ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め。」
前段落の最後(1章22節)に記された、王の号令です。エジプトで奴隷となったイスラエルの民は、歴史を顧みない権力者の手によって悪夢の中に投げ込まれます。ここに再び、罪が深まって光が差し込まなくなった状況が出現しています。神はかつてこんな世界を洪水で滅ぼしてしまおうと決意されたことが想い起こされます。私たちの時代に至る歴史の中では、こうした悪夢が度々繰り返されました。ファラオを殺戮の衝動に走らせたのは、初めは恐怖でした。エジプトがイスラエルに乗っ取られるという民族意識でした。おそらくそれは、王の個人的な感情というよりも、エジプト人全体の思いを代表するものでしょう。今日の移民問題にみられるように、文化や習慣の異なる民族を多く抱えるのにも限界があると感ずる人々の意識は、こうして歴史的なものだと証明されます。イスラエル人を強制労働に服させるというファラオの対応策は裏目に出て、かえって彼らは増え広がりました。恐怖は嫌悪や憎悪にまで発展します。そして助産婦たちにも小馬鹿にされたような結果になり、ついに大量殺戮の号令に至ります。最悪の人間が、神の座についてしまいました。
出エジプト記の最初に記されるこの状況は「エジプトとイスラエル」という民族間の対立と図式化することができます。立場の違いは歴然としていますが、ここに示される対立が何を意味するのかを考えるために、少し創世記からの脈絡を想い起こしてみます。創世記の終りに向かっての主題は、神が育んでおられた信仰の家族が、最後にエジプトに辿り着いて、神の不思議な救いの御業に与って和解させられたということでありました。兄弟同士の間にあった深い対立の溝、それはヨセフに対する兄の嫉妬でしたし、その後はヨセフを奴隷に売り飛ばした罪悪感でしたが、そうした溝が神の導きの下に取り去られて、赦しが告げられ、イスラエルの家族は神の祝福の中に安息を見いだしたのでした。ヤコブすなわちイスラエルの家族内における和解が主題でした。この時のエジプトとイスラエルの関係はまことに和やかで、宗教の違いが争乱のもとになる気配すらありません。しかし、出エジプト記に入ると、イスラエルは既に家族からひとつの民族へと発展しています。そこから今度はエジプトとイスラエルという民族単位の対立が生じてきています。この対立が示すのは、イスラエルと世界との間にある対立構造といえるでしょう。これは今後、旧約全体の主題となってきます。すなわち、神の民と異邦人との関わりです。すると、既にここから終りが予想されていることに気が付かされます。それは、神を起源とする二つの兄弟であるエジプトとイスラエルの和解です。地上のあらゆる民族の対立が解消されることが、この先の歴史で目指されます。ですから、出エジプトという出来事は、大いなる出発であるといわなくてはなりません。世界に対する神の救済の御業がここから始まります。人類の真の和解を目指して、人間が理想とする平和が、ここから目指されます。遥か遠い旅路になることは間違いありません。
私たちが住むこの世界は、未だにファラオが君臨する世界です。恐怖心や猜疑心にかられた為政者たちが、自分が神であるかの如く振舞います。力の無い者たちが虫けらのように易々と命を奪われています。出エジプトの救済は、そんな世界に起こった、神による救いの出来事です。ここに示される救いの御業が、今も私たちに向かって、神に希望を持ちつづけるよう訴えます。
破滅の危機に瀕した時代に神の救いが示されます。それは一人の男の子の誕生から始まりました。あるレビ人の夫婦のところに生まれた男の子は三ヶ月になるまでファラオの目から隠されていましたけれども、とうとうナイル川に流される時が来ました。しかし、母親はこの子をしっかりと防水加工を施した葦の籠に入れて、川に浮かべて逃れさせます。「籠」と言いましたけれども、これには特別な言葉が使われています。以前、創世記のところでも触れましたが、これは「箱舟」と同じ「テバ」という語です。「テバ」は大水からの救いをあらわす神の救いの手段でした。小さな命が、神に守られて、水の上を漂います。私たちはここで、ノアの洪水の記述に思いを馳せるように導かれます。
籠によって守られた赤ん坊は、ファラオの娘に拾われます。王女はこの赤ん坊がヘブライ人だと分かっていますが、父の命令を実行に移そうとはしません。憐れに思って、王宮へ連れて行きます。しかも、その赤ん坊の姉の機転もあって、実の母親が乳母として雇われるという幸運にぶつかります。ここで私たちは、もう一度創世記に引き戻されます。モーセの誕生については幸運な出来事として記されているのではありません。神の摂理が語られています。そういう形で救いが現れたのです。美しい、あるいは健康な男の子が命を狙われて、親元から切り離されます。それが、不思議な導きで、エジプトの宮廷にまで入り込むことになる。これは、ヤコブ一家が飢餓という危機に直面したときに、息子のヨセフが辿った道のりでした。ファラオはかつてヨセフがエジプトを救ったことを忘れて、イスラエルに対して暴虐の限りを尽くしています。しかし、こうした愚かな人間とは異なって、神はイスラエルを忘れることがありません。再び、かつてお示し下さったような道筋でもって、新たな神の僕をお立てになります。ナイル川で拾われた赤ん坊は「モーセ」と名づけられました。ヘブライ語で「引き上げる」という言葉に由来すると説明がされています。