はじめに

これまで私たちは『ヨハネによる福音書』と『ヨハネの手紙一』から御言葉を聞いてきました。「わたしは真理であり、命であり、道である」と言われる主が、使徒ヨハネの証を通して私たちを神と共に生きる日常へと招いてくださいました。続けて私たちは『ヨハネの黙示録』を学びたいと思います。福音書を記したヨハネと、黙示録のヨハネとが同じ人物であるかどうかは分かりません。この「黙示」を記した人について言えば、使徒ヨハネの名を受け継いでその権威を委ねられた教会の指導者であった、ということで十分です。私たちがヨハネの書物を続けて学びたいのは、『ヨハネの黙示録』もまた福音書と同じように、天上のイエス・キリストの栄光ある姿を際だった形で伝えるという点で共通するからです。私たちは福音書を通して、歴史的なイエスの伝記を学んできたのではなくて、そこに記されたイエスの言葉が、今の時代を生きる教会に向けて語られてくるのを聴きました。同じように、黙示録においても、天の玉座についておられる神の小羊として表されて、そこから現代の教会に語ります。

「黙示録」と呼ばれていますが、これは同時に手紙でもあります。そのことは、先程聴きましたところの、1章4節から5節でもはっきりと分かります。小アジアに置かれた7つの教会宛に送られ、回覧されて、それぞれの教会の礼拝の中で朗読された手紙です。それが聖書という形で私たちのところにまで届けられた、そういうものとして読まれるべき御言葉です。福音書を通して、私たちは人間としての弱さに決して屈せずに、神の小羊として地上の生涯を歩まれた主イエスの姿を心に刻みました。また、主なるキリストが十字架と復活による栄光を受けられて、永遠に弟子たちと共に歩まれて、世界に神の愛を告げ知らせることを学びました。その主なるキリストを思い起こしながら、私たちは黙示録の言葉に向かいたいと願います。ここには、その後の教会が再び主イエスの栄光を仰ぎ見たいと願ったときに、神がお与えになった答えがあります。

難解な「黙示録」

ただ、この書物を読んだことがある兄弟姉妹はよくご存じのことと思いますが、この「黙示録」にはただならぬ近づき難さがあって、素直にその言葉を聴いて恵みと真理に触れるということにはなりません。事実、キリスト教会の歴史においても、この書物の扱いについては慎重でしたし、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちもむしろ触れないでいることを願いました。

また教会の中でこれ程誤解を受けてきた書物もありません。新約聖書に記された唯一の預言書でもあり、それが世の終わりについて記しているということで、ヨハネがあたかも現代の、ある特定の事件を予告したかのように読まれてしまって、際物好きな人々の好奇心や迷信深さの餌食にされてきました。確かに神の言葉は、今という終末を生きる私たちに、直接呼びかける言葉として聴かれることが求められます。けれども、「黙示」という神の啓示の神秘に触れる私たちには、むやみやたらな興味をもって占いのように聖書を読み解こうとする俗悪さからは一切遠ざかる慎重さが必要です。また、聖書の全体からキリストの言葉に聴こうとする正しい教理の手引きとが欠かせません。現代にあっても「世の終わり」「終末論」という言葉には、世間ではあるいかがわしさがつきまといます。それだけに、この書物の読み方如何によっては、教会はとてつもない過ちを犯すことになりかねません。現に聖書の預言の誤った根本主義的な理解が、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教を滑稽では済まされない深刻な終末信仰に巻き込んでしまっていて、それが世界各地で起こっている宗教テロの温床にもなっています。これは決して他人事ではなくて、私たちの聖書の読み方と直接関わる問題です。ですから、私たちはこの書物から学びながら、キリストが語っておられることとそうでないことを慎重により分ける術をも学ぶことになります。

終末の希望

聖書に基づいて教会が信じる「終末信仰」は、世界の終わりに待ちかまえる破滅を占うこととは関係がありません。人々が「終末」と耳にして不安に感ずる、その心の動きには考えてみる価値のある事柄が含まれていますが、聖書の教える「終末」はむしろ私たちに希望を与えます。

