パウロによる公同の手紙

この手紙はパウロが晩年にローマの獄中で記したものと言われています。もしかすると、パウロの弟子が記したものかも知れませんが、手紙の冒頭に「使徒パウロ」と書いてありますから、その名の下に聖霊の権威が認められて、教会で読まれて来た手紙には違いありません。

「エフェソにいる聖なる者たち」と宛先が書いてありますが、実は古い重要な写本にはこの宛先のないものがあります。それで、「エフェソに」というのは後で加えられたものだろうということは概ね認められているようです。「エフェソの信徒へ」というのは、ですから、あまり厳密なものではありません。手紙の内容からしても、特定の宛先となる教会の姿が浮かび上がってきません。先に学びました『ガラテヤの信徒への手紙』では、パウロの情熱的な言葉遣いからも伺えましたように、ガラテヤの諸教会が陥っている具体的な問題がおよそ伝わってきました。この手紙では、そうした具体的な情報が欠けているばかりか、結びの言葉が「すべての人と共にあるように」とより一般的な表現になっていて、おそらく異邦人教会で幅広く読まれるように配慮されたものと思われます。パウロの手紙ではありますけれども、ペトロの手紙やヨハネの手紙など『公同書簡』と呼ばれるものに近づいています。

そういうことで、私たちはここから教会にとってのより普遍的な教えを受け取ることができます。地域や時代を越えた広がりと深みをもつ、福音の理解がここから与えられます。実践的な主題も後半には出てきます。例えば、5章には妻と夫に対する勧めがあります。結婚式の時にいつも読まれる箇所です。「妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」などとあります。そうしたキリスト者の生活に関する倫理的な勧告もなされますが、よく整理されて、落ち着いた洗練された口調で語られます。

何よりこの手紙から教えられることは、キリストと教会との切り離し難い関係です。それは夫婦の関係にもなぞらえることのできるような有機的な結びつきです。今回、この学びを始めるに当たって、ある姉妹にお願いして榊原康夫先生の『エペソ人への手紙』の説教集をお借りしました。もう絶版になっていて手に入らないと聞いていますから古本屋で見つけたらもうけものです。この説教集については以前、私が神学生の時に同僚から話を聞いていました。神学校の同級生に東京恩寵教会出身の神学生がいまして、その彼が執事をしている時にエフェソ書の講解説教がされたそうです。ちょうど教会が会堂建築をすることになって、榊原先生がそこでエフェソ書の恐るべき綿密な釈義説教をされた、と聞いていました。教会とは何か、という聖書の教えを、教会員の心にしっかりと刻み込むことのためでしょう。それで説教集を開いてみますと、確かに恐るべき細かさです。榊原先生の説教は決して難解ではないのですが、詳細を究めます。今朝、一緒にお読みした1章の1節から14節までの部分は、何と20回の説教がささげられています。私はこれを今日と来週でしようと思っているのですが。

こういうことからも本書の性質が分かります。エフェソ書はパウロの手紙の集大成としての性格も持っていて、全体で6章に過ぎませんけれども、ローマ書やコリント書に匹敵する重要な手紙です。パウロの教えがじっくりと熟成して言葉に結実しています。手紙というよりも詩編にも似た、礼拝式文のような文章です。一節一節を味わう価値があります。ここから、私たちも教会とは何か、ということを深く学びたいと思います。パウロの言葉で言えば、教会とはキリストの体であって、私たちはその体を地上で生きるのです。そういう教会への信仰をここで確かにされたいと願っています。

神の御心

原文では「パウロ、使徒」と最初に言葉が並ぶのですが、私たちの手元にある聖書では「神の御心によって」と始まります。この「御心」が今日の一つのキーワードです。パウロはこの手紙で神の「御心」を明かしてくれます。「御心」とは「考え、意思」です。神の御心ですから、人間の知りえない神秘です。人間の知恵の及ばない領域のことです。それが明かされるのですから、これは大変なことです。パウロがここで語っているのは人類の知りえない神の秘密です。8節以下にこうあります。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。

