同性愛:聖書をどう読むか 2025年度開講講演
同性愛:聖書をどう読むか 講師:井上有子
/2024年9月9日(月) 19時〜21時 2025年度開講講演 講師:牧野有子
PowerPoint Slide 1
みなさま、こんばんは。牧野有子と申します。講演の機会を賜り心より感謝申し上げます。
2
ある問いかけをもって講演を始めます。N.T. ライトがこのように問いかけています。
「聖書は真実である」となんとしてでも証明するために、聖書に記される全ての歴史的真実性を証明したい人々と、「聖書の権威」に忠実に生きたいと願うが故に、聖書が実際に教え、強調していることに胸襟を開き続ける人々の間には確固たる隔たりがある。どちらのほうが本当のところ「聖書は真実である」と証明しているのか。「聖書は真実である」と言って考えを改めないことに安堵する人々か。それとも聖書と真剣に向き合っているが故に、聞いたことがないこと、また殊更聞きたくないと思っていたことについて聖書の教えに耳を傾ける人々か[1]。
「聖書の権威」という言葉が出てきました。ライトは「聖書の権威」を「聖書を通して示された真実なる神の権威」と定義しています[2]。本講演は同性愛を巡りこの問いかけと向き合う場となります。
3
聖書は同性愛を禁じていない。私はそう考えております。ギリシャ語とラテン語を融合させた造語「同性愛」が史上初めて登場するのは19世紀後半です。聖書が成立した時代、同性愛、異性愛、トランスジェンダー、ノンバイナリーといった、現代社会が認識する性的指向・性自認に連なる概念は存在しませんでした。ですから聖書を同性愛という性的指向の是非判断基準にはできません。にも拘らず教会は「聖書は同性愛を禁じている」と主張して同性愛者を断罪してきました。今日の講演はその主張への反論です。私は同性愛当事者ではございません。けれどもフェミニストのクリスチャンとして聖書を学び、同性愛について学んだことを皆さんと分かち合いたいと願っております。
4
講演の流れはレジメでご確認ください。
5
ではまずセクシュアリティ研究における基本的用語をおさえましょう。
まず性的指向を取り上げます。アメリカ心理学会と日本法務省がそれぞれ発表している定義を採用します。アメリカ心理学会は性的指向を「性的魅力を感じることや、関連する行動、および同じ性的指向を共有するコミュニティの成員であるという意識などに基づいた個人のアイデンティティに対する感覚」と定義しています。法務省は「人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうかを示す概念」だと定義しています[3]。
性的指向は非常に新しい概念です。概念が整理される契機となったのが90年5月17日です。この日WHOが同性愛を「国際疾病分類」から削除しました。削除に伴い性的指向に対する社会的認知が高まります。大手新聞社に勤める友人に性的指向という言葉がいつ頃から紙面に登場するのかデーターベースで調べてもらいました。93年でした。ちなみに今日は取り上げませんが性自認という言葉は96年に初めて登場します。
6
次に同性愛を取り上げましょう。こちらはアメリカ心理学会およびアメリカ精神医学会が定める同性愛の定義を採用します。両学会は同性愛を「先天的に同性間で起こる性的・愛情的・ロマンチックな魅力の経験の持続的パターン」だと定義しています。更に同性愛は「性的行動だけでなく、パートナー共有の目標と価値、相互支援、持続的な努力、非セクシャルで物理的な愛情を含む。そして同性愛者らが共有するコミュニティメンバーシップと同性愛を表現する行動と魅力を根幹とする社会的アイデンティティ」だとも定義しています。
7
最後にホモフォビアを取り上げましょう。こちらは国連の定義を用います。国連はホモフォビアを「文化的に生み出される同性愛者に対する恐れと偏見」だと定義しています[4]。ホモフォビア・トランスフォビアが「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーに向けられる理性に反した恐怖・憎悪・偏見」を生み「性的指向または性自認に基づいて人々を無視し、傷つける差別的態度、行動、信念・信仰」が生じると説明しています。