日本キリスト改革派教会が創立60周年の記念として出した宣言に「終末についての希望の宣言」があります。何故、世の終わりが「希望」だと言えるのか。それは「終わり」には救い主なるキリストがおられるからです。『ヨハネによる福音書』には、次のようにありました。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(3章16−17節)

御子イエスを世に与えて御自身の憐れみをお示し下さった神が万物の終わりに待っておられます。最終的な世界の審判者は救いの神です。それが、終末論の中心にあることです。私たちは神をどのようなお方として信じているでしょうか。そのお方が最終的にはすべてを握っておられます。もしも私たちが、人間をゴミ屑のように扱う冷酷無比な暴君としての神に力ずくで押さえつけられているように信じるのであれば、最後にはそのお方が大審問官として立ちはだかります。しかし、私たちが聖書から、特に、これまで聴いてきましたヨハネ文書から知らされたのは、小羊と呼ばれた御子キリストにおいて顕された神です。イエスは繰り返し「わたしは主である」と御自身をお示しになって、「わたしを見た者は、父を見たのだ」とも言われました。私たちのために命を捨てたお方が私たちの神です。このお方が、主イエスを信じる私たちにとっての最終的な審判者です。

ですから、最後に慰めを期待することができます。この世の生涯においても、最も深いところでそのお方に信頼をおくことができます。そういう意味で、「終末論」において示されるのは私たちの希望です。その点で、『ヨハネの黙示録』が私たちに語る世の終わりも実は同じことです。確かに、ヨハネが幻の中で目撃した光景は、主に戦争の描写ですから決して心地よいものではありません。むしろ具体的にイメージするとおぞましい部分もあります。けれども、そうした描写の背後に示されるのは、やはり希望です。人間の欲望や復讐心がたぎって現れてくる世の中の悲惨さを前にして、それでもわたしは神を信じると言える根拠がここに与えられます。

ヨハネの見た幻の中で、神は一際高いところにおられます。その高さが近づき難いもう一つの理由です。そして、その崇高さにおいて示される神の審判が、人間に救いをもたらし、希望を与え、慰めとなります。聞き違えますと、復讐心を満足させて慰めるかのようにも受けとられかねませんが、そうではなくて、苦悩の終わりによって慰められる、ということです。

神の高さと比較されるのが、この世界の支配者たちの高さです。それは生きる人間を踏み台にした驕り高ぶる姿でして、この書物では獣と呼ばれます。この獣を、ヨハネが見たとおりに絵に描いてみせることはできませんが、ここにヨハネと教会が直面している世界の現実があります。ぼーっと読んでいたら分かりませんが、ヨハネの時代は獣が支配する時代です。自分のすぐ側で、仲間たちが次々に殺されていく日常があります。野獣のような野蛮さが絶大な権力を誇って、愛する者たちを次々に切り裂いていく。生きる望みも、気力も一つ一つ摘み取られてしまう時の中で、ヨハネは神の高さに引き上げられて、幻の中で神の声を聴きます。それを同じ境遇に置かれた教会の友たちに書き送ります。黙示録は、そうして私たちに現実を突きつけます。その幻想的な上辺とは違って、私たちが信仰の中に逃避することを許しません。天上の世界は決して安穏とはしていません。

神の名

『ヨハネの黙示録』は、神がイエス・キリストを通して、その僕である教会に送られた神の言葉です。「黙示」とは啓示という意味です。人間には隠されている神の御旨が、御子を通して密かに明かされました。そしてキリストの僕であるヨハネは、キリストの証言者として、時のしるしを告げ知らせます。ヨハネが聴いたのは初めて耳にしたことではありませんでした。彼が見聞きしたのは、彼がよく親しんだ旧約の御言葉が映像化したものです。7節に「見よ、その方が雲に乗って来られる」とありますが、これは『ダニエル書』7章13節にある言葉です。また、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに彼を突き刺したものどもは」と続くのは、ゼカリヤ書12章10節以下からの引用です。旧約時代に預言者を通して語られた神の救いの約束は、命の言葉としてヨハネの時代にも神のおられるところを指し示します。希望が失われそうな現実に直面して、ヨハネは神の顕現に接して、御言葉の真実を確信して教会に証言します。ヨハネが書いて送るのは、教会が失望して下を向いてしまわないように、たとえどんな状況にあっても、天高くおられる神を見上げて希望を持ち続けるように励ますためです。