「秘められた計画」の中核にあるのはイエス・キリストの十字架です。7節にこうある通りです。

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。

神の御子イエス・キリストの十字架による贖いと赦しの出来事です。パウロは何も旧約の預言者のようにどこか遠くに連れていかれて幻を見たわけではありません。その生涯においてイエスの十字架という事件に出くわしました。そして、復活された主イエスに出会って、その声を聞いて、十字架の意味を悟らされたのでした。何故パウロが神の秘密を知るようになったかといえば、それはキリストがパウロを選んで、神の御心を教えたからです。それを異邦人に伝えるためにパウロは特別に選ばれて13人目の使徒になりました。

他方、神の御心は全く知られていなかったわけではありませんでした。旧約聖書を通して神の御旨はイスラエルに明かされていました。しかし、すべてが明かされていたのではなく、イスラエルの人々は神の約束に従ってメシアによる救いを待ち望んでいました。そしてついに時が来て、神の愛する御子であるイエス・キリストが世に送られて来ました。御子の到来は多くの人の目には隠されていましたけれども、聖書に忠実に学んで信仰を保っていた人々は、イエスの内に神の救いを認めました。多くの人を孤独と病いから救ったイエスはユダヤ人の嫉みを買って十字架で処刑されました。しかし、その死は多くの人々の罪を死の裁きから贖う、つまり、買い戻すための死であり、神が人間と和解するための、罪の赦しを獲得する死であったことが、弟子たちの心に示されました。聖霊が、その真の理解を与えてくれました。こうしてついに「神の御心」が知られるようになりました。それは、罪人を赦すという神の意志です。イエス・キリストの十字架こそ、その意志の現れでした。

パウロが語る「秘密」はそうして聖霊によって使徒たちに告げられたものです。パウロだけが知っていたことではありません。キリストによって初めて明らかにされた秘密は福音と呼ばれる神の救いの真理ですけれども、その計画の全貌はさらに深められてこの手紙で示されます。尤も、人間には今も神の計画の「全貌」を詳細に知ることはできません。特に未来の具体的な像については分かりません。それを言い当てるような宗教はむしろ神に対する越権行為を働いています。

御心の内に愛されて

パウロがここで告げている神の救いの計画について、今朝は二つの点に絞って心に留めたいと思います。前提となるのは神には御計画がある、ということです。おそらく、そんなことは聖書を知らない人は考えもしないと思います。いろいろな宗教が似たようなことを言いますから、あるいは噂に聞いた方もあるかも知れません。それらとは別に、聖書を通して、私たちは神にはこの世界に対する計画がある。つまり、天地創造の初めがあり、そこから始まる人類の歴史があり、そのすべてが行き着く終わりがある、ということです。そこに神の秘められた計画があります。そして、それを理解する鍵が御子キリストによる救い、福音の出来事です。それは、単なる出来事ではなく、13節にありますように、福音は真理の言葉であって、信じて受け入れる者を救います。つまり、神の御心にある秘められた計画とは、イエス・キリストによって罪人を救うことです。

ここで、心に留めたいのは、その御計画の動機と目的です。神は何故、天地を創造なさったのか。どうして人間を創られたのか。さらに、どうして私をこの地上に生まれさせたのか、という動機についてです。4節と5節にこうあります。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