8
基本的用語を押さえました。では次に日本人口に占める性的マイノリティの割合を学びましょう。電通グループは2012年から三年に一度、インターネットにおいて大規模なアンケートを実施し、詳細な結果を発表しています。2023年、全国の20歳~59歳、約6200人に対して行ったアンケートによれば調査対象における性的マイノリティの割合は9.7%でした。約10%です。ですから日本には1200万人の性的マイノリティがいるという計算になります。改革派信徒数は現在子どもを含め約一万人です。ですから改革派には千人の性的マイノリティが在籍していることとなります。平均礼拝出席者数は子どもを含め約3600人です。ですから360人の性的マイノリティが自身にとって安全な場所とは言えない教会でその存在を多くの場合「黙殺」されつつ礼拝に出席していると推測できます。
9
性的マイノリティの人口比率を押さえました。では次に同性愛反対派・肯定派の基本的主張をある新聞記事を通して学びましょう。2021年6月20日、クリスチャン新聞に掲載された記事の要約です。日本福音主義神学会が開催した講演を紹介する記事です。講師はインマヌエル高津キリスト教会牧師の藤本満先生です。
まず反対派の主張を見てましょう。
10
1.教会はLGBTを「人」として認め、人間としての優劣、正常・異常の対象としない。差別的な扱いはしない。受け入れるべきである。
2.しかし、聖書は同性による性行為を禁じている。LGBTによる性行為は罪だから、カウンセリング、矯正プログラム、祈りを通して異性愛者へと導く。
次に肯定派の主張を見てみましょう。
11
- 聖書にLGBTそのものを論じている箇所があるのか。神は男と女に人を想像された、が基本で、聖書は現代的性の理解を教えていない。
- 聖書が禁じる同性同士の性行為とは、性的欲望の奔放さが同性にも及んでいる状況ではないか。禁じられているのは男が男を愛して性的行為に及ぶことではない。男が性欲をひとりの女性に向けるだけでは満足できず、複数の女性へ、さらに男性へと向ける事態を、聖書は想定しているのではないか。
- だとしたら聖書がLGBTの性愛を禁じているとは断言できない[5]。
12
同じ聖書を扱っているのにどうして反対派・肯定派の見解はこうも異なるのでしょう。この相違こそが「聖書をどう読むか」という命題に対するプロテスタント主義の違いを浮彫にします。まずリベラリズムを取り上げましょう。
3.リベラリズム・ファンダメンタリズム・カルヴィニズム
■リベラリズム
本講演の主眼はリベラリズムにはありません。ですから極めて簡潔にご紹介するにとどめます。リベラリズムはキリスト教の教えに現代知識、科学、倫理を積極的に取り入れる運動を指します。その神学は伝統的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的批判に従って聖書を再解釈します。リベラリズムは教会ではなく主にアカデミアを土壌として発展していると言えるでしょう。
リベラリズムにはキリスト教なしでキリスト教的価値を維持しているという批判が向けられます。急進派にはキリストの処女降誕や復活を認めず、神の存在を否定する人たちもいます。こうなると伝統的キリスト教信仰からは完全に逸脱し、その宗教性が根本から問われることとなります。改革派の信仰理解とは大分異なっていることがお分かりいただけるでしょう。
13
- E.ラッドはリベラルな聖書批評学は「歴史的状況において神の言葉である聖書をよりよく理解することに関心をもつ信仰的な学問の所産」ではなく聖書は「超自然的に霊感された神の言葉である」というファンメンタリズムの主張を拒絶した「学問の所産」だと指摘しています。そしてそのような姿勢の問題点を以下のようにまとめました。