  8節では、神の名が啓示されます。「神である主」−旧約聖書を通して御自身の名を示された「主」という神の名があります。「わたしは有って有る者」とモーセに示されたその名が、続いて次のように呼ばれます。

 今おられ、かつておられ、やがて来られる方...(4節、8節)

ヨハネが接した「主」という名前を持つお方は、この黙示録においては歴史的な存在として名前を示されます。「あってあるもの」とは、かつてモーセと共におられたお方であり、今もわたしと共にいてくださるお方であり、そして、将来も変わらずにこの世界と関わりをもっておられるお方です。ただ、将来については、「おられる」のではなくて、「来られる」と言われます。ここにヨハネの告げる神が示されます。「やがて来られる」。ヨハネが冒頭で「すぐにも起こるはず」と述べていることの本質は、主がすぐにも来られる、ということです。

このお方は、続いて「全能者」と呼ばれます。これは旧約聖書では「万軍の神」とあるところのギリシャ語訳です。神は何でもおできになる、そういうことが「全能」なのではなくて、「すべてを御自分の支配のもとに置かれる」ということが本意です。そして、その神御自身が名乗りを上げられます。

 わたしはアルファであり、オメガである。(8節)

アルファはギリシャ語の最初の文字、オメガは最後の文字です。「わたしは初めであり、終わりである」と、別のところでは述べられています。その意味は、旧約聖書以来、御自分の名を世界に知らされた全能の神こそが、歴史の初めであり終わりであり、万物の支配者であるということです。

この世の権力者が絶対を誇るとき、神はこうして使徒を通して御自身の名を明かされます。人間が歴史を始めたのではなく、また、人間が歴史を終わらせるのでもない。人が人を支配しようとする世界に絶望してはならず、まなざしを高く上げてアルファでありオメガであるお方を見なさい。そう、教会の仲間に告げなさい。それがヨハネの黙示が担う使命です。

神が高めてくださる

こうして、この文書は諸教会を巡って希望の根拠を示すための、キリストからの手紙となりました。私たちはこれから、この手紙の言葉を聴き、学びたいと願っています。それは、今私たちの時代にあっても、人が自分の権力を誇ろうと躍起だからです。力のない人々はささいなことで失望し、生きる気力を見いだせなくなってしまいます。そうした人が立ち上がるには、まなざしを高く引き上げなくてはなりません。しかし、それは生まれながらの罪ある人間には、本来自分からは不可能なことです。神によって、その高みに引き上げて戴かなくてはなりません。そして、誰が最後の審判者なのかを知らされなくてはなりません。

現代の世界にあって苦しみや悲しみを知る人々が求めるものは何でしょうか。私たちはその苦悩を共に担うことができるでしょうか。そして共に、正義や真実を、人の愛を求めることができるでしょうか。神はそうしたものに飢え渇く人を、神の子として立たせて下さいます。「見よ、わたしはすぐに来る」−そう約束されたお方は、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」主イエス・キリストです。主イエスは、罪に打ちひしがれた私たちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司として下さいます。それは、人間として真実に栄誉ある命のあり方です。私たちが召された場所を、この聖書の言葉から確かめながら教会の歩みを共に進めたいと願います。

祈り

困窮のなかにある教会をけっしてお見捨てにならず、御自身の名を啓示されて、希望の源で有り続けて下さる、主イエス・キリストの父なる御神。私たちはあなたの御前に進み出て、今朝もまた、こうして御言葉を受けとることができました。歴史の大きな流れの中で、私たちの教会も国家も小舟のように波にもまれて行く先を見失いがちです。しかし、歴史の創始者であり、その最後の審判者であるあなたこそが、すべてを御自分の御旨のままに導くことがおできになります。主イエスによって御自身をお示し下さった、私たちの父であるあなたを見上げて、私たちが希望を見失わず、あなたに召されたところに従って確かな歩みを続けることができますように、御言葉を通して導いて下さい。世の不正に終わりをつげるあなたの裁きが、一日も早くもたらされることを私たちは願います。どうか、あなたの約束された時を待ち望みながら、平和を求める世の人々と共に働くことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。