動機は一目瞭然です。「神が私たちを愛した」とあります。神の創造は愛に基づいて行われました。創世記が記すのは、はじめにこの宇宙が誕生した時に神の祝福がこだまする声です。確かに後に罪によって自然も人間も共に堕落してしまいますけれども、神の創造は愛を動機としています。パウロはそこで、私たちが神に愛されたのは、創造以前だと言います。改革派教会の信仰の神髄とも言われる予定論については、次の機会に詳しく学びたいと思いますが、今朝はこの御言葉からこうお話ししておきます。私たちは天地が創られる前から神の御心の内に生まれたのであって、その時から愛されて、また、神の愛の中で生きるように地上に生み出された、ということです。これが動機に関することです。それは同時に、私たちが今生かされていることの意味について、さらに信仰者とされたことの意味について、最も深い理解を与えてくれます。神の愛によって私たちはまず御心の内に存在を始めました。そして、その愛に生きるためにこの世に生まれ出たのです。私たちがこうして聖書を通してキリストに出会い、その救いを知って、信じるようになったのは、すべて神の御計画であった。私たちの命は、それがこの世に現れる前から、神の愛と共にあり、そして、そこから離れることができないと知ったことで、パウロは神の栄光をほめたたえます。

神の栄光をたたえるため

そして目的は「神の栄光をたたえるため」です。神に愛されて存在するようになった私たちの命は、「神の栄光をたたえる」という目的をもっています。私たちひとり一人の命がそうであるばかりでなく、神の創造全体がその目的に向かっています。秘められた計画の目標が、10節に語られています。

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、 あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

イエス・キリストが目標です。イエス・キリストにあって万物が神の栄光をたたえるようになること。すべてが神の栄光の器として、その愛の輝きに照らされること。そして、その全体が、すでに神の御心の内に定まっていること。この宇宙の全体が、そして、人類の全体が、イエス・キリストの内に意義づけられている、とパウロは告げています。

この手紙のはじめの段落をパウロは賛美の言葉で書き記しています。他の手紙も同じように語り始めています。神の真理は神への賛美の中でこそ明らかにされる、ということを心に留めたいと思います。そして二つ目のキーワードは「神の栄光をたたえる」です。「たたえる」は「称賛する、賛美する」ということですが、この言葉の含みは「明らかにする」ことです。つまり、「神の栄光をたたえる」とは「神の栄光をあらわす」ことです。

「神の栄光をあらわす」とは、イエス・キリストによって私たちに知らされた神の救いの恵みを私たちが喜んで受けとり、その素晴らしさをたたえることです。私たちの心の内に、キリストへの感謝と、父なる神への賛美が溢れるときに、神の栄光が私たちを通してあらわされます。宗教改革者のカルヴァンはそこを次のように言い表しています。

神の栄光は、われわれがただその憐れみの器であるときに、われわれに現れる。

私たちが神に愛されるのは、私たちが何ものかであったからではありません。私たちがどのような人間だとしても、私たちは永遠の昔から神の御旨の内で無条件に愛されて生まれたのです。ですから、その愛を受けて、神の慈愛の器として自分を神に差し出して、キリストと共に生きるときに、私たちは自分の存在を通して神の栄光をあらわします。ウェストミンスター小教理問答の第一問は、この福音を受けて、私たちの人生観を次のように告白しています。

 問1 人のおもな目的は、何ですか。

 答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

私たちが生きて行く上では毎日いろいろなことが起こります。悲しみも痛みも苦しみも、形をかえて次つぎとやってきます。ですが、福音を真理と受けとめて、キリストと結ばれて歩む私たちには、たとえどんなときにも生きる目的があって、神に愛されているがゆえに支えられます。パウロが語る福音を通して、私たちが聞いた秘密は以上のようなことです。神の御心はキリストにあって揺るがない私たちの命の祝福であることを心に留めて、今週の歩みに出て行きましょう。

祈り

永遠の昔から私たちをキリストにあって選び、信仰を与えて今を生かしてくださいます、天の父なる御神、あなたの子として受けいれていただいた光栄を、どうか心から喜び、感謝して過ごすことが出来ますように、聖霊をお与えください。あなたの恵みの器として、謙遜に御言葉を聞きながら、救いの完成を待ち望ませてください。あなたの御心を信じることのできないで迷っている多くの人々に、知恵と理解を与えて、御子キリストの恵みに触れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。