しかし、モーセの名前についてもヨセフと共通する点があります。ヨセフはファラオに迎え入れられたとき、別のエジプト名をもらいました。モーセは一つの名前しかありませんが、言葉から判断するに、これは本来エジプト語で「息子」を意味します。エジプト王の名前に「トトメス」ですとか「ラメセス」などがありますが、これらはそれぞれエジプトの神の名前に「息子」という語がつけられたものです。「モシェ」というのは、そうした王たちの愛称であったとも言われます。つまり、モーセはエジプト名とヘブライ名の二つの名を重ね持つという点で、ヨセフと同じなのです。ヨセフはエジプトの宰相になって、ヤコブの家族を救い、エジプトの救済者となりました。モーセもまたイスラエルを救うために神が不思議な導きでお遣わしになる救済者です。そして、王の息子としての名をもつ、エジプトの王子となるはずでした。
しかし、人類の壊れた絆を修復する神の御業に遣わされる、新しい任務を帯びた僕にはヨセフとは異なる道が備えられています。モーセは成人して、同胞のヘブライ人すなわちイスラエルの民が置かれている現実に直面します。そして同胞愛への正義感に目覚めた彼は、エジプトの王子という身分にもかかわらず、同胞を救うために殺人を犯してしまいます。問題はその後です。モーセのそうした行為は、命を助けてもらった同胞には受け入れてもらえないのです。ヘブライ人の仲間からみれば、モーセはエジプトの王子であり、エジプト人であろうとヘブライ人であろうとその生殺与奪を決定する力をもった人間に過ぎず、決して仲間ではありません。モーセがとった殺人という方法は、正当防衛として免罪されるでしょうか。これについてはずっと議論が続けられて立場が分かれていますけれども、カルヴァンによれば、モーセは正しかったと判断されています。けれども文脈全体からしてそう言えるでしょうか。モーセが取った方法は、エジプトがイスラエルに対して力を振るうその力をそのまま返すことに他なりません。すなわち「報復」です。奴隷の立場で徹底的に痛めつけられているヘブライ人の立場からみれば、それは絶望でしかありません。モーセはやはりエジプトの権力者としか写らないのではないでしょうか。モーセの犯罪はファラオに知れる所となって彼は逃亡します。罪を犯して故郷を後にしなくてはならないのは、ヤコブと同じ状況です。逃亡ではありますが、実はこれが神の僕であるモーセに備えられていた道でありました。彼は一旦砂漠に赴いて、ヘブライ人になる必要があります。かのアブラハム、イサク、ヤコブと同じように、遊牧民となって再出発をすることが必要でした。神の救いは正義感にかられて力をもって介入することではありません。まず対象そのものにならねば救いは始まらないのです。恐ろしく厳しい道ですが、神が派遣するメシアにはそのような選択しかありません。モーセは王子である身分を捨てて、ヘブライ人に戻ります。そして、人間を救うためには、神が人間になる必要がありました。
ミディアンの沙漠において、モーセは井戸端での出会いを経験します。それはヤコブとラケルの出会いを彷彿とさせる対面の仕方でした。モーセが助けた娘たちは、ミディアンの祭司であるレウエルの家のものたちでした。レウエルは後ほどエトロという名前でも出てきます。モーセはレウエルの家に身を寄せて、遊牧民としての生活を始めます。そして結婚をし、子どもが生まれて、彼は沙漠に生きる民の一人となります。生まれた息子には「ゲルショム」という名前をつけていますが、それは彼の身分の変わりようを告白するものでしょう。モーセは「寄留者」です。彼もまた、旅人としての人生を選びました。そして、そこから本当のメシアとしての派遣が与えられます。
神はこうして救いの道を備えてくださいました。イスラエルは神の送ってくださる僕に導かれて、神の与えて下さる自由な命へと救い出されます。長い時間耐え忍ばなくてはならない悪夢のような時代があります。罪に閉ざされた世界は、本当に長い間人間の命を闇に縛り付けています。しかし、私たちが神を見失ってしまうような現実に直面したときでも、神は決して見捨ててはおられません。自ら行動を起してくださいます。救いはイスラエルに現れます。しかし、人類が本当の和解に至るためには、その根源にある罪が解決されねばなりませんでした。神は人間を縛り付けている罪と死という問題を取り除くために、御子イエス・キリストを派遣してくださいました。モーセは、やがて来るべきお方の前触れとして、歴史に神が働きかけてくださる具体的なしるしとして、旧約時代に示されたキリストの形でした。戦争が続く今日でも、神がきっと和解の時を与えて下さるという希望を、私たち教会は語りつづけます。
祈り
イスラエルにモーセを送り、み言葉の力をもって民を救い出して下さる、救い主なる御神、争いが止まないこの世界に対して、あなたの憐れみを注いでいてください。為政者たちから恐怖と疑惑とを取り除き、あなたに対する謙遜さを与え、一人一人の命のことを考える人の心を呼び起こしてください。互いに生きるための努力を始めさせてください。日々の苦しみに喘いでいる人々に、一日も早い助けをお与え下さい。あなたの恵みのうちに平和が与えられている私たちにも、なすべきことをなさせてくださり、真に信仰において生き、世の誘惑に呑み込まれることがありませんようにお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
