説教者 | 牧野信成牧師 |
マルコによる福音書12章28~34節
はじめに
昨日のオリーブカフェから、千里山教会50周年記念の行事に参加させていただいています。私がおりました時に30周年を迎えて、斎藤ハナ執事の俳画を記念品の絵葉書にしたことを思い起こします。あれからもう20年経ったことを思うと感慨もひとしおです。皆さんが新しい会堂をささげられて、一度お尋ねしたいと願っていたところ、こうしてお招きを受けて感謝しています。今朝の礼拝では、昨今の世界事情に合わせて、キリスト教会の責務について考えるという視点から、御言葉に聴きたいと願っています。
現代におけるイスラエル国
「イスラエル」という国が現在中東にあるのを皆さん御存知と思います。地中海の東岸にある小さな国で、第二次世界大戦後1948年に建国されました。聖書の舞台となったことで「聖地」とも呼ばれて世界各国からの旅行客も絶えない国です。現在では日本からの直行便も飛ぶようになりました。国連に認知されている首都はテルアビブで国際空港もそこにあります。ただ、聖書を始めとするユダヤ人の伝統においてはエルサレムが首都とされて今日に至ります。2022年の外務省による統計ですと人口は950万人程で、建国以来の海外からの移民によってそこまで国民が増加しました。
このイスラエルの周囲はアラブ諸国が取り巻いています。南にはエジプトがあり、北にはシリアやレバノン、東にはヨルダンという国々があります。イスラエル国はヨーロッパやロシアからの移民が多いため文化的には西欧と変わりませんが、アラブ人の国々はイスラム文化ですからだいぶ生活様式が違います。また、中東にあるこの地域にユダヤ人の国を造ったことによって、今日に至るまで宗教も違うアラブ人の国々との間に紛争が絶えません。これを「中東問題」と呼んでいます。大戦後にこの国が生じたのにはヨーロッパのキリスト教会によるユダヤ人迫害の歴史も大いに関わっていて、ユダヤ教を信じるユダヤ人たちは自分たちが安心して生活できる国を求めるようになったのがはじまりです。その願いが聖書の歴史と深く関わるパレスチナの土地と結びついて、結果的には戦後のイスラエル国家建設となりました。
しかし、これはユダヤ人の一方的な願いですから、もともとその地域に暮らしていたアラブ人からすればたまりません。いきなり他所からやってきて、ここは自分たちの土地だから返せ、というのですから、そこに世代を継いで長年暮らしてきたアラブ人からすると迷惑千万な話です。ユダヤ人は大戦中のホロコーストを経験して、ヨーロッパ社会の支援を受けることに成功していますから、その軍事力も利用して、地元の住民の意向を無視して国を造ってしまったのでした。たとえば、この千里山はもともと誰の土地であったのでしょうか。ここに縄文人を祖先に持つという人々が突然現れて、ここはもともと私たちが住んでいたのだからあなたがたは出て行け、と言ったならとんでもない話です。そんな大昔のことを持ち出されても、現代には現代の日本の法律があって、私たちは合法的にここに住むことが許されています。しかし、ユダヤ人の理屈の一つは「聖書にそう書いてあるから」というものです。聖書が書かれたのは2000年以上昔のことです。特に「イスラエル」が登場する旧約聖書の歴史はさらに古い大昔です。それを根拠に「私たちの土地」もへったくりもありません。そういうわけで、中東には土地を巡る争いがイスラエル国とアラブ諸国との間に絶えないのでして、それにヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国が絡んで問題を複雑にしています。
昨年の10月にハマスというアラブ人の政治結社が、パレスチナの国境を越えて、イスラエルの都市をミサイルで攻撃し、200人近い市民を殺害したり、捕虜にして連れ去りました。これまでにない大規模な攻撃でした。イスラエル国は最新の兵器を備えた軍隊をもっていますから、即座にハマスに対する報復を始めたのですが、この報復攻撃によるパレスチナ人の犠牲者はすでに2万人を超えています。第二次大戦中はヒットラーのナチスによってヨーロッパのユダヤ人が根絶やしにされようとして600万人が殺されたと言われますが、今日のイスラエル国もパレスチナの土地からパレスチナ人を根絶やしにするために容赦ない攻撃を続けています。子どもも女性も高齢者も見境なく、学校も病院も戦闘機で空爆して、パレスチナの中心地であるガザの町はもはや大空襲を受けた東京のような有様になって瓦礫の山と化しています。
こうした中東問題の中心にいる「イスラエル」とは何なのか。改めて聖書から確認したいと思います。
