説教者牧野信成牧師

マタイによる福音書7章13~20節
(新約聖書 新共同訳 12頁)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。

ようこそ教会の礼拝にお越しくださいました。私たちは毎週日曜日にここに集って、こうして礼拝をささげます。これがキリスト教という宗教の信仰のかたちだと思ってくださってよろしいかと思います。礼拝では、聖書が読まれ、それが説教によって説き明かされて、信仰と生活に必要な神の知識が伝えられます。聖書の言葉は神の言葉であり、いのちのパンである、と私たちは信じています。そして祈りをささげます。祈りは神が私たちとコンタクトをもっておられる証拠です。魔法のランプではありませんから、何でもかなえられるわけではないですけれども、神はわたしたちの祈りを聞いて最善の道を備えてくださいます。この礼拝は、願う人すべてに開かれていますから、讃美歌を歌いたい、祈りをささげたい、聖書の言葉に耳を傾けたいと願うならば誰でもその席に着くことができます。神はいつでも「来なさい」とすべての人に呼びかけていますので、私たちはそのために春と秋にこうした特別な機会を設けて、地域の方々に呼びかけています。

今回のテーマは「キリスト教って何だろう」です。チラシには「カルト宗教の見分け方」とはっきり書きました。お察しの通り、安倍晋三元首相が暗殺されて以来、旧統一協会と政治家との癒着が連日マスコミをにぎわしています。統一教会の問題性についてはキリスト教会もずっと以前から警戒して、いくつも書物を著して来ました。もうだいぶ前にお亡くなりになりましたが、東京の荻窪栄光教会で牧師をしておられた森山諭先生は有名で、統一協会ばかりではなく、モルモン教やエホバの証人など、キリスト教会からは異端と見なされるグループの間違いを指摘する本をたくさん書いています。「異端」という言葉は、あまりに一方的な言い方ですので、キリスト教会でもあまり使われなくなっていますが、今名前が挙がったグループは確かにキリスト教系の「カルト」ですから、問題は現在でもそのまま残っています。信教の自由は日本でも憲法によって保障されているはずですから、たとえカルトであろうと信じるのは本人の自由です。その権利は守られなくてはなりません。しかし、カルトの問題は「反社会的」と言われるように、本人ばかりか家族や周囲のものまで巻き込んで破壊的な結果をもたらします。松本でサリン事件を引き起こしたオウム真理教もまたカルトでしたが、テロ組織であることが明らかになって10年で潰れました。ところが旧統一協会は教祖の文鮮明が死んでも妻や子どもたちが教団を引き継いで、名前を変えて今でも継続しています。教団は否定しますが、被害者も相変わらず出ていますし、安倍晋三元首相を殺害した犯人もまた教団の被害者でした。

「カルト」とは元々少数者を表します。ですから、極めて少数のコアなファンを持つ映画や音楽などが「カルト的な人気を」もつと言われたりします。こと宗教の場合、基本的には自由ですから、様々な教祖が現れては一部の人気を集めて新たな集団を作ったりもします。それ自体は合法ですが、「カルト宗教」が糾弾されるのは、それが次のような特徴をもって、本人の人格や家族関係、社会性を破壊するからです。アメリカで問題視されている統一教会(ムーニズム)の過激派は、まだ年端も行かない子どもたちに銃を用いた戦闘の仕方を訓練しているとネットフリックスのドキュメンタリー番組で告発されています。

新潟青陵大学の碓井真史教授は「破壊的カルト宗教の特徴」をネットのホームページで次のように紹介しています。

  • 信者にマインドコントロールを施して、思考や感情、行動を支配する。
  • 教団の信者以外の人間を敵視したり蔑視したりする。
  • 教祖または教団組織への絶対的な服従を求める。
  • 批判的な思考をしてはならないと教える。
  • 目的のための手段の正当化。違法なことであっても教祖のためなら構わないとする。
  • 従来の人間関係や人生の目標など、過去との断絶を求める。