・・・批評的な諸問題に対する答えを探求し発見することと、永遠の命を信じて発見することとは、同じではありません。不幸にして批評学的学問は、普通この種の問題の解決を求めることに満足してしまい、神の言葉が証言している実在の中に入る一歩手前で足を止めてきました。こうした場合、神の言葉は確かに人間の言葉にすぎなくなってしまっています[6]。
この指摘は「私は聖書の教えに影響を受けたクリスチャンです」という告白に「私は漱石の『こころ』太宰の『人間失格』に影響を受けた人間です」という発言と同等の価値しか与えない姿勢だと言い換えられるかもしれません。
14
けれどもリベラリズムは多くの性的マイノリティを惹きつけています。改革派を含む主流派にはこの方たちに寄り添った言説が浸透していないのですから当然の現象だと言えるでしょう。そこで今日はリベラリズムに属するクィア神学をご紹介します。クィア(queer)は「風変りな」「奇妙な」という意味です。本来は性的マイノリティを指して「変態」と言い換えられるような侮蔑語でした。しかし80年代から性的マイノリティが自らを指す言葉として肯定的に用いるようになります。
クィア神学はクィア理論に影響を受けています。人間の性差にかかわる社会制度や思想の構造・起源を考察するのが「ジェンダー研究」です。その中でも特に「規範的」もしくは「標準」とされる異性愛以外のあらゆるセクシュアリティを研究対象とするのが「クィア研究」です。この分野で構想・整理された思考的枠組み全体を総称して「クィア理論」と呼びます。性的マイノリティの性的指向・性自認の文化的起源と展開、差別の歴史・基盤などが主な研究対象とされています。このような研究を教会という文脈で展開するのがクィア神学です。
15
クィア神学は教会の権力構造を明らかにし、解体することを目標の一つに掲げています。この場合「クィア」という言葉には「混乱させる(disturb)」「攪乱させる(disrupt)」という含みが込められます。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーが78年に出版した『性の歴史』はクィア神学にも大きな影響を与えました。本書でフーコーは「異性愛が正常であるとされ、支配的であるためには、異性愛が存在できる『他者』を必要とし、その『他者』に依存することで異性愛は正常であるという地位を獲得できる[7]」と指摘しています。
この『他者』に相当するのが同性愛を含む非異性愛セクシュアリティです。このような考え方のもと異性愛が「自然」であり、非異性愛のセクシュアリティは「自然の理に反する」と考えられてきました[8]。
クィア神学はこの考えを支える「異性愛規範」「強制的異性愛」を批判します。「異性愛規範」は「誰もが異性愛者であるという前提」を指します。「強制的異性愛」とは「異性愛規範を促進し、維持するために絶え間ないメッセージを通して、その過程と強制を表」します。教会は集う人をみな当然のごとく異性愛者と見なし、性的マイノリティの葛藤・苦闘を矮小化してきました。「異性愛規範」の根拠として頻用されてきた創世記の創造物語についての解説はレジメの付録2に記しましたのでそちらをご覧ください。
以上、非常に簡潔にではありますがリベラリズムとその流れにあるクィア神学をご紹介しました。
■ファンダメンタリズム
16
次にファンダメンタリズムを取り上げましょう。ファンダメンタリズムは福音主義(エヴァンジェリカズム)の流れに属しています。ですからファンダメンタリズムを理解するにはまず福音主義を理解する必要があります。けれども先に紹介した藤本満先生は著書『聖書信仰』の中で以下の二つの理由から福音主義を定義するのは難しいと仰っています。
- 福音主義には共通の信仰信条があるわけではない。それは常に運動体としての教派を超えた幅と流動性を持ってきた。
- 福音主義は歴史的に、建物で言うなら複数階の構造を持っている。しかもそれぞれの階はその時代の強調とともに、新しい広がりを形成して新しい伝統を作り上げた。
この二点を踏まえ、藤本先生は福音主義の構造をまとめています。
| 福音主義(エヴァンジェリカズム) | ||
| 第一階層 | 宗教改革 | ルター、カルヴァンを中心とする16世紀の宗教改革 |