旧約聖書における選びの民イスラエル
聖書によれば、イスラエルは神に選ばれた特別な地位をもつ民族です。旧約聖書の最初におかれた『創世記』の中でその名前がつけられた経緯が記されています。旧約聖書に登場する最も重要な人物の一人はアブラハムです。このアブラハムを父として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれたとさえ言われます。まさに一神教の父ですね。神はこのアブラハムを特別に選び出して、私の示す土地に行きなさいと命令を与えます。そして、あなたから生まれる子どもたちは空の星のように、また浜辺の砂のように増え広がると祝福の約束を与えます。そこで示された土地というのが今日のパレスチナ、またはイスラエル国のある土地で、旧約聖書の言葉では「カナン」と呼ばれています。東には古代文明の発祥の地であるメソポタミアが広がり、南にはこれまた古い文明の一つであるエジプトがあります。よく言われる表現では、そういう大国に挟まれた猫の額ほどの狭い土地がカナンであって、アブラハムはそこを目指してメソポタミアから旅をし、客人としてその地に住むことになりました。
このアブラハムから子どもたちが生まれて、その三代目に当たるのがヤコブです。ヤコブは父の故郷であるメソポタミアのアラムに旅をして、そこで結婚をし、牧畜業を営んでカナンの地に帰って来ます。彼には双子の兄がいて、そもそも兄を騙して一人で旅立った経緯があって、父の家に帰るにも兄に合わせる顔がありません。しかし、ヤコブは神に祈って、神の使いと夜中に格闘して、故郷に帰る勇気を得たのでした。その時に、あなたは神と戦って勝った、と神に褒めていただきながら賜った新たな名前が「イスラエル」です。そして、このヤコブから12人の息子たちが生まれます。後々彼らはイスラエル12部族と呼ばれて、カナン地方に自分たちの国を造るまでに成長します。そのように「イスラエル」は神に選ばれた民族として聖書の中に登場し、ダビデという王をいただく頃には中東地域一帯を支配する独立国家にまで成長しています。 そこで、今日のユダヤ教徒もまた、「私たちは神に選ばれたイスラエルである」との自覚をもって、あの土地を占領し続けているのであって、戦争をも辞さない強硬な姿勢で周辺のアラブ諸国と対峙してきています。
旧約聖書における選びの民イスラエル
聖書によれば、イスラエルは神に選ばれた特別な地位をもつ民族です。旧約聖書の最初におかれた『創世記』の中でその名前がつけられた経緯が記されています。旧約聖書に登場する最も重要な人物の一人はアブラハムです。このアブラハムを父として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれたとさえ言われます。まさに一神教の父ですね。神はこのアブラハムを特別に選び出して、私の示す土地に行きなさいと命令を与えます。そして、あなたから生まれる子どもたちは空の星のように、また浜辺の砂のように増え広がると祝福の約束を与えます。そこで示された土地というのが今日のパレスチナ、またはイスラエル国のある土地で、旧約聖書の言葉では「カナン」と呼ばれています。東には古代文明の発祥の地であるメソポタミアが広がり、南にはこれまた古い文明の一つであるエジプトがあります。よく言われる表現では、そういう大国に挟まれた猫の額ほどの狭い土地がカナンであって、アブラハムはそこを目指してメソポタミアから旅をし、客人としてその地に住むことになりました。
このアブラハムから子どもたちが生まれて、その三代目に当たるのがヤコブです。ヤコブは父の故郷であるメソポタミアのアラムに旅をして、そこで結婚をし、牧畜業を営んでカナンの地に帰って来ます。彼には双子の兄がいて、そもそも兄を騙して一人で旅立った経緯があって、父の家に帰るにも兄に合わせる顔がありません。しかし、ヤコブは神に祈って、神の使いと夜中に格闘して、故郷に帰る勇気を得たのでした。その時に、あなたは神と戦って勝った、と神に褒めていただきながら賜った新たな名前が「イスラエル」です。そして、このヤコブから12人の息子たちが生まれます。後々彼らはイスラエル12部族と呼ばれて、カナン地方に自分たちの国を造るまでに成長します。そのように「イスラエル」は神に選ばれた民族として聖書の中に登場し、ダビデという王をいただく頃には中東地域一帯を支配する独立国家にまで成長しています。
そこで、今日のユダヤ教徒もまた、「私たちは神に選ばれたイスラエルである」との自覚をもって、あの土地を占領し続けているのであって、戦争をも辞さない強硬な姿勢で周辺のアラブ諸国と対峙してきています。
ユダヤ教とは何か
