はじめに

先にパウロがコリント教会に書き送った手紙の『一』がありまして、これはおよそその一年後に書かれた続きです。初めの挨拶の言葉にもありますように、コリント教会はアカイア州の首都でして、その後、キリスト教会が周辺に広がって行く際の拠点となった重要な教会でした。この手紙が書かれた頃はまだコリントの周囲には教会らしい教会はなかったようで、教会につながりながらも分散して住む信徒たちが、ここでは「聖なる者たち」と呼ばれています。今日の私たちが言うところの、いわば、「他住会員」になるでしょうか。やがて、そうした地方に散らばる教会員たちが、自分たちの町で集会を始めて、キリストの教会を建て上げていきます。そういう意味でも、コリント教会は親教会になるわけですから、重要な教会でした。

そこへパウロが手紙を書き送ったのは、教会がしっかりとキリストに結びついて揺るがない信仰の一致を保つためでした。パウロの熱心な宣教と教育によって教会の基礎が据えられたとはいえ、まだ若い教会には様々な問題が持ち上がりました。コリントの町は大商業都市であって自由な経済競争をモットーとするような都会でしたから、教会の中にも競争意識が入り込んだりしやすかったのかも知れません。経済的に、あるいは知的に優位に立つ者が、より力の無い者を軽く扱ったりして、自己中心的な肉の思いが教会の一致を阻んでいました。パウロは「教会はキリストの体である」と言いまして、互いに争って分裂していては体は成り立たないと諭しながら、問題解決のための具体的な指針を手紙に書いて送りました。

この『第二の手紙』からはその後のコリント教会の様子が伺えます。幾らか内部の事情も落ち着いて、パウロの反対者たちも鳴りを潜めたようですけれども、また新たな敵対者たちが外から入り込んで来て交わりを混乱させたことも知らされます。パウロはキリストの権威を委ねられた使徒として信仰の道を説くのですが、そのパウロの権威を認めない者たちが現れました。そうした難しい問題に直面して、パウロは牧会者として言葉を尽くして手紙を書き続けます。この手紙は先のものよりも内容が錯綜していて、おそらく複数の手紙が最終的に一つにまとめられたものだろうと言われます。それだけに今日の私たちが読み解く難しさもあるのですが、使徒パウロが自分の人間性をむき出しにしながら教会の問題に体を張って行く姿から、私たちは多くのことを学ぶことが出来ます。

挨拶—神の教会へ

今日の箇所は、具体的な問題に入る前の前置きとして書かれた部分です。どの手紙にも記されている挨拶文に導かれて、パウロは神をほめたたえています。ここから私たちに知らされるのは、キリスト教会について見たり考えたりするときの、パウロの霊的な視点です。教会とは、信仰に基づいてこそ本来の姿が見える場所であるということです。この手紙でも明らかにされます通り、教会は罪から清められた聖人君子たちの集まりではなくて、未だに罪を犯しながら生きている人間たちの集会です。この世の汚れを逃れて、清らかな愛の満ちるオアシスを求めてここに来る人たちは、初めは居心地よい感じがしても、やがてその人間臭さに気づいてしまいます。尤も、キリスト教を幾多ある宗教の一つと看做している一般の人たちからすれば、キリスト教会とは初めから人間の集まりに過ぎないことでしょう。そこで説かれている教えも、信徒たちの実践も、すべては人間の営みに過ぎません。

それに対して、パウロがこの冒頭の挨拶文に書いていることは、教会に関わる一切のことが神の領域であるということを示しています。

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

パウロとは誰でしょうか。タルソス生まれのユダヤ人だと聖書には紹介されていますが、ここでは「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」人間だといいます。パウロが自分で勝手にそうした職業を選んだというのではなく、神がパウロをキリストの使徒に召しておられます。「兄弟テモテ」はパウロの弟ということではなく、同じ神に召されたものとして、キリストに結ばれているパウロの兄弟です。コリントの教会はどうでしょうか。それは「神の教会」と呼ばれます。コリントの教会は、それこそ端から見れば、人間関係がドロドロと渦巻く、この世の人の集まりになるかと思います。パウロはそうであることを十分身にしみて知っていながら、それを「神の教会」と呼びます。「聖なる者たち」もそうです。これはいわゆる聖職者たちを指している訳ではありません。英語にすれば「セインツ」ですけれども、パウロが指しているのは一般の教会員のことです。ひとり一人は案外、生半可な信仰の持ち主かも知れません。それでも、キリストに結ばれて教会員とされたひとり一人は皆、神がご自分のものとされたが故に「聖なる者たち」と呼ばれます。