| 第二階層 | 敬虔主義・ リバイバリズム | 18世紀の敬虔主義とリバイバリズム(モラビア派などのドイツ敬虔主義、英国のジョン・ウェスレーやアメリカのジョナサン・エドワーズによる信仰復興運動など) |
| 第三階層 | ファンダメンタリズム | 19世紀後半に始まる高等批評や進化論に対抗して生まれるファンダメンタリズム(根本主義) |
| 第四階層 | 新福音主義 | 1940年代に新たな展開を見る新福音主義(ネオ・エバンジェリカリズム) |
17
福音主義の原点は宗教改革にありますから改革派にも大きな影響を与えています。福音主義の特色は回心・新生主義、行動主義(伝道と慈善)、聖書信仰、十字架への信仰の四点にまとめられると藤本先生は仰います。この特色に意義を唱える改革派信徒はいないでしょう。聖書信仰は「教派や団体の違いを超えて生じる福音主義の中心軸としての役割を果たして[9]」きました。福音主義は実に豊かな霊性と多様性をたたえています。本講演はこの福音主義全体を批判するのではないということをご理解いただきたいと願います。
同性愛という性的指向を考える上で、私が非常に厳しい視線を向けているのはファンダメンタリズムです。ファンダメンタリズムの特徴として「無誤論」そして「逐語霊感説」を挙げられます。「無誤論」を端的に表すと「聖書の教えは不変であり、歴史学・考古学・科学などの諸分野で得られる批評とは無縁である。聖書に誤りはない」という主張になります。
18
その主張を「逐語霊感説」が支えます。「逐語霊感説」は「聖書の一字一句はすべて神の霊感によってなった」と主張する説です。逐語霊感説は聖霊の働きを原典にだけ集中させます。筆記に先立つ下書き・編集・口伝伝承の解釈・その後のテキストの変化・異本写本の相違・テキストの保全・教会による聖典化・翻訳にまつわる問題という複雑な過程には注意を払いません[10]。この信仰姿勢は私たちの教会憲法「ウェストミンスター信仰基準」のアプローチとは異なります。後述いたします。
19
ジェームス・バーは77年に『ファンダメンタリズム』を発表しました。発刊から半世紀近く経ちますが、いまなおファンダメンタリズム理解に欠かせない本と言えますので、ファンダメンタリズムの定義は本書に拠ることとします。
ファンダメンタリズムの核心は「反啓蒙主義・懐古主義・極論」にあるとしてバーはその特徴を以下の三点にまとめています。
- 聖書の無謬性(無誤性)、すなわち、聖書にはいかなる誤りもないということを熱心に主張する。
- 近代神学ならびに近代聖書批評学の方法・成果・意義に対して強烈な反感を持っている。
- 自分たちの宗教的見解に同調しない人は真のキリスト者ではないという確信を持っている[11]。
20
バーの定義にはファンダメンタルな価値観・信仰生活・教会観は含まれていません。バーが批判の矛先を向けるのは「聖書は神学的誤りのみならず、歴史的、地理的、科学的誤りからも完全にまぬかれている[12]」と神学的に明確な立場をとり、批評学的成果をことごとく自由主義の産物と弾劾する教理構造です[13]。この三つのまとめから無誤性が自由主義において発展した批評学への反発としてあることが分かるでしょう。自由主義についてはレジメをご覧ください。
21
クリストファー・ヒッチェンズは「善人に悪意を教えたいなら宗教が必要だ」と言いました。バーが厳しく批判するのは、純朴で、家族や友人を心から愛し、熱心に聖書を学ぶ人を、ファンダメンタリズムの聖書解釈だけが正統であるという言説に閉じ込める偏狭な知的枠組みです。このような「境界線」を設けることによって「境界線」の内側にある人々の連帯意識は強められるが「境界線」の外側にある人々は排除され差別されると絹川久子先生は指摘なさいます[14]。絹川先生は日本のフェミニスト神学を牽引なさってこられた第一人者です。
知的枠組みにいわば「閉じ込められた」人々が図らずも育んでしまう信仰姿勢を先に紹介したラッドがまとめています。
聖書研究に対する適切な「批評的」アプローチの逆は、考えることなく疑問一つ抱かずに伝統を受容することです。無批判的であることは、聖書の歴史的次元を全く無視し、(聖書)を魔術的な本として見るということを意味します[15]。
