主の御前で
今日から『サムエル記』の御言葉を学びます。私たちの手元にある聖書では、『サムエル記』は上下巻に分かれていて、さらに『列王記』の上下巻が後に続いていますが、本来これは一続きの長い書物です。イスラエル王国の歴史が、その始めから終わりに至るまで歴史として綴られます。『サムエル記上』に区分された部分では、その王国の始めの出来事が語られます。イスラエル民族はエフライムのシロの聖所を中心にして、祭司エリのもとで統括されていましたが、預言者サムエルの登場によって、イスラエルに初めて王が登場します。最初の王サウルに率いられたイスラエルは宿敵ペリシテ人との戦いを通して結束を固め、やがてサウルに召されたダビデが頭角を現します。そして、イスラエルの王位を巡るサウルとダビデとの確執の中、サウルがギルボア山上で戦死するところまでを『サムエル記上』は扱います。
この歴史書の一つの特徴は、主なる神が直接的に介入されることがないことです。モーセに導かれた荒れ野の旅のように、主が敵と戦ってこれを奇跡的に打ち破られる、というような仕方は殆ど現れません。むしろ、ここに描かれるのは人間の営みが中心です。だからと言って、世俗的な話に終始する訳ではなく、人間たちが主の御前でいかに振る舞い、信仰を表し、また躓いたかが描かれます。その点からして、ここに登場する人物たちはとても人間的でして、サムエルやサウルやダビデはいずれも神に選ばれた指導者たちですけれども、罪や弱さをもっていて、神の御前に失敗もします。
私たちはこの一連の歴史書から、国を与えられたイスラエルが如何様であったかを学びながら、歴史の中を歩む人間の罪深さと信仰に忠実に生きることの大切さを教えられます。そして、イスラエルの歩みを通して、私たちは神がどのような方であるかを知らされます。イスラエルの歴史は、神を写す鏡でもあるわけです。
エルカナとその家族
『サムエル記上』は、預言者サムエルの誕生物語から始まります。この誕生物語は聖書に典型的な話の一つですから、他の箇所にある幾つかの話と共通するモチーフをすぐに見つけることができると思います。そうした関連を辿りながら、まずは書き出しの部分を見てみましょう。
エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ、トフ、エフライム人のツフに至る。
サムエル誕生の舞台となるのは、エフライム山地に住むエルカナという人物の家庭です。『士師記』の終わりに纏められた二つのエピソードは、いずれもエフライム人にまつわる話でした。17章1節では、エフライム山地のミカという名の男が紹介されて、ダンの部族が自分たちの土地を獲得する経緯が語られてゆきました。その話の終わりに当たる18章31節では、それが「神殿がシロにあった間」のことだと注記がされていましたから、これが『サムエル記上』の始めに語られる物語と同時代のことと分かります。『士師記』19章からのエピソードもまた、「エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた」という記述から始まります。そこから、恐るべき犯罪を犯したベニヤミン族成敗の話に進んで、終わりは「年ごとにシロで主の祭りが行われる」(21章19節)時に、滅びかけたベニヤミン族に略奪婚を許可する、という結末になります。これらの続きで、エフライムの山地に一人の男がいた、と話が始まりまして、毎年行われるシロの聖所での礼拝の場面で、新しい啓示が与えられるわけです。
『士師記』と『サムエル記』の間には『ルツ記』が挟まれますので、その流れが中断されたように感じられますけれども、実際、多くの研究者はヘブライ語聖書の配列を重んじて『ルツ記』をその話の流れから外す傾向にありますけれども、よくよく内容について考えてみるならば、『ルツ記』もまた『サムエル記』への接続に、ある役割を果たしているのが分かります。『ルツ記』は、『士師記』が終わりに記した「イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(21章25節)暗い時代に現れた、ルツとナオミの家庭を舞台にした、一つの明るいエピソードでした。子どもを失って将来の希望が断たれたナオミを神が顧みてくださって、ルツとボアズを通して、未来を贖ってくださった話です。そして、『ルツ記』の終わりには、ボアズからダビデに至る系図が置かれています。
こうして、エルカナ一家の出来事を記す『サムエル記』は、『士師記』『ルツ記』の延長線上に起こる、まだ王がいなかった士師の時代から始まります。そして、この始めのエピソードの主人公は、エルカナではなくして、その妻であったハンナです。
ハンナの誓い
エルカナには二人の妻があり、ハンナはその一人で子どもがありませんでした。もう一人の妻ペニンナには子どもたちがあって、ハンナはそうした立場に苦しんでいました。不妊の苦しみは聖書の時代背景に特徴的なものです。子どもを持つことによって妻としての立場が認められる古い時代です。もっとも、今日でも子どもを願う女性にとって不妊は大きな悩みですけれども。
