揺れ動く教会
『ガラテヤの信徒への手紙』は、パウロが伝道旅行をしながら開拓して行ったガラテヤ地方の諸教会へ宛てられた手紙です。手紙ですので、論文ではありませんから、個人的な感情なども率直に文面に映し出されます。読んですぐに分かると思いますが、パウロは結構激しい人です。
パウロが教会に手紙を書き送ったのは、単に時候の挨拶をするためではありませんでして、そこに解決すべき問題があったからです。ガラテヤ地方の諸教会は新しく開拓された異邦人教会でした。歴史を次いで聖書から学び続けて来たユダヤ人の教会とは違います。異邦人である彼らがパウロの語った福音をそのまま受けとめることができて、そこに教会ができたということは驚くべき恵みですけれども、キリストへの信仰の内に深く根を張ったわけではありませんから揺れ動きやすいわけです。これはガラテヤの諸教会ばかりではなく、パウロの手がけた異邦人教会のすべてがそうであったのだと思います。教会の信仰を揺るがすのは周囲の環境や時代性もありますし、教会同士の関係や、また一つの教会の中で起こって来る人間関係であったりします。これは今日も全く同じだと思います。
この手紙から伺うことのできる教会の問題は、福音理解のズレと言ってよいものです。パウロは今日の箇所で「異なる福音」と言っていますが、その意図されていることは「誤った福音の受けとめ方」です。福音とは、イエス・キリストの上に顕わされた神の救いです。その救いについての捉え方が、本来のあり方とは違う仕方で伝えられるようになってしまった。なぜ、そういうことが起こったかと言えば、そういう異なる教えを持ち運んで来る教師たちがやってきたからでした。パウロはそれを「人間の問題」とします。
人間の問題、つまり、それは、福音を歪めて伝える教師たちの内に働く人間的な動機の問題であると同時に、それを受けとめる教会の人間的な弱さの問題です。今日の7節でパウロは「ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしている」と言っています。キリストの福音を覆そうという「ある人々」とは異なる宗教の人間ではありません。また、詳しくふれる機会があるかと思いますが、おそらくエルサレムからやって来たユダヤ人キリスト者たちです。そうした彼らを突き動かしているものは、おそらく本人はそうは思っていないのですが、人間的な動機であるということをパウロは見抜いています。例えば、10節によれば、「何とかして人の気に入ろうとして(わたしは)あくせくして」手紙を書いているのか、と言いますが、そういう自分本位な動機で福音を告げ知らせる働きをするような愚かさが、教会ではあっても人には働くのだ、ということです。
他方、惑わされてしまう教会にしても、そこには神からの福音を信じきることのできず、人間に目を奪われてしまう弱さがあるわけです。パウロはガラテヤ諸教会のそうした様子を知って「わたしはあきれ果てています」と、その軽薄な心変わりを責めています。異邦人教会ですから、神の言葉に支えられて長い歴史を辿って来たということではありませんから、これは無理もないことかも知れません。パウロはそんな風にキリストを伝えたのかも知れないけれども、実はそれは不正確なんだよ、とエルサレムから来た権威筋が言ったとしますと、その人の「権威」によって確信が揺らぎます。私たちの間でもそういうことはよくあるのだと思います。あの先生はこう言っているけれども、あちらの教会の先生は違うふうに言っている。あちらの教会は大きくて立派な教会だから、あちらの先生の言うことが本当ではないか、などと考えます。結局、それらは教会に集う私たちが何を見つめているのか、というところに問題があるわけです。救いを約束してくださったキリストが教会の中心になるのではなくして、人間の様々な思いがそれを覆ってしまうような弱さがどうしてもあります。そこでパウロはキリストに召された使徒として、教会がいつもその本源に立ち返るように、そして、キリストに対する揺らがない確信をもつことができるように、口角泡を飛ばして、私たちに語りかけます。
使徒パウロ