23
アメリカを例に取り更にファンダメンタリズムを考察しましょう。というのも、70年代に一気に保守化したファンダメンタリズムは今なおアメリカ南部のいわゆる「バイブル・ベルト」を中心に大きなうねりとしてあり、同性愛者のみならず全ての性的マイノリティ、そして女性を苦しめているからです。これはアメリカがもたらした神学に強い影響を受けてきた改革派が看過できない点だと私は考えています。先に紹介した藤本先生の著作から学びましょう。
保守化したファンダメンタリズムの背景を考える上で藤本先生は78年に無誤論に関する国際会議(International Conference for Biblical Inerrancy)で採択された「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」を紹介し、その骨子を以下のようにまとめておられます。
- 書かれた御言葉は神によって与えられた啓示である。
- 人間の言語は啓示に十分な伝達力を持っている。
- 記者の人間性という限界によって誤った記述が生まれる可能性はない。
- 聖書の全記述は無誤である[16]。
この宣言を踏襲するような「ナッシュビル宣言」を2017年アメリカの福音派有志が発表しています。取り上げませんが、N. T. ライトが言う「考えを改めないことに安堵する」もしくは「安堵したい」人々が作った宣言だと言っていいでしょう。
24
ファンダメンタリズムがここまで無誤性にこだわるのは何故なのでしょう。バーによればファンダメンタリズムの関心は「聖書になんと書いてあるか」という問いには向けられていません。その関心は専ら「福音派の宗教的伝統とその生活様式の優越性を保持すること」にあるとバーは指摘します。この「優越性」について考えてみましょう。この「優越性」が女性蔑視、ホモフォビアに関係しています。この「優越性」は家父長制を抜きにして捉えることができません。そこでまず家父長制について考えてみましょう。
25
シェリル・アンダーソンは著書『古代法と現代論争(Ancient Laws & Contemporary Controversies)』の中でアラン・ジョンソンの家父長制の定義を紹介しています。
家父長制は男性・女性どちらもが属する定着した社会システムである。男性優位、男性中心であり、男性の視点によって社会が構築されるがゆえに男性の特権が促進される社会である[17]。
もう一つ定義をご紹介しましょう。フィオレンツァの定義です。フィオレンツァは94年に『彼女を記念して』という大著を著します。このタイトルはマルコ14:9でイエスに油を注ぐ無名の女性を讃えるイエスの発言から取られています。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」しかしこの女性の預言者的象徴行為は福音書知識の一部にはならなかったとフィオレンツァは指摘します。「福音が宣べ伝えられ、聖餐式が執行される所ではどこででも、別の物語が語られている。イエスを裏切った使徒の物語が。裏切り者の名は覚えられているが、信仰深い弟子の名は忘れ去られている。彼女が女性であったゆえに」とフィオレンツァは述べています[18]。
本書なくして現代のフェミニスト神学は語れないと言われるほどの影響を与えたフィオレンツァは家父長制を以下のように定義しています。
27
「(私は家父長制を)『全男性が全女性を等しく支配している』というようなルーズな意味では用いない。(家父長制)とは、従属と搾取の等級付け(という特権)を持つ男中心のピラミッドで、これは女性が『所属する』男性の階級、人種、出身国、宗教といった観点によって、女性への抑圧を細分化するものである。[19]」
ご注目頂きたいのは家父長制が内包する支配的側面です。家父長制は女性を従属させることで男性の優位を保持しようとします。ですから家父長制は支配に拘泥します。というのも「女性と、家父長制を脅かすいかなる人をも支配することで、男性は男性としての特権を保持するから」です。