まだありますが、すべてのカルト教団が同じようにこうした特徴のすべてを備えているわけではありませんが、こうした特徴はおおよそにして共通するものと考えられます。

旧統一協会の問題は、詐欺まがいの霊感商法や合同結婚式で有名ですが、私個人の経験では、大学に入学したての頃、同じ学科の学生に親しくなった女性がいました。キャンパスからの帰り道で、私は自分がキリスト者であってイエス・キリストを信じていると明かしました。なぜそういう話になったかは覚えていませんが。するとその女性は驚くべきことを言いました。私も実は信じているの。そして、イエス・キリストは再び生まれて今の時代に生きているの。私はその頃、まだ統一教会のことも原理研究会のことも聞いたことはありませんでしたので、何が起こっているのだろうと思って、彼女に誘われるがまま、東京のJR中野駅近くにある事務所に見学に行きました。そうしたらビデオを見るようにと勉強部屋につれていかれて統一協会の協議をレクチャーする「原理講論」ビデオを見せられました。黒板と教師だけが映る影像でしたけれども、内容は聖書に関する教えで、私が教会で教えられているものとは全く違う奇妙な教えでした。興味が沸いた訳ではありませんでしたが、彼女のことが心配でしたし、しばらく通うことにして全部で7・8回はビデオを観たと思います。すると、幹部らしき男性が宿泊を伴う勉強会に出ないかと誘って来ましたので、参加するつもりはないことを伝えて、それきりにしました。私は初めから自分がキリスト者であると話していましたので、その幹部の男性はいろいろ質問してきましたけれども、教会の大学生程度の知識でも聖書から十分答えることができたように思います。結局、その彼女は2年生になる前に大学から消えていなくなりました。アルバイトが忙しいとは聞いていました。

「旧統一協会」のかつての正式名称は「世界基督教統一神霊協会」でした。現在では名前を変えて「世界平和統一家庭連合」となって存続しています。創設者の文鮮明が死んで三番目の妻の韓鶴子(ハン・ハクチャ)が現在の総統です。統一協会もまた私たちと同じように「教会」を名乗ることがありますが、正しい名称はチャーチではなくてアソシエーションの「協会」です。昨年、佐久市民新聞さんに私どもの集会の紹介をしていただいたところ、その教会の表記が統一協会と同じ協会になってしまったので、それはまるで違うものだとお伝えしておきました。

旧統一協会の問題についてはキリスト教系の新聞でもこのところ改めて連載記事に取り上げられていて、そこには緊急事の連絡先も載っています。クリスチャン新聞に公告が出ているのは「異端・カルト110番」です。インターネットで探し出すこともできます。今でも救済の依頼が年間3000件あると言われますが、12日の朝日新聞ではそうした救済団体の一つである全国霊感商法対策弁護士連絡会が旧統一協会の解散を求める要望書を文科省・法務省に提出しました。それに対して旧統一協会側は改革に乗り出すと答えましたが、連絡会は実際のところ疑わしいと見ています。要望書が受け入れられれば、オウム真理教などと同じく宗教法人格が取り去られることになります。

これは旧統一協会のようなカルトの問題ばかりではなく、日本社会における宗教全般の信用に関わる問題、信教の自由が脅かされる状況になるのではないかと危惧しています。今回、私どもの集会への案内チラシを地域の皆さんのお宅にポスト投函しましたが、すぐに1件電話がありまして、「キリスト教会は解散した方が良い」と、滔々と説かれました。あからさまにキリスト教やイエス・キリストを中傷する意見は、かつて大阪にいました時に創価学会の方から聞かされたことがありますが、それに近い内容で、宗教が諸悪の根源と決めつけておられるところが大変残念でした。東北学院大学で教えておられた浅見定雄先生の本によりますと、統一協会の一つの特徴はその匿名性にある、とのことでしたので、尋ねても決して答えなかった電話の男性は、もしかすると旧統一協会のメンバーであったのかもしれません。

そこで思わされるのは、日本の社会の宗教に対する免疫のなさです。神道・仏教も立派な宗教ですけれども、その精神性なり文化なりを自覚的に練り上げて今日の日本社会が成り立っているようには思えないのが残念なところです。戦争が災いしたのかも知れませんが。キリスト教の影響は学校で教わりました通りキリシタンの時代にまで遡りますが、日本社会の様々な領域で、特に教育や医療や福祉などで影響を持ったのは戦後のことでしょう。私が子どもの頃は地域で教会に通っていると言いますと、「偉いわねえ」とほめられたりもしたのですが、オウム真理教の事件以来でしょうか、この頃はキリスト教もカルト宗教も一般の方には区別が難しくなっていて、先の電話の男性のように宗教は悪だ、などと物知り顔で話す人が出るほどです。今名前を挙げました浅見定雄先生による『統一協会=原理運動-その見極め方と対策』という1987年に出された本では、子どもを奪われた親たちや教会に対する勧めにこうあります。