ハンナに子どもがなかったのは「主がハンナの胎を閉ざしておられた」と5節にあるように、神の御計画があったからです。族長の妻たちに子どもがなかったのも、ナオミとルツに子どもがなかったのも、彼女たちの苦しみを通して神の約束が実現するためでした。
ハンナの苦しみが極まったのが、毎年シロの聖所で行われる礼拝の場面でした。これはエルカナ一家だけが出かけたのではなくて、毎年定められた収穫祭のような機会であったのでしょう。礼拝は、神殿の祭司に犠牲の動物を渡して、残りのものを家族でいただく、食卓を囲む儀式です。子どもの分まで受け取るペニンナは、夫の愛情がハンナに傾いていることへの嫉妬も手伝ってか、自分の取り分しかもらえないハンナに嫌味の言葉でも言い放ったのでしょう。毎年そんな経験をしなければならないのは嫌で仕方なかったはずですが、ハンナはそれで礼拝を疎かにするつもりでなかったのは、ハンナの信仰を表します。
夫は泣いて食事もしないハンナを慰めようとして、「このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか」(8節)と語りかけます。これは夫にしては最大級の愛情表現なのだと思います。現代の妻たちがどう受け取るかはわかりませんが。『ルツ記』の4章15節に、名誉を回復されたナオミを村の人々が祝福して、「あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁」とナオミに忠実であったルツのことを賞賛しています。エルカナは、そのような忠実な愛でハンナに尽くしている、と告白しているわけです。けれども、ハンナの苦しみは夫でも取り去ることはできない。なぜなら、その苦しみを取り去ることができるのは、彼女の胎を閉ざしておられる神より他にないからです。
ハンナは、その苦しみを神の御前にもってゆきます。「ハンナ」という名「好ましい」とか「憐れみを注ぐ」という語が元になりますが、日本語になおすと「めぐみ」が一番近いかも知れません。男性では「ヨハナン」ですね。新約では「ヨハネ」です。
彼女は激しい女性なんだと思います。ペニンナ-こちらは「真珠」という意味-とは、かなり激しいやり取りをしたのではないかとも想像します。「彼女はペニナのことで苦しんだ」と10節にありますが、この「苦しむ」はひたすらじっと耐えるような痛みをもつことではなくて、「苛立つ」「怒る」という意味です。そして、祈りながら激しく泣く(10節)わけです。
ハンナの祈りは、誓いを伴うものでした。11節でこう誓っています。
万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、 男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。
これは、生まれた子をナジル人として神にささげる、という誓いです。『士師記』には、ここにあるのと同じような、サムソンの誕生物語があります(13章)。サムソンの母親もまた不妊でしたが、ある日、主の御使いが現れて、生まれる男の子はナジル人だから、その子の頭にかみそりを当ててはならない、と告げられます。そして、「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と言われたのですが、まさにそのサムソンの使命を引き継ぐように、これからサムエルが生まれてきます。ハンナは天使のお告げを受けたわけでなく、自分から進んで、我が子をナジル人としてささげると誓いました。誓ったからには必ずそれを果たせ、というのが聖書の掟です。サムエルはそうして母親の献身によって神の人になるのでして、それが神の御旨にかなって実現する、というところがサムソンとは違っている点です。
聞かれた祈り
ハンナのこのような祈りは、声にならない祈りでした。それで、祭司エリは、彼女が酒に酔っているのだと勘違いします。これは、神殿では、祈りは声に出してささげるもの、という前提がないと理解できません。ここで祈るハンナの姿や、詩編の幾つかの中には、主の御前に心を注ぎだして祈る、という内面に集中した祈りの型が見出されます。ただ、ここにある「心からの願いを注ぎ出す」と15節で訳されている部分は、原語では「魂を注ぎ出す」とあります。その一つの解釈がこの翻訳になるわけですが、「魂を注ぎ出す」とは、他の箇所と比べてみると、嘆きの行為です。心の堤防が決壊してしまうような状態です。例えば、『ヨブ記』30章16節にこうあります。
もはや、わたしは息も絶えんばかり/苦しみの日々がわたしを捕えた。
この「息も絶えんばかり」が、魂を注ぐ、という状態です。ハンナは息も絶え絶えに神の前にすべてを打ち明けていたのであって、それが祭司には「酔っている」ように見えたということです。酔っているどころか、一生アルコールを口にしないナジル人に息子をささげる、と誓っていたわけです。