確かに聖書には「イスラエル」の歴史が記されていて、神が土地を与えたとあるのですが、そうすると問題は、それが現代に至るユダヤ人とどう関係するのか、ということになるでしょう。そこで、キリスト教と並ぶユダヤ教についても幾らかお話ししなくてはなりません。ユダヤ教は聖書とは言っても旧約聖書の神を信じる信仰であって、旧約聖書にあるモーセの律法を戒律として宗教生活を送ります。例えば、モーセの律法に先立って、神がアブラハムと結んだ契約には「割礼」の掟が条件とされています。それが、神に選ばれたイスラエルであることの証拠となります。割礼とは生まれてから8日目の男の子の性器の皮を少し切りとる儀式ですけれども、現在でもそれはユダヤ教徒の間で実践されています。それから重要な掟としては、安息日厳守を神から命じられています。安息日の掟はモーセの十戒にも含まれていて、神を礼拝する厳粛な掟の一つです。キリスト教会が日曜日に礼拝をささげるのもその延長上にあります。安息日は日曜日ではなくて金曜日の日没から土曜日の日没までなのですが、安息日には神を礼拝するために一切の労働が禁じられています。飲食は許されていますが、その準備は労働に当たりますから、安息日が始まる前にすべて整えておく必要があります。
私は1996年から2001年までエルサレムにある大学に留学していました。初めは大学の寮で生活していたのですが、まずは安息日の過ごし方にずいぶん悩まされました。金曜日の夕方になると安息日が始まりますから寮の敷地に入るゲートも施錠されます。寮の敷地内には学生用のコープがありましたが、安息日が始まるまえに食料を買いだして置かねばなりません。慣れてくるとゲートを超えて安息日に関心がないアラブ人の商店に買い出しにも行くようになりましたが、安息日はバスも動いていませんから、アラブ人のタクシーを探して拾うか、どこへ行くにも徒歩で行かねばなりません。町の人々は金曜日の夕方までに買い出しを済ませるコツを心得ています。町の中心街ではあっても午後2時を過ぎればバスはほとんど来なくなります。ですから、なるべく早めに買い出しを済ませます。もっと慣れてくると安息日の休息は心地よくなります。毎週お正月が訪れるような感じです。バスも車も停まって、町の商店も皆閉まっていますから、自分だけ働いているとバカみたいに思えてきます。ともかく、なにもしないで過ごすほかはありません。信仰深いユダヤ人の家庭では本当になにもしないわけではなくて、家族で揃って礼拝に出かけます。礼拝のためにきれいに正装して、皆で聖書を読み、祈りをささげる一種のお祭りです。キリスト教の礼拝にもよく似ています。
現代に続くユダヤ教は、紀元2世紀頃に遡ることが出来ます。さらに古く旧約聖書の時代にまで遡るのではないかと言えば、その通りですけれども、旧約聖書にある古代のユダヤ教ではエルサレムにあった神殿が中心的な働きをしていて、これが紀元70年にローマによって破壊されてしまってからは、ユダヤ教は新しい道を歩み始めました。それが丁度、キリスト教の始まりと重なるのでして、聖書を受け継ぎながらもモーセの律法を実践してユダヤ人としての血縁によって民族を守っていくユダヤ教と、血縁にはよらず、聖書を重んじながらもイエス・キリストへの信仰によって、神と人とを愛する道を歩んでいくキリスト教とが始まりました。よくユダヤ教がキリスト教の母体である、と説明されますけれども、旧約聖書のイスラエル宗教からユダヤ教とキリスト教が分岐したとする方が正確です。現在に続くユダヤ教がキリスト教の母体であったわけではありません。
イエス・キリストとイスラエル
その分岐点に新約聖書があります。新約聖書は旧約聖書に続く書物として記されていますが、その内容とするのはイエス・キリストに現れた神による救いについての出来事と教えです。今日お読みした箇所は新約聖書の福音書にある重要な個所で、イエス・キリスト自身による旧約聖書の解説です。ユダヤ人として生まれたイエスは旧約聖書に精通した先生でしたが、聖書を学ぶことをよすがとしているユダヤ人の教師たちと度々論争になりました。今日の箇所では、そういうユダヤ人の一人がイエスに質問をしています。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。ユダヤ人は聖書にある教えを掟として暮らしていましたが、先ほども言いましたように生まれた子どもに割礼を施すとか、安息日に仕事を休む他にもたくさんの決め事がありました。今でも続いているものとしては食物規定があって、食べてよいものと食べてはならないものとの厳密な区別があります。