1節はそのように手紙の送り手と宛先を表します。続く2節は挨拶の言葉です。日本の私たちであれば「拝啓」などと書いて、ご機嫌を伺う言葉が続くような部分です。ギリシャ・ローマの習慣であれば「幸運あれ」というような言葉が記されます。しかし、神の教会で交わされる挨拶では、神からの「恵みと平和」が送られます。「恵み」は幸運とは違います。それは、神がくださったものです。「平和」も「機嫌がいい」という類いの心の有り様とは違っています。それは「シャローム」という、旧約の時代から受け継いでいる挨拶の言葉で、神との間に打ち立てられた和解を指します。そして、この「恵み」も「平和」も、イエス・キリストの救いが実現したことと深い関わりがあります。天の父なる神は、御子キリストの十字架の死によって、罪の赦しを「恵み」として与えてくれます。この「恵み」は平和の根拠です。また、そのキリストの十字架による贖いを信じて罪を赦された者には、キリストにある復活の希望と永遠の命が「恵み」として与えられます。さらに、そうしてキリストを通して、神に立ち返った教会の信徒たちは、神の子として父の愛を受けながら、神を心から信じて、聖書を神の言葉として悟ることのできる、聖霊の恵みを受け取ります。こうして、パウロが送る挨拶の言葉は神が教会に送る祝福です。

パウロもテモテも、教会も教会員も、すべては神の御心によって、今ある場所に召されているということ。その場にあって人間であるがまま、神のものとされて恵みと平和に生かされているということ。神はキリストと共に生きておられて、この教会の交わりを通して世に働きかけておられるということ。これらのことが、パウロの見ている教会の姿であって、信仰の目で見た世の現実です。これを私たちは、この手紙を読む前提として差し出されている、と言ってよいと思います。こうした霊的な視点を、ヴァーチャルなものにしてはいけない。信仰の建前にしてはいけない。聖書を読む時も、これが人間パウロが書いた手紙であることには違いありません。けれども、神の御心によって、神のお働きの中で、パウロはこの手紙をしどろもどろになりながら話しています。そこで、神がパウロを通してコリント教会に何をしようとしているのかを読み解きながら、今日の私たちに対する神の御旨を聞き取ることが求められます。

私たちの教会の営みすべてが実にそのようです。教会の説教者は神の御心によってその職務に召されています。長老・執事という職務も教師と同じように神の御心がその者たちを召しておられるということが本質です。教会というところが一見おしゃべりのための集いに思われたとしても、そこは真の信仰に立つ限り、「神の教会」であって、そこに集う私たちは、神によって召し集められた、キリストの兄弟姉妹です。見た目には肉の人であっても、信仰に生かされている私たちは、父なる神と御子キリストから送られてくる聖霊の恵みによって、神との間に平和をいただいている「聖なる者たち」です。これを建前ではなく、真実なこととして受け止めることが、いつでも私たちの出発地点です。

これは私たちの自己主張ではないことが大切かと思います。ここにあるのは、私たちの観念の中に住む神ではなくて、生きておられる神のお働きです。罪ある人間の営みそのものの中に神の主権的なお働きを見いだすことです。勿論、人間の犯す罪を神の仕業とするのは誤りです。そうではなくて、罪を犯す人間でありながらも、真の悔い改めとキリストへの信仰に目覚めた、信徒と教会の営みには、聖霊を通して三位一体の神が共に働いておられる、ということをいつも忘れないでいることです。それを忘れてしまうところで肉の支配が始まります。コリント教会が陥った問題もその点ではないかと思います。地上を生きる限り、一人の信仰者も教会の交わりも、霊的に完成することはありません。ここで語っているパウロですら、完成されたキリスト者ではありません。霊と肉との戦いは誰しも終わりまで続きます。しかし、そこで、パウロがこの冒頭の挨拶の中で述べている通り、神中心の捉え方でこの世俗のただ中を生きる教会の営みを受け止めていくことが信仰の歩みです。

パウロがここに記しているのは、型にはまった挨拶文に過ぎません。どの手紙でも殆ど同じ言葉がついています。型通りの同じ言葉を繰り返しているのに過ぎません。ここにどれだけ感情がこもっているかなどと穿ってみても始まらない挨拶文です。しかし、だから口先だけにすぎない、建前になるのではなくて、こういう神がすべてを御支配なさっているという信仰の了解によって立つ、それが当たり前になっているところの教会へと私たちも進んで行きたいと願います。何でもかんでも霊的霊的・恵み恵みと言っていればいいということではありませんけれども、神が生きて働いておられるということが、私たちの思いのなかで、また判断の中で、いつでも思い返されるように、教会生活を形作りたいと思います。その時には、挨拶の中に確保されているキリストの「恵みと平和」が、「建前」ではなく、いっそう確かなものとして、私たちの内に感じ取られる筈です。

祈り

天の父なる御神、あなたが私たちの教会を建ててくださる恵みに感謝致します。私たちが教会に集うたびに、あなたのお働きを、この場で信じさせてください。私一人の思いにとらわれることなく、キリストにあって教会を一つに結んでおられるあなたの御心を思って、御名に相応しい教会の姿を表すことができますように。ここに集うひとり一人が、主の御業によって救われたことを確かに信じて、あなたからの恵みと平和をしっかりと受け止めることができますように。聖霊によって肉の思いに打ち勝たせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。