のように語っています。
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。あるいは、主が思い直され/その後に祝福を残し/あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を/残してくださるかもしれない。(2章12-14節)
ヨナの言葉が異教徒であるはずのニネベの王のもとに届けられた時、ニネベの王と大臣たちとはエルサレムのそれとは正反対に、預言者のごとくに語って、国全体に布告を出しました。神はこれをご覧になっていて、ニネベの悔い改めが本物と認め、ヨナを通じて宣告した都の破滅を取りやめました。
ここに記されているのは、悔い改めに失敗して自ら神の裁きを決定的にしてしまったダビデの王国ユダとは正反対の、滅びを免れた異教徒の国の姿です。イスラエルの民は神に選ばれた民としての特権が与えられていました。しかし、その選びを軽視して偶像崇拝に傾き、弱い者を虐げる悪行に手を染め始めた時、神は彼らからその権利を取り上げることにしました。神は人間の悪行をしばらくの間放置してはいても、やがては決定的な裁きで報いを与えます。それは選びの民であっても同じです。
しかし、神は一方的に断罪するお方ではなく、赦すお方でもあります。人が罪を悔いて悪行から離れるならば、神は裁きを中止されます。猶予を与えて、警告の言葉を送り、悔い改める期間を設けて人の応答を見ておられます。こうして、「悔い改め」という救いの道が示されます。たとえ異教徒であっても真実に悔い改めて神に立ち返るならば、神は滅びを免れさせることがおできになります。本来、神が人に求めておられるのは殺すことではなく、生かすことです(エゼキエル18章)。その御旨を知らずに、己の支配欲のために地上の命を抑圧するのがこの世の悪です。それに対抗するために神は預言者を送って創造者である御自身の権威と力とをお示しになり、言葉で威嚇して、悔い改めを求めます。そこに、真の救いの道が開かれています。
神は思い直す
聖書では時々、「神が思い直される」という表現が出てきます。一度発した言葉を撤回されるなど、神に相応しくないとも思われます。神のご計画は永遠不変であるはずです。『サムエル記上』15章29節では次のように言われます。
イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない。
また、『エレミヤ書』4章28節でも「わたしは定めたことを告げ/決して後悔せず、決してこれを変えない」と言われます。その一方で、先に見たように、神はご自分の裁きを後悔され、先に決めた災いを思い直すこともなさいます。これは、神がご自分の創造なさった世界に対する憐れみの表示と受け止めることができます。罪を犯した人間に対して、神は一時の猶予を与えて、皆がひとり一人ご自分のもとへ帰ってくるのを待っておられる。一方で、神の変わらない定めがあります。それは人間が近づくことの出来ない永遠の御旨です。しかし、御言葉を通じて人間に告げられているのは、神が思い直される余地があること、すなわち、私たちが罪を悔い改めて神のもとへ立ち返ることです。人が滅びを免れて救われるかどうかは、この点でそれぞれの意志において問われます。
9節にある表現を詳しく見るならば、「神が思い直されて」とあるところは、実に「神が立ち返って後悔し」と二つの動詞が組合わさっているのが分かります。人間の方に悔い改めを求めるばかりでなく、神御自身が人間の方に歩み寄って来られ、先に下した裁きを悔いる、といいます。その神の側からなされる歩み寄りに、神が思い直すことの積極的な意味があります。神は天から地上を見下して、人間が真っ当になれるかどうかを見物しておられる意地悪なお方ではなくて、ご自分から人間の方に近づいて来られて、憐れみの心で裁きを思い直すお方です。それが御子キリストの派遣によって明らかにされた御旨でした。
御言葉の真実
預言者ヨナの言葉は、神の告げた通りに語られたにしても、こうして裁きは実現しませんでした。では、ヨナは虚しく語ったのかと言えば、そうではありません。むしろ、ヨナが預言者の務めをきちんと果たしてみ言葉を語ったからこそ、ニネベの悔い改めが導かれました。ヨナにとっては不本意な結果だったかも知れません。その問題は続く4章で扱われます。しかし、神の御旨はヨナによって立派に果たされました。人が悔い改めて裁きを免れることこそ、神が求めておられることだからです。
また、そのことは、実にヨナの言葉の中にも暗示されていました。御言葉を告げたヨナにも、それを聞いたニネベの住民にも、そうとは気がつかれなかったでしょうが、「ニネベは滅びる」という言葉には二重の意味があります。ここで「滅びる」と訳された語は、『創世記』19章にあるソドムとゴモラの記事を思い起こせば、確かに町が滅びることを意味しますが、そもそもの言葉は「向きを変える」「変化する」「ひっくり返る」ことを指しています。大地がひっくり返れば町は滅びるのに違いないのですが、人の心がひっくり返る、という風にもこの語が用いられます。つまり、「心が変わる」「悔い改める」ことを意味します。
ヨナが受け止めた「滅びる」という意味は神によって中止されましたけれども、その言葉が暗に示している「悔い改める」方は、まさに、ニネベの町に作用して、神の御旨を果たします。神の言葉は虚しく神のもとには帰らない。必ず地上でことを果たす、との真実がここで保たれています。神の歩み寄りは実に預言者の語る御言葉において実現します。私たちの悔い改めを導くのはこの御言葉です。悪を離れて神に立ち返る努力は私たちの側で真剣に求める必要があります。けれども、その努力を促し、実りを生じさせるのは、私たちの内に働く、語られた御言葉です。悔い改めと同時に、御言葉への信頼によって救いに至ることが、すべての人に求められています。
祈り
天の御神、あなたは御子キリストによって私たちの罪の贖いを果たし、御言葉の真実を明らかにしてくださいました。その救いを担う御言葉を聖書によって受けている私たちが、真実な悔い改めに導かれて、あなたの救いを確かに得ることができますよう憐れんでください。あなたの憐れみは、罪の故に苦しむこの世界のすべての命に注がれていることを覚えて、あなたの言葉の力を信じて語り続けることができるよう、私たちを主の御業に繰り返し召し出してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。