その食物規定を「コシェル」とか「カシュルート」と言いますが、これも聖書にある教えに従って、鱗のある魚は食べてよいけれども、鱗がない魚介類、エビとかカニとかタコとか貝類は食べてはいけないことになっています。それでも現代のイスラエル国は日本食ブームで寿司屋が流行っていたりするのですが、食材は圧倒的に限られていて貧しいものです。安心して食べられるのは「かっぱ」くらいでしょうか。キュウリは安全です。マグロもOKですが。そういう生活上の決め事が613あったと言われますので、ユダヤ教徒として生活するのはなかなか大変です。そういう掟の中で一番大切なものは何か、と律法学者=聖書の教師がイエスに質問をしたわけです。その最初の答えは誰もが知っている聖書の言葉でした。
イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
これはユダヤ人なら誰もが知っているはずの一節であって、真面目な信徒であれば毎日のようにこれを祈りの言葉にして唱えていた教えです(これは旧約聖書の申命記という書物の6章4節以下にある聖句です)。世の中には数々の神々があるけれども、本当の神はただ一つであって、イスラエルの人間は皆、この唯一の神だけを、力の限り愛さなければならない。これが第一の掟であることは、ユダヤ人であるならば誰もがわかっているはずでした。そして、イエスの教えが独特なのはその次です。教師が質問したのは「第一の掟」でしたけれども、イエスはそこに「第二の掟」を付け加えます。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という掟です。誰もが自分の命のこと、健康のこと、財産のこと、仕事のことなど、自分自身のことには何よりも一番気遣って生活をしているとの前提で、そのように誰でも自分自身を愛しているように、あなたの隣人のことを愛して、気遣って生きること、これが神を愛することに加えて重要な掟だ、とイエスはおっしゃったのでした。
イエスに質問した律法学者はおそらくその答えに感動したのでして、神を愛することと人を愛することが聖書の掟の中心であるとの答えに十分満足であったようです。このようにこの二つを結び付けた教師は、当時他にはなかったと言われます。神を愛するとは、実に神を愛する自分に一番気を付けることですよね。私がどれほど神を愛しているかを、礼拝の実践によって、沢山祈ったり、聖書の勉強に集中したり、沢山の献金をしたりして表そうとします。ですから、意地悪な言い方かも知れませんが、周りの人間に迷惑をかけながらでも神を愛することはできるわけです。
そういう態度が当時の宗教家たちの間に見られたことは、他の箇所でイエスがたとえでお話しされました。新約聖書のルカによる福音書に「善いサマリア人」のたとえ話がありますが、それによると旅人が強盗に襲われて道に倒れているところを、神殿で神に仕える祭司やレビ人が通りかかると、見て見ぬふりをして遠巻きに立ち去ったと言われました。たとえですからお話しですが、実際そういうことがあったからこそ、そのたとえ話が成り立っているものと考えられます。口では神に従えとか偉そうなことを言っているけれども、彼らだって怪我人を助けるのも億劫がる罪人に過ぎない、というイエスの批判がそこに込められています。そこで、イエスは「隣人を愛する」とはどういうことかをそのたとえで教えられたのでした。つまり、そこに通りかかったサマリア人、当時のユダヤ人に嫌われていた外国人が、たまたまその道を通りかかって、怪我人を宿屋に連れて行って介抱し、費用も全部自分で賄ってくれた、という話です。実際にあり得るかどうかという話ではなくて、それが「隣人を愛する」ということだとイエスは教えたのでした。
イエスに質問をして、それが分かったと喜んだ聖書の教師は、イエスのおっしゃる通り「神の国から遠くない」、つまり聖書が語っている神の真実に近づいたと言えるでしょう。つまり、神を愛するというのも自分本位な心では実現できない。むしろ、それが隣人を愛することと一つになってこそ、本当に神を愛する心になれるのだ、ということをイエスは教えたのでした。
これが聖書を通じて神がイスラエルに与えた掟の心です。イスラエルは神と隣人を愛することによって、神の選びの民であることを証明することができるはずです。しかし、今のイスラエル国は、やはりイエスが教えたようには聖書を理解していないようです。自分たちは選ばれたイスラエルである。だから敵対する民族は愛するに値しないから殺してもいいのだ、と開き直る姿勢は聖書の教えには合いません。彼らは本当に神が選んだ民族なんでしょうか。聖書はそれについてどう言っているのでしょうか?