『コリント書』でもそうですが、パウロがこの手紙で一つ確保しようとしていることは、パウロ自身の立場です。「立場」という言葉自身が何か世俗的な立場を想い起こさせてしまいますが、教会のためにパウロが遣わされていることの意味です。パウロは自分が書き送った手紙の最初に、いつも「使徒パウロ」と署名をします。当時の手紙の書式に則ってのことですが、「使徒」とそこに肩書きを付けるのを忘れません。「使徒」とは、キリストから送られた遣い、ということです。その意味では、福音を宣べ伝える伝道者すべてが「使徒」と呼ばれる資格をもつことになりますが、特別な用い方ですと、イエスから直接召しを受けて、やがて復活の証言者とされた十二人を指します。ペンテコステ以降の、まだ出来たての教会では、これらの使徒たちに大きな権威がありました。そして、パウロは、その一人には含まれておりません。それどころか、パウロは当初、その使徒たちを熱心に迫害するファリサイ派の若きエリートでした。
そのパウロが回心してキリスト者になったのは、復活した主イエスがパウロに出会ってくださったからでした。ダマスコへ向かう途上で、主イエスはパウロを捉え、異邦人に福音を伝える使徒として直接召し出されました。パウロには、そうして主イエスから直接任命を受けた体験があって、キリストの使徒として働く使命が与えられていました。ですから、パウロが教会のために働く動機は、彼自身の人間的な思いではなく、むしろそれを捨てたところに与えられた、キリストによる召しにあります。
ところが教会では、そうしたことが必ずしも目に見えるわけではありませんから、人間的な判断が働き始めます。中には、パウロとは一体何者か、と、反感をもつ者も現れて来ます。ガラテヤの諸教会を始めとする異邦人教会では、まさにそのパウロの使徒性が疑われました。それが教会を動揺させた原因でした。パウロの使徒性についてはエルサレムの大使徒たちの承認も与えられます。しかし人の思いが支配する時に、目に見えない神の承認が見失われます。そこで、パウロはいつでもキリストに召された使徒として教会に語るという立場を手紙で明らかにします。そうしなければ、神からの福音が教会に届かないからです。
手紙の始まりである1節でパウロは次のように自己紹介をしています。
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ….
パウロは神がお立てになった伝道者・教師でした。人間の承認がなかったわけではありません。復活の主の栄光に照らされて視力を失ったパウロをキリストの教会に迎えたアナニヤという先輩の兄弟があり、パウロを異邦人に対する使徒として認めたペトロを始めとするエルサレム教会の指導者たちがありました。しかし、パウロの使徒職は神の任命によります。周りの人々はそれを事後的に認めたのに過ぎません。そして、パウロが使徒であることは、そこから語られる福音には神の承認が与えられていることを意味します。その福音こそが、異邦人の魂をキリストに結びつけ、教会をキリストの教会として立たせる基盤です。
福音は一つ
パウロが告げる福音は、この手紙全体を通して明らかにされますが、今日の箇所でも始めの挨拶文の中にそのエッセンスが織り込まれています。パウロを使徒に召したのは「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」です。天にいますわたしたちの真の父は、イエス・キリストを死者の中から復活させた力ある神です。「死者たち」とは、福音をまだ知らないでいた私たちのことです。キリストの復活は、その私たちに対する神の振る舞いです。神は私たちを復活させて、キリストの新しい命に生きる教会にしてくださいました。イエスの十字架については、4節にこうあります。
キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。
御子キリストは、罪ある私たちを救い出すために、十字架上の死に御自分をささげました。私たちのことを思う神の御心がそうして確かに果たされました。私たちがどうあったからではなくて、神がそのように定められたので、私たちは「この悪の世から救い出されました」。この「救い出す」という言葉は、聖書でよく用いられますけれども、「引っ張り出す」ということです。旧約聖書で、主なる神がモーセの働きを通じて、イスラエルの民をエジプトの強制労働から「引っ張り出された」ように、神はキリストの十字架による救いによって、「この悪の世」から私たちを「引き抜いた」のです。「この悪の世」とは、「今の悪い時代」と訳することもできます。