「苦しいときの神頼み」は、ある意味で祈りの本質をついています。苦しいときにしか神を頼まない、という意味では、不信仰そのものですけれども、苦しいときにこそ、ハンナのように、神にすべてをぶちまけてしまえることが許されている、というところが祈りの恵みです。ハンナのような状況で「主の御前」という逃れ場がなかったとしたら、彼女はその怒りや悔しさをどこへもっていったからよいでしょうか。周囲に怒りをぶちまけて、自分をそんな運命に晒した神を呪って、自暴自棄になる他はないかもしれません。しかし、ハンナがそうならなかったのは、その激しい感情をも神にささげるための祈りの場があったからです。祭司のエリはなんだかあてにならないような感じの聖職者です。実際、この後、エリの息子たちの非道が明らかになって、エリの家は没落すると神の裁きが下されます。けれども、神が備えた聖所と祭司という職務には、神が民に恩恵を施すための手段としての役割が保たれていて、それを真の信仰をもって受け止める人には、きちんと恵みが届くようになっています。つまり、神は愚かで過ちの多い人間を通してもまた民を養われる、ということです。時の大祭司であったカヤパが、イエスに敵対していながらも、そのメシアとしての役割を預言として語り得た、と『ヨハネによる福音書』が書いているのと同じです。
エリはハンナに祝福の言葉を与えました。「安心して帰りなさい」の「帰りなさい」は「行きなさい」という言葉ですが、祭司が民を送り出す時の言葉です。『士師記』18章6節でも、ミカの祭司がダンの5人の斥候を送り出す際に、そう言って祝福しました。そのミカの祭司にしても、エリにしても、本当の祭司と言っていいのかどうか迷うところがありますが、その祝福の言葉に触れてハンナはその「表情がもはや前のようではなかった」(18節)とあります。祭司エリの気の利いたカウンセリングが功を奏したというのではなくて、心からの礼拝を神にささげることで、神の言葉をいただいて、それによって心の問題が解消されています。
ここに一つ見せられていますのは、エリの働き以上に、ハンナの信仰のありようです。彼女は祭司を前にして自分を「はしため」と言います。「はしため」とは「女奴隷」ということです。男性でしたら「しもべ」になります。それは神を前にした自分の徹底的な低さを自覚した人の物言いです。聖書ではよく現れますけれども、その自分の低さを知るからこそ、神の言葉をそのまま信じることができる。それは、他人と自分を比較して、自分の能力不足を卑屈に見やるようなことではなくて、主の御前に魂を注ぎだしてしまうような率直さと全面的な信頼をもって、神に近づく時の人間の低さです。だから、ハンナは祝福の言葉を受けて、その言葉を信頼して、安心して帰っていくことができました。
希望の光サムエル
そして、祭司の言葉の通りに神はハンナの祈りを聞き届けてくれました。「主は彼女を御心に留められた」と19節にあります。生まれた子には「サムエル」という名がつけられました。『新共同訳』にはカッコして「その名は神」と書いてありますが、これはもちろん原文にそんな注はついていません。ここは注解者たちの議論があるところで、「主に願って得た子供なので、サムエル(その名は神)」という説明は、そのままではよく分からないと思います。「主に願って得た」というところをそのまま名前にしますとサムエルではなくて「サウル」になってしまうからです。「願って得た」とありますが、ここは「神から借りた」とも読むことができます。つまり、ハンナが誓ったように、神に誓って、男の子を一旦授けていただいて、そして生まれてからはまた神にお返しする。そういう子どもである、ということが「サムエル」という名に表されている。
こうして神に憐れんでいただいた女性から、再び新たな指導者がイスラエルに与えられて、イスラエルの王国時代が開かれます。士師たちの時代は、王がいなかったために、それぞれに自分が正しいと思うことを行っていた混乱の時代でした。その苦しみの時代は試練の期間であって、イスラエルをお選びになった神は、ご自身の計画に従って新しい時代を始めるために、信仰を忠実に守る一つの家族を備え、貧しい女性を顧みて、一人のみどりごをお与えになります。イスラエル王国のはじめに起こった出来事が、その後に来るキリストの到来を遠く指し示していて、罪人を救う神の御胸を私たちに語っています。
祈り
天の父なる御神、私たちが悩み苦しむ時、あなたが私たちの逃れ場になってくださっていることに感謝します。しかし、私たちはそのように信頼しきれない時もあります。どうか、聖霊を送ってくださって、あなたが私たちを無条件に受け入れてくださる父であることを今一度信じさせてください。そして、礼拝を通して与えられるあなたの祝福と約束を、心に受け入れて、元気を取り戻させてください。サムエルの昔から、あなたはイエス・キリストに至る救いを約束しておられたことを心にとめて、あなたの変わらない救いのご計画を信じて、希望のある教会生活を送らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。