多くの親は子供と宗教や精神的な問題について語り合ったりすることが少ない。あるいは日常子供から見て、親がそういう精神的なものを大切にしていると感じられない。まして日本人の大多数は、聖書やキリスト教にあまり縁がない。ところがわが子は、今そのことに夢中なのである。親はこの機会に、子供と一緒に、まじめにこれらの問題に付き合う経験をした方がよい(同書、38頁)。

40年近く前の本ですけれども、日本の社会は大きく変わって来たとはいえ、こうした日本の親子関係には変わりがないと思われます。

そこで、今日は本来のキリスト教はそうしたカルト的な新興宗教とは違うということを知っていただきたく思って、地域の皆さんに呼びかけました。先ほど「異端」とは最近は言わないと言いましたが、キリスト教の長い歴史をたどってみれば、それは何が正統であり何が異端であるかを連綿と議論を重ね区別してきたことがわかります。そこで、これを外したらキリスト教でなくなる、という中心的なポイントをまず紹介します。

  •  第一に、聖書で証しされている通りにイエス・キリストを神の子・救い主と信じることです。救いとは、十字架にかかって死んだイエス・キリストが、神に背いている私たちの罪を赦すために、神の子キリストが私たちに代わって罰を受けて下さったことです。それで、私たちは罪を赦されて、神に救っていただけます。統一協会では「原理講論」という教えの中で、イエス・キリストによる救いは失敗したとはっきり述べられます。キリスト教会ではイエス・キリストが神と信じるのが前提ですから、それを否定してしまえばキリスト教とは言えません。先ほども少し触れました通り、イエス・キリストは神ではなく歴史的人物として尊敬する、という自称キリスト者はたくさんいます。それは自由に尊敬していただいて結構なのですが、キリスト教では真面目にイエス・キリストを神としてあがめます。
  •  第二に、そのように私たちの救いについて書かれている聖書の言葉を、神の言葉として信じることです。おかしなことに、聖書は人間が造り出した書物だといって、聖書の言葉を信じないキリスト教も現代では多々あります。しかし、それは、聖書の信仰を曲げているのでして、聖書の言葉を信じないで救われる道はキリスト教にはありません。カルト的なキリスト教会がいかに間違っているかを知るには、聖書をどう読んでいるかを調べればわかります。
  • 第三に、本当のキリスト教会では、そうして神の言葉と受け止められた聖書が説教されて、イエス・キリストが定めた洗礼式と聖餐式が正しく行われます。現代人の好みに合わせてこうしたものを止めてしまった教会は、教会では「異端」と見なされます。

他にもキリスト教をキリスト教たらしめている要素は沢山ありますが、この点だけで調べてみても、教会をかなり振り分けることができると思います。

そして、キリスト教会には、仏教さんに様々な宗派があるように、教会にも様々な教派があります。例えば、今挙げました3つの点ではカトリック教会もプロテスタント教会も違いはありませんが、やはり別の教会であるのは、それぞれに聖書の理解の仕方が違うからです。つまり、正統なキリスト教会の中にも議論があるわけでして、それがキリスト教では認められています。聖書の教えについて種々の議論があって、様々な教派として広がっているのですが、今挙げたような中心的な信仰において、キリスト教は一致しています。そこから逸脱すれば、世界のキリスト教会から認めてはもらえなくなります。統一協会もエホバの証人もモルモン教も世界に広がる新興宗教で、自分たちはキリスト教会だと信じているようですが、カトリックにしろプロテスタントにしろ、歴史的な世界の正統教会はこれを認めてはいません。そのことは皆さんにも是非知っておいていただきたいと願っています。

そして今日は、イエス・キリストの言葉を新約聖書から紹介します。新約聖書の初めに置かれている、マタイによる福音書の一節です。

イエス・キリストは弟子たちを選んで天国に至る道について教えました。それは人生の方向を導く生き方で「門」がその入り口です。イエスはこう言われました。

「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」。(13節)