28
女性を「二級市民」と見なし、まっとうな人間存在として評価しないのが家父長制の特徴です。ですからフェミニズムは「女性だって人間です」と至極当然のことをスローガンとして掲げなくてはいけません。フェミニスト神学者は聖書解釈・教会生活における女性の不可視化に抗い、神との出会いを物語る女性の経験・解釈を反映する聖書伝統を取り戻そうと模索します。クィア神学は「異性愛規範」に則るキリスト教伝統がいかに性的マイノリティを差別してきたかを明らかにし、新しい視点を提示しようと模索します。
29
男性支配に重点が置かれる時、二つの問題が起きるとアンダーソンは指摘します。一つ目です。男性は支配者として「未来を目指し、決定するのは自分たちであって、男性以外は自分たちの決定に従う存在として見るようになる。その結果、従属者は単純化され、その人を人間存在として形成する個性、社会背景、歩んできた人生、感情などに注意は払われ」ない。この姿勢が、教派を問わず、「考えることなく疑問一つ抱かずに伝統を受容する」信徒の姿勢とどう関連しているのか検証が必要だと思います。
二つ目です。男性の「優越性」を脅かす女性は「男勝り」「生意気」「こざかしい」とレッテルを貼られます。またたくましさ、力強さ、成功欲求、大胆さといった「理想の男性像」としての条件を満たさない男性は「女々しい」「男の風上にも置けない」「女の腐ったような男」と軽視され、男性として見なされません。
家父長制に苦しんでいるのは女性・性的マイノリティだけではありません。「理想の男性像」に満たないと見なされる男性異性愛者もまた被害を受けていると男性学は指摘します。レジメに簡潔に記しましたのでご覧ください。
30
アンダーソンはホモフォビアについて以下のように指摘しています。
男性が肉体的に無防備でひょっとすると強姦の対象になるかもしれないと思って男性間性行為を想像できない。女性が力強くてひょっとすると男性支配下にはないと思って女性間性行為を想像できない。だからこそ同性愛者・異性愛者のいかんにかかわらず、人はホモフォビアにとらわれるのかもしれない。男性の弱さ、女性の強さは私たちが当たり前だと思っている「異性愛規範」的通念を揺るがすのだ[20]。
家父長制はジェンダーにのみ影響を与えるのではありません。アメリカのファンダメンタリズムを考える上で「標準」とされる男性を「人種・宗教・セクシュアリティ・植民地支配」に鑑みて整理すると「白人・クリスチャン・異性愛者・西欧人」だとアンダーソンは指摘します[21]。 異性愛者の男性が「標準」として定められています。ここに同性愛者のみならず全ての性的マイノリティが抑圧される構造の根本があります。この「標準」という基準こそがファンダメンタリズムが拘泥する「優越性」の一要素だと私は考えています。「聖書の権威」と言いつつ、結局のところファンダメンタリズムが行っているのは「虎の威を借る狐」とも呼べる行為です。「聖書の権威」をたてに自分たちの価値観・イデオロギーをごり押ししています。ファンダメンタリズムが「宗教的伝統とその生活様式の優越性を保持すること」に固執する姿勢は権力をもつ男性異性愛者の「価値観・イデオロギーのごり押し」だと指摘せねばならないでしょう。
31
このような信仰的「ごり押し」が遂行されるとき必ず聖書信仰との矛盾が起こり抑圧と暴力が生まれます。ナチズムが反ユダヤ主義の根拠として聖書、特にマルコ福音書、そしてユダヤ教への批判を強めた晩年のルターの著作をプロパガンダとして利用したことが歴史的事実として知られています。アメリカのファンダメンタリズムは無誤論と逐語霊感説に依拠する信仰を「バイブル・ベルト」で育む一方、奴隷制を維持し、アフリカ系アメリカ人への人種差別を肯定したと藤本先生は指摘しています。60年代の公民権運動の高まりの後、南米・アジア諸国において解放の神学が台頭します。教会は植民地主義を依然として引きずり、弱者の側ではなく強者の側に立ってきたのではないかとの現代神学の訴え[22]の前にファンダメンタリズムも舵を切ることを迫られました。聖書を根拠にあからさまな人種差別ができないと悟ったファンダメンタリズムが次の標的として選んだのが中絶・フェミニズム・同性愛だったと私は考えています。
