今日から出エジプト記の御言葉に聞いてまいります。イスラエルの救いの中心がこの書物からは語られます。信仰の歴史の核といってもよいでしょう。イスラエルが民族の危機に直面しますとき、絶えず立ち戻るのが「出エジプト」の出来事です。それは人間を救う神の力が存分に啓示された、決定的な事件でした。
出エジプト記は、創世記から明白な連続線を見せています。ヤコブの70人の子らから話が始まっています。ヨセフ物語の舞台であったエジプトが、そのまま出発点になるわけです。そして6節と7節によって時代の転換が告げられています。ヨセフの世代の者たちが世を去って行きました。そして神の祝福の通り、ヤコブの子どもたちであるイスラエルは数を増しています。ここには創世記の終りで見た神の祝福の一つの到達点が改めて示されます。神の約束は確かでした。そこに歴史の終りがちらっと現れています。けれども、人類の歴史は人間の罪の腐敗の母体でもあります。終末に至るまで、神の国の様相は、いつも瞬間的でしかありません。イスラエルがエジプトで次の時代に目覚めたとき、彼らはいつしか奴隷となっていました。ヨセフは既に伝説の人物となっているのでしょう。イスラエルに恩義を感じるファラオはいなくなりました。出エジプト記の冒頭で、エジプトは圧政者、イスラエルは奴隷として現れます。イスラエルの歴史において神の救いはいつもこの構造を保っていることを覚えたいと思います。イスラエルは奴隷であったことを忘れてはなりません。そして、圧政者はいつも神が戦いを挑まれる相手です。出エジプトの神は、虐げられた民と共にいます神です。そして救いとは、神と共にある命への解放です。
イスラエルがどういう経過を辿って奴隷になったのかは分かりません。しかし、イスラエルに成就した神の祝福が、自らを神と称するファラオにとって脅威となったのは事実です。エジプトはイスラエルに恐怖したのです。ここには文明の先達者が、新しい生命力に対して示す警戒がよく表れています。ファラオの恐怖は、差別へと発展してイスラエルは未曾有の苦難に突入します。
9節の言葉は、現代の我々にはとても生々しく響きます。ユダヤ人の歴史がここに重なってくるようです。寄留者として自分の土地をもたぬ民は、ゆく先々で生き延びる術を獲得していきました。そしてユダヤ人を受け入れた諸民族は、初めは彼らを友好的に受け入れたとしても、彼らが社会的に重要な位置をしめ、経済的に豊かな層を形成しようとすると、その国の為政者たちはここぞとばかりにユダヤ人を敵視し始め、財産を没収して国外へ追放するのが常でした。スペインでもそうでしたし、ドイツでもそうでした。そうして虐待を受けつづけてきたのです。勿論、こうしたユダヤ史において、キリスト教会はファラオの虐待に等しい行為をしてきたことを忘れてしまうわけにはいきません。
イスラエル新世代がエジプトで被った虐待は、彼らの人口を抑制するためのことでした。過酷な強制労働によって、生命力を弱めようということでしょうか。すなわちそれは、神の祝福に対する反逆行為です。ファラオは神に敵対するものとしてここに示されます。しかし12節の述べるところでは、所詮人間の王であるファラオは神の祝福には敵わないようです。こうした時、人間は神の如く振る舞いたがるのかも知れません。ファラオがついにとった手段は、大量虐殺という方法でした。ヘブライ人の新生児が男の子であれば殺し、女の子であれば生かしておく。人間が神を畏れなくなったとき、人間の命はまるで尊厳をもたなくなります。最後にファラオは全国民に命じます。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」。イスラエルは遥か古代から、こうした人間の狂気の叫び声を聴いて育ってきています。