この世には多くの「門」があり、できるだけ多くの人がそこを通れるように広々とした通り道を備えた教えがある。それは宗教であったり思想であったり、時代の価値観に即したライフ・スタイルであったりします。けれども、主イエスが弟子たちにお命じになるのは、「狭い門から入りなさい」とのことです。大勢に流されてはいけない。周りの人たちがみんなそうするから大丈夫だという保証はない。神の真実へと導く命の道は一つであり、その入り口も一つしかない。人生楽して天国へいけるというような安易な道は、結局は神の救いを逃して滅びに至る他はない。未信者ならばともかく、弟子たちにもそう言われる必要があるということは、弟子たちがそうした安易な選択に流されてしまう危険があったからでしょう。

「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか」。(14節)

「狭い」「細い」という言葉は、例えに合わせて見かけのこととして訳されますが、それらの言葉は本来「辛い」「厳しい」という信仰の故の困難を予想させる言葉です。そうしますと、どこか遠くの岩山に敷かれた険しい山道でしょうか。そこに小さな山門が建っている。人通りの少ない山道では岩陰から獣が襲ってくるかもしれない。イエスが辿って行かれた道はまさにそのような険しい道でしたが、それは神が備えた信仰の道でした。

旧約聖書の詩編では、時々「広い道」を肯定的に述べている箇所があります。例えば、詩編84編6節です。

いかにさいわいなことでしょう

あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。

また、神の言葉に従う道を説く詩編119編45節では、

広々としたところを行き来させてください。あなたの命令を尋ね求めています。

と、心が神の内に解き放たれて、自由に広い場所を歩き廻る信仰者の姿が描かれます。神の言葉が与えられて罪から解放された人の心のあり様や信仰ゆえの自由な生活様式を考えれば、キリスト者には広い道が示されているといえます。イエス・キリストは、ここまで山の上で弟子たちを教えた「山上の説教」によって「幸いな道」について説き明かされました。それは聖書に示された天の神の御旨を全うする信仰者の生き方です。この世の貧しい者たちや虐げられた者たちが、神の国の祝福に相応しいと宣言されて、敵をも愛する神の愛に生かされる、主イエスの弟子として生きる道がそこにあります。「狭き門より入れ」と主は私たちを信仰の細い道へ招いておられます。それは、危険に晒されながらも守られる、力が及ばないけれども助けられて、確かに目標へと向かう、信仰者の辿ってゆく道程です。

問題は、この世の「広い道」へと誘う、誤った教えが弟子たちを惑わす危険があることです。「偽預言者に注意せよ」と、イエスは言われます。これは、マタイ福音書では世の終わりのしるしの内に数えられています。24章3節以下にはイエスによる終末の教えがあって、今朝の箇所とも深い関連があります。主イエスは、世の終わりを心配する弟子たちに対して、次のように言われました。

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(4~13節)

こうした世界の終わりに関する教えは、主イエスが天に昇られた後、教会のすべてに相当するので、一つの時代を特定することは出来ませんけれども、逆に私たちの時代もまさにここに表された終末に相当します。ここに描かれたような世の終わりの緊迫感からしますと、キリストへの信仰とはまさに「狭き門」を通るというのに相応しいと思われます。そこで、今お読みしましたところに「偽預言者」に対する警告が含まれているわけです。

「預言者」という賜物もしくは職務が、神の言葉を霊において受け取って人々にそれを正しく伝える為に、神が召された僕だとしますと、「偽預言者」とは神の言葉を偽って、人間の願望を満たすために、神に召されていないのに勝手に語る者となるでしょう。これは旧約聖書の時代からすでに始まっていて、預言の真偽を巡って問題とされました。国家が国際関係において危機的な状況にあった時、一部の預言者たちは王や民衆に阿って国家の安泰を説き、戦争での勝利を預言しました。しかし、エレミヤのような神が遣わした本当の預言者たちは、神の裁きを曲げずに告げて、民衆から孤立しながらも神の言葉に命をささげました。事の真偽は、当面あきらかにはなりません。誰が本物で誰が偽の預言者か、などという区別は民衆にはできませんでした。その判別の原則としては、後になって見れば分かる、という歴史の判定を待つという方法がとられました。