教会はその時代から逃れることはできませんし、悪い世の中の真ん中に立ち続けます。それでも、キリストの十字架によって、教会は既に分けてとられて、神のものとされています。信じる者たちを救い出された神が共におられますから、この世にありながら、私たちはもう「死者たち」には属してはいません。これが福音です。福音とは神が私たちのためになさった救いの御業です。私たちが何をしたかではありません。例えば、このあと論じられるのは、正しい行いが人を救うのかどうか、ということです。義人と呼ばれるに相応しい者が救われるのだから、聖書の教えを厳格に守って、神の子と呼ばれるのに相応しい資格を得なければならないという信仰の理解が持ち上がります。それは、旧約的なユダヤ人の救いの理解だったのですが、パウロが激しい言葉で語る「たった一つの福音」には、そんな風に私たちがまずどうあるか、という条件は何も含まれません。神が私たちに何をしてくださったかです。私たちを救うという、神の御心がまずあって、それを心を同じくするキリストの十字架が実現して、それを完成する復活が天の父の力によって果たされた。そうして、私たちは罪を赦され、この世を死者たちの世界とする呪いから解放された。これが福音であって、そこに何かを混ぜ合わせて「異なる福音」を造り上げてはならない、とパウロは使徒の権威によって教会に語ります。その「一つの福音」は、パウロ自身の考えが変わって変えられてしまうことも許されませんし、天使でさえもそれを歪めるならば「呪われ」ます。
福音に堅く立つ
こうして福音に固く立つようにと呼びかけるパウロは一人ではありません。パウロと一緒に一つの福音を分かち合う「兄弟一同」がいて、同じ福音によって救われた兄弟姉妹の教会に呼びかけています。わたしたちの父であり神であるお方が、私たちの兄弟となられ主となられたイエス・キリストと共に、教会との交わりを保っていてくださいます。「恵みと平和が、あなたがたにあるように」とはパウロの手紙に記される決まり文句ですけれども、そこに福音の実りが丁度印鑑を押すように証しされています。福音によって救われた教会には、豊かな神との交わりが息づきます。神がくださる恵みと平和は、福音のうちに確かです。教会の信仰は揺らぐのですけれども、聖書から語られる福音が私たちを恵みと平和のもとへ還してくれます。
新しい年を迎えて、私たちは信仰の歩みをここから始めます。私たちの信仰は、不確かなものを信じる信仰ではありません。よく分からないのだけども信じている気持ちが私たちの平安なのでもありません。宗教改革者のカルヴァンは、『ガラテヤ書注解』のなかでこう言います。
パウロがつねに主張してやまないのは、福音というものを何かある未知のもの、自分の空想力で宙にぶらさがっているものででもあるかのようにとるべきではなくて、これに明確な定義をくだし、かれらが教えられかれらが抱いたものこそまさにキリストの真の福音であると確信していなければならない、ということである。人間の想像とか思案とかいうものほど信仰と無縁なものはない。
聖書が私たちの前に明らかにしている、イエス・キリストによる救いを私たちの確かな知識とすること、それが信仰だと言います。福音は、神が私たちを救ってくださった、と言っています。ですから、私たちの側で「いや、わからない」とは言ってはならないのです。神が私たちを救ってくださった。それがいつも私たちの出発点です。キリストを信じた者は、そこから新しい人生を始めました。だから、後ろを振り返られないで、神が導いてくださる先を目指して、キリストに示された神の御旨を喜んで生きて行きます。そういう一年を今年、共に過ごしたいと思います。罪ある人間の思いや姿に惑わされないで、確かな福音を信じて受けとめて、揺らがない教会の歩みを共につくって行きたいと願います。
わたしたちの神であり父である方に、世々限りなく栄光がありますように。アーメン。
祈り
わたしたちの父なる御神、私たちが福音から離れることなく、あなたと主イエスとの豊かな交わりの内に留まることができるよう、聖霊の導きをお与えください。この世の栄光に心引かれてしまうのではなく、あなたの御栄光を求めて十字架の旗印のもとに集うことができますように、教会として歩み始めた私たちをどうか御手の内にお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。