ヨナの怒り
神の言葉が預言者ヨナを通じて告げられたとき、異教の神々の都ニネベは心から己の悪行を悔い改めて真の神に立ち返りました。一旦は都の滅亡を宣告したのですけれども、神は人々の悔い改める様子をご覧になって、思い直されて、ニネベの破壊を取りやめにされました。しかし、この神の寛大さは、預言者ヨナにとっては理不尽きわまりないものであって、神が約束を撤回されたことに彼は激怒します。1節には「このことはヨナにとって大いに不満であり」とありますが、「不満」と訳されているもとの言葉は「悪」または「災い」です。ニネベに対する神の措置は、ヨナの目には「大いなる悪」と映りました。
このところで、ヨナの素性が分かります。2節で主に祈って訴えている通り、ヨナは神がニネベを赦してしまうことを恐れて、あえて召しに逆らって、反対方向のタルシシュへ逃れようとしました。ニネベは北イスラエル王国を滅ぼした憎きアッシリアの首都でした。アッシリアの捕囚政策によってイスラエルは解体され、イスラエル12部族中の10部族の大半は歴史から消え失せることになりました。それがイスラエルの背信に対する神の罰であったとしても、アッシリアに対する恨みは生き残ったイスラエルの民の決して消えない痛みとして残ったはずです。現代史に置き換えて言えば、ヨナに命じられた宣教は、ナチス・ドイツによって民族絶滅の危機に遭ったユダヤ人が、ヒトラーの支配下にある帝国のド真ん中に神の裁きを告げに行くようなものです。そんな無謀な行動は、一度死んだ経験をした後、神の言葉に殉じる覚悟があってこそ可能なことです。ところが、神はそんなヨナの思いを裏切って敵を赦してしまいます。ヨナは生粋のイスラエル人として、神の寛大さを受け入れることができませんでした。イスラエル人ですから、主なる神の憐れみ深さについては重々承知しています。2節でヨナはこう言っています。
わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
神がシナイ山でイスラエルの民の前に始めて御自身を顕わされたとき、主は御自身のことを次のように宣言されたと律法に記されています。『出エジプト記』34章5節以下です。
主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。
金の子牛を造って神の怒りを引き起こし、身の破滅を招きそうになったイスラエルに対して、神は御自身を憐れみの神として民にお示しになりました。ですから、ヨナは神がアッシリアをも赦してしまわれるのでないかと恐れたわけです。しかし、先の言葉にはまだ続きがあります。こう書いてあります。
しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。
罪を赦す憐れみの神は、同時に正義の神でもあって、罪を放置されるお方ではないはずです。ですから、ヨナにしてみれば、神がアッシリアに罰を与えてこそ、神の正義が保たれると思われたに違いありません。3節では、ヨナが「さあ殺せ」と神の不当を訴えて迫ります。
神の試験
そのように怒るヨナに対して、神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問い、そこから預言者に対する教育が始まります。ヨナはイスラエルを代表する信仰者です。彼は選ばれた民に対する神の憐れみを信じて疑いません。ですが、イスラエルに敵対する偶像崇拝者に対しては断固とした裁きで応じられるはずとの期待をもっています。ヨナは町を出て東の方に居場所を構えて小屋を作ります。ここは「仮庵」とした方がよいと思います。イスラエルが神の加護を信じて仮庵を建てて祝う仮庵祭に遣われる小屋です。預言者イザヤが次のように語っていました。
主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。(イザヤ書4章6節)
そうして、ヨナは自分の正しさが証明されることを待って、神と我慢比べをするつもりなのでしょう。
神はそこへまず「とうごま」を送ります。先には大きな魚を送ってヨナを飲み込ませたように、創造主である神は自然界に働きかけて自由にお用いになります。「とうごま」という植物はひまし油の原料だそうですが、成長すると2、3メートルにもなります。ギリシャ語訳では「ひょうたん」もしくは「かぼちゃ」となっていますが、正確に植物の種類を特定するのは困難です。何にしても、その「とうごま」はヨナには有り難いもので、ヨナは日照りの熱さから逃れることができて喜びました。「不満が消え」と訳されていますが、気持ちの問題ではなくて、実際に「昼の暑さ」による災いから救われた、ということです。おそらく、偶然そのようになったことを喜んだのではなくて、神が仮庵に身を隠す自分を御言葉どおりに顧みてくださったことを喜んだのです。一方で、敵の町にはソドムとゴモラのように硫黄の火が注がれることを期待して見張りを続けます。