マタイが記すところの主イエスによる判別法は、そうした預言者の教えを踏まえてのことでしょうが、それを一歩進めた倫理的な判別法となっています。あなたがたのところに、狼が羊を装ってやってくる、それが偽預言者だとのことですが、それを見抜く手立ては、「その実で彼らを見分ける」ということ。つまり、良い木が良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶとの原則に立って、その実を見分ける。「実」とは何かと言えば、今日の続きにある21位節以下の主題と結びついていて、端的に言えば「ふるまい」のことです。

主イエスは、旧約の律法に啓示された神の御旨を説き明かして、御自身の掟をこの山上の説教で弟子たちにお示しになりました。それは具体的な諸項目に及んでいましたけれども、その全体を集約するものが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という黄金律でした(12節)。それは、言い換えますと、神が私たちを愛したように、私たちも人を愛する、という隣人愛になります。実による判別とは、ですから、愛による判別になります。そして、愛とは「気持ち」ではなくて行為です。

今日における「偽預言者」の問題とは、今朝の御言葉に即して言うならば、信仰に基づく判断基準の問題です。人は宗教的の装いに大変弱いということがある。そのことが21節以下の最後の段落で取り上げられています。世の中では「主よ、主よ」と神に向かえって祈る聖書の祈り方です。今日のキリスト教に即していえば「イエスさま、イエスさま」となるでしょうが、そういつも言っていれば信仰深いということにはなりません。祈りに代表される信仰的な行為の偽善という問題も「マタイによる福音書」では指摘されています。 また、22節では「預言」「悪霊の追い出し」「奇跡」という、特別な霊の賜物による行為が列挙されています。これは、使徒の時代には実際に行われていたことで、それ自体がここで否定されてはいません。けれども、それらは良い木から生じた良い実の内には入らない。命に至る道にはそうしたものは必ずしも要請されない。そうではなくて、良い「実」とは、主イエスが御言葉において示された「天の父の御心に基づく行い」であって、その良い実によって真の預言者が判別され、真の信仰が見分けられ、命に至る「狭き門」が見出される。信仰生活の実際では、兄弟姉妹の目の中にある塵を気にする前に自分の目の中にある丸太を取り除けと言われますから、互いに裁き合わないように、木の実を見分けるんだとやっきにならなくても良いのですけれども、私たち自身が耳を傾ける言葉について、それによって私たちの内に実る実りについて、真剣に吟味するときに基準となるのは、それが天の国に入るのに相応しい、天の神の御心なのかどうか、ということです。そして、それが、行いとして、生活として、実っているかどうか、ということを主は問うておられます。

命に至る道は、言葉と行いが一つになって神の愛を生きることだ、とイエスは弟子たちに教えました。今朝の箇所が続く終わりの部分からしますと、たとえキリスト者でなくとも、その愛の実践に生きる者は、信じていると告白していても実践を欠いた者よりも、天国に近いということではないでしょうか。神が私たちのために用意された救いは、私たちがキリストの道をひたむきに生きるところに実ります。うわべに惑わされず、心と言葉と行いにおいて、神との関係を深めつつキリストに従ってゆく事が、終末に向かうキリスト教会の実質となります。狭き門、キリストへの信仰は、私たちすべてが招かれている困難な道程です。しかし、その困難を覚えてこそ、信仰の真実が自分にも周囲にも証されます。愛の無いところに愛を生み出す努力がなくては、私たちの信仰はいつも不確かですし、周囲の人々もイエス・キリストの真実を見分けることができなくなります。人を騙して自分だけの満足を勝ち取ろうなどという偽りの宗教が次から次へと生まれて来る終末の時代に私たちは生かされています。神の名を語りながら、「今だけ金だけ自分だけ」を教義とするカルトに惑わされないように注意して、聖書から本当の救いについて学んでいただければ幸いです。

祈り

イエス・キリストを私たちにくださるほどに私たちを尊んでくださる天の御神、信仰の険しい道のりに臆する以前に気がつかないことさえある私たちですけれども、主イエスは私たちに先だって信仰の険しい道を辿られ、私たちが経験する悩み苦しみの中にこそ本当に信仰が問われ、確かにされることを、あなたはお示しになりました。あなたの御旨に適った思いと言葉と行いを私たちの生活の内に実らせてください。それに気づかせてくださって、より一層あなたへの愛を確かにして、天の国に至る道をここに集う皆さんと共にたどらせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。