第二次大戦後に造られたイスラエル国が、聖書にある神に選ばれた民族イスラエルと同じである、とは、そこに住むユダヤ人が勝手に主張していることです。もともとイスラエル国が建国された当時は、欧米諸国のように民主主義をモットーとする現代的な国家を立ち上げたはずだったのですが、ユダヤ民族中心主義をかかげるシオニズム勢力に乗っ取られてしまって、結局はユダヤ人国家になってしまったのが現代のイスラエル国です。
これに対して、イエス・キリストによって、信仰による救いを受け取ったキリスト教会は、神に選ばれた民族は、イエス・キリストによる救いを信じるすべての人間からなるのであって、ユダヤ人が自覚するように掟に縛られて神に選ばれているのは間違いであると新約聖書から教えられています。イスラエルとは、民族名でも新しい国家の名前でもなくて、イエス・キリストを信じて、神を愛し、人を愛することに命をささげるようになった、真のキリスト教会のことを指しています。
イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、ヨルダン川に洗礼を受けに来たユダヤ人に向かってこう言い放ちました。
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(マタイ3:9)
神に選ばれたイスラエルだからと言って皆が自動的に救われるわけではない。ユダヤ人であって割礼を受けていても心から悔い改めて神を信じる者が神に選ばれたイスラエルに相応しい、ということです。
異邦人にキリストの福音を伝えたパウロも手紙にこう書いています。
このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。(ガラテヤ6:14-16)
パウロが語る「神のイスラエル」は、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、復活の命を信じる信仰によって、「新しく創造された」キリストの教会です。歴史に現れたイスラエルには、旧約聖書が記しているように、確かにイエス・キリストへと導く道へと神が選んだ目的があって、その民族だけが、真の神による救いを知らされていました。しかし、神の子であるキリストが現れて、もはや民族によらず、社会的な地位によらず、すべての人を世界の創造者である神のみもとに集め始めてからは、心から罪を悔い改めて神と人とを愛する道に生きる人々こそが、神に選ばれたイスラエルなのです。 神の名を語って地上の土地にしがみつき、他民族を見下しながらその財産を破壊し、子どもたちを殺して止まない現在のイスラエル国が、神の選んだ人々であるわけがありません。自分たちはホロコーストの悲惨に目にあったから何をしてもいいんだ、と開き直る態度は今日言われるところの自己愛的人格障害のようにも見受けられます。今日、世界中で学生たちを中心にイスラエルに反対するデモが行われています。イスラエル国を支持する米国に嫌われたくない日本の報道ではほとんどそのニュースを扱いませんが、多くの逮捕者を出したりしながら、皆の怒りは沸騰状態です。日本では京都でその類の反対デモが継続的に行われています。イスラエルは軍需産業では人気があります。日本もそこへ参入して利益を得たいがためにイスラエルとの友好を保ちたい人々があります。しかし、その混沌に加わるならば、いずれ日本も戦争に参加しなければならなくなって、中東問題が長年関わる暗闇をアジアで背負うことになるでしょう。そうならないためにも、イスラエルに対しても正しい知識と判断を私たちが併せ持つことが大切に思われます。宗教もまたそれに加担しないように、イエス・キリストを信じる信仰を保って、この世の富への執着から離れる努力をしなければならないと思わされます。
祈り
憐れみ深い天の御神、世界はあなたの名を語って混乱をもたらす者たちがたえず、わたしたちも惑わされて、進むべき先を見分けるのが困難な時があります。どうか、イエス・キリストが身をもって教えてくださった愛の道を全うすることができるように、あなたが選んだイスラエルである教会を励まし、ここへと人々を導いてくださいますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。