こうして出エジプト記の初めに私たちに示されるのは、神の被造物に向けられた人間の破壊的な暴力です。創世記に記された神の創造と祝福とに真っ向から反逆をする文明の姿です。そして、ここから神の戦いが始まります。もっとも、神ご自身は武器をとって人間の目の前に現れるわけではありません。またノアの時代のような地球規模のカタストロフを再現するつもりもありません。神はあくまで人間を通して救いを表されます。今日のところでイスラエルを救うために使わされた神のエージェントは、エジプトの助産婦たちでした。最も、ここに登場する二人の助産婦、シフラとプアですが、彼女たちは名前からしてヘブライ人であるようです。彼女たちは神と直接的には何の接触があったわけではありませんが、ファラオの命令に従うよりも神を信じたのでした。二人とも「神を畏れていた」とありますが、これは神を信じていたと言い換えてもよいところです。真実の神の信仰者でした。二人の信仰は、ファラオの命令を破って罰せられるよりも、神に背く方を畏れたのです。さらにはファラオの前で快活にヘブライ人は元気ですから、と言い逃れてしまいます。ここは少し訳を変えるとニュアンスが違ってきますが、「彼女たちは丈夫で」というところは点の打ち方ひとつで「彼女たちは獣(的)ですから」とも言い換えられます。そうしますと、この二人の助産婦さんたちも含めて、ヘブライ人女性の逞しさがより際立つかもしれません。最終的にはファラオは男児殺害命令を全国発布してしまうのですが、ファラオのイスラエル人抑制計画は、実にこの二人の女性の信仰によって一度頓挫したのでした。神の戦いとは、こうした信仰の戦いです。命を人間の狂気から守るのは、神を畏れる信仰であることがここに示されています。
人間の歴史はこうした圧政者による暴力の歴史でもあります。文明のシステムが肥大化していく中で、このシステムを動かしていく立場に置かれた人々は、人間そのものに接触する機会が奪われていくのか、ある時、人間を人間と思わなくなってしまうのでしょう。そういう狂気が人間を捕らえ、命を破壊し始めるときにまず犠牲となるのはか弱い子供たちの命です。これはイスラエルの歴史においてはトラウマのようなものです。エジプトでの虐殺に続いて、カナンでの幼児犠牲祭儀がイスラエルを蝕んだ時代がありましたし、バビロン捕囚という滅亡時がありましたし、ローマ時代のエルサレム神殿破壊、ポグロム、ホロコーストと、全ての歴史的出来事は子供たちの泣き声で綴られています。こうした側面だけをとってみれば、確かにユダヤ民族は、神に対する人間の反逆のはけぐちに利用された、啓示の媒体のように思えます。言葉を変えれば、「苦難の僕」の姿です。ここには暴力によって密封されてしまった世界の閉塞が現れます。出エジプト記が大きな救いの出来事の前提としている世界は、神への反逆を試みる、罪に閉ざされた空間です。神はそうした場所から御自分の民を救い出してくださいます。それは、神が歴史に刻印される救いの典型といえるでしょう。それは今日われわれにも訴えるものです。この暴力に閉ざされた世界はまるで出口なしの状況にみえます。ファラオの絶対的な権力のもとで、かつてエジプトもそうであったわけです。しかし、神は二人の助産婦によって一度子供たちの命を救われました。そしてこの後、ファラオの手を逃れた一人の幼子が、イスラエル全体をエジプトから解放することになるのです。救いの示される線というのは本当にか細いのですが、神はそういう仕方で救いを表されるのをよしとされたのです。世界を動かす強大な権力機構や暴力に対して、教会の力は本当に小さいと思えるのですが、しかし神は私たちと共に戦います。それは信仰による戦いです。殺す勢力に対しては産む力が優る、と聖書は証しています。信仰の力を過小評価してはなりません。テロリズムを生み出すような、無知に基づく原理主義的信仰のことではありません。命を生かす愛の力を信じる信仰です。神はそういう小さな者たちと共に働かれて今も救いの御業をなさるということを覚えたいと思います。私たちも信仰によってそういう一人にさせられています。