しかし、神はその翌日の明け方には、今度は虫を送ってせっかく伸びたとうごまを枯らしてしまいます。この「虫」はゾウムシの一種だと言う学者もありますが、聖書の言葉遣いでは蛆虫か芋虫です。神はさらに東風を送って、ヨナを熱風に晒し、太陽の熱でヨナを撃たれます。衰弱したヨナは、あまりの仕打ちに力を失って、「さあ殺せ」と神に迫るのですけれども、神は再びヨナに「お前の怒りは正しいか」と問われます。ヨナは「わたしの怒りは、死ぬまで正しい」と、自分の正しさを決して曲げません。つまり、イスラエルは選びの民として憐れまれてしかるべきだとしても、敵国のニネベは滅びて当然であって、それが神の正しさであるべきだとの信念です。
神の憐れみは世界の隅々に及ぶ
『ヨナ書』を締めくくる最後の問いかけは、ヨナに対する神の問いかけです。お前はとうごまを惜しむが、私がニネベという大きな都を惜しむのは不当だろうか、とのことです。『ヨナ書』で御自身を啓示なさる神は、天地万物の創造主です。確かに、主なる神との特別な関係に置かれて、憐れみを一身に受けることになったのは選びの民イスラエルに他なりませんが、創造という観点からすれば、神の憐れみの対象は神が創造なさった全被造物です。この物語の中でヨナ、すなわち生粋のイスラエル人が遭遇しているのは、イスラエルの主であるばかりでなく、全世界の主である神であって、ヨナは神との特別な契約関係の中で敵・味方という狭い視野でしか捕らえることの出来なかった神の救済の意思を、創造というもっと広い視野のもとで捕らえ直すよう要請されています。神がヨナに与えた体験的な学習法から、失われるものを惜しむ神の思いが少しは理解できたであろうと思います。
人間は如何に自分中心であることかを、ここから思い知らされます。もとより、選びの信仰は神がイスラエルに与えたものです。神に選ばれたイスラエルの民は神の宝であり、他のどの民族よりも神の愛顧を受けて歴史を歩んできました。しかし、実に同じように、世界のすべての民族は、それと一緒に生きる動物たちをも含めて、神の大きな憐れみのもとで立ち返りを待ち望まれています。神がイスラエルを選んだのは、その固有の関係を通して世界が神との関係を見直し、神の祝福のもとへ帰ってくるためでした。確かに、『申命記』を代表とする神との固有の関係を描く書物からすれば、神への信仰は神と私という一対一の関係に焦点が当てられます。そこでは、神は私の味方であり、その私を不当に苦しめるものは神によって災いがもたらされるはずです。けれども、それによってこの世界内における神の働きを小さく見積もることは正しくないことであって、神は創造者としてすべてを超越しておられるところで、世界全体の救済のために計画を進めておられることを忘れる訳にはいきません。
赦さなくてはならないのか
ヨナのやるせない思い、イスラエルの心に残る傷について、神はここで答えてはおられません。たとえどんなにヨナが復讐心にたぎって、アッシリアに対する恨みに苦しんでいたにしても、神は敵を赦してしまわれます。「あなたの怒りは正しいか」という問いだけが、ヨナのもとに残ります。そもそも、ここでの「正しい」とは、神の御旨に適うかどうかという基準で正しいということです。人間の評価でそういわれるのとは違います。加害者の罪を赦してしまう神の寛大さは、被害者にとっては不条理に思えます。ですから、悔い改めるならば誰でも赦されるという、万人に対して公平に開かれた救いは、人間がどう思うかに関わらず神の一方的な意思だと言わなくてはなりません。ヨナは本来、その神の御旨については、自分は何も訴える資格をもっていないことを悟らなくてはなりません。イスラエルを含めて、すべての人間は罪によって堕落しているために、神の憐れみによらなくては救われることはありません。
では、ヨナは神の憐れみに則して、ニネベを赦さねばならないのでしょうか。ここでは、神はヨナにそのような要求をしてはいません。自分が赦すようになれるかどうかは後のこととして、まず、ヨナはここで神の思いを知らされます。敵を赦すことができるかどうかは、その神の憐れみを知らされた後のことです。人間には敵を赦すことができませんが、神がまず私たちの背きを赦し、滅びを免れさせてくださいました。御子イエス・キリストの十字架によって私たちの罪は赦されました。それを信じるならば、そこから、愛と赦しによる平和への道が、聖霊の働きによって私のところで始まります。
天の父なる御神、あなたは世界のあらゆる人々に対して、悔い改めによる救いの道を備えられました。どうか、あなたの惜しまれるこの世界から、一人も滅びないようにとのあなたの御旨が果たされますように。あなたの救いに与った私たちが、敵対するものに対するあなたの赦しを妬むのではなく、あなたの憐れみに心を合わせることができますよう、聖霊の助けをお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。