32
しかし女性・性的マイノリティの視点を軽視し、置き去りにしてきたという批判はファンダメンタリズムにのみ向けられるのではありません。残念ながら改革派もその非を免れないと言わざるを得ないでしょう。ファンダメンタリズムに属する神学のみならず全ての伝統神学は異性愛者のエリート白人男性によって構築されてきました。宗教改革者を含む白人男性に「家父長制を見直そう」という視点は一切ありません。宗教改革者たちは教会における家父長制・男性中心主義をカトリックからそのまま引継ぎなんの疑問も感じませんでした。解放の神学・フェミニスト神学が登場するまでカルヴァンの宗教改革から約430年、クィア神学が登場するまで約460年待たなくてはいけませんでした。
市川康則先生は『改革派教義学6 教会論』においてこのようにおっしゃっておられます。「プロテスタント教会は宗教改革を模範視し、とりわけ改革派・長老派系の教会はカルヴァン伝統を―しばしばカルヴァンその人を―最重要視する傾向にあったことは否めない。[23]」
33
広島・長崎・沖縄がさらされた壮絶な暴力を知る日本の教会は歴史神学・組織神学・聖書神学が異性愛者のエリート白人男性の産物であることに重々注意する必要があると思います。異性愛者のエリート白人男性の視点を反映した神学だけに集中するならば、「白人・クリスチャン・異性愛者・西欧人」の視点を絶対化しているというファンダメンタリズムへの批判を改革派も被ることとなるからです。アリスター・マクグラスは著書『キリスト教の将来』の中で白人エリート男性による神学の誤りを以下のように指摘しています。
近代の西洋の神学は西洋の考え方や言説の型が普遍的であるという誤った前提に基づいている。つまり、西洋の哲学や神学が明らかにした普遍的に妥当な考え方が存在するという前提である。西洋で主権を握った神学の形式は、それゆえ、すべての人々にとって妥当である、ただ、これらの神学的方法を世界の他の地方に輸出すればよいだけなのだ、世界の、教養のない地域を開拓して、洞察の恩恵に浴させてやればよいのだと、考えているのである。こうした現代の神学者たちは、もちろん、自分たちが植民地開拓者だとは思っていない[24]。
34
先の大戦における日本の加害者としての側面も考えてみましょう。渡辺信夫は著書『教会が教会であるために』の中で戦前・戦中における教会が天皇制におもねり朝鮮人クリスチャンに神社参拝を強要した背景に四つの罪を見ています。これら四つは性的マイノリティに対する日本の教会の態度に酷似していると私は考えています。
渡辺はまず人格無視を挙げます。強者におもねり弱者をいじめ、保身をはかる卑劣な品性をクリスチャンももっていたのだと渡辺は指摘し、聖書のメッセージが正しく伝えられていたならば起こりえなかった現象ではないかと問いかけています。第二に朝鮮との信仰的結びつきよりも日本国内の同族的結束が尊重されたこと。教会の交わりは戦前・戦中も重視されてはいましたがそれはあくまで「目で見える範囲」に止まり、視野を広げる努力はなされなかったと渡辺は指摘しています。第三に朝鮮人が命を賭して守ろうとした事柄を自分自身の課題として真剣に受け止めなかったこと。信仰の第一義的な事柄であるにもかかわらず、教会は守ること、理解することへの努力を怠ったと指摘しています。第四としてこういった反省が戦後半世紀たって初めて整理された点です。単純に鈍感さで片づけられる問題ではなく、ある種のずるさ、もしくは理解の不誠実さがあって気付こうとしない実情があったのではないかと渡辺は推測しています[25]。
以上、ファンダメンタリズム、特にファンダメンタリズムが拘泥する「優越性」について学んできました。誤解のないように申し上げますが、先に紹介した第四階層にある新福音主義はファンダメンタリズムとは異なります。けれどもファンダメンタリズムは今でも日本の教会に影響を与えているようです。先に紹介した講演の後、藤本満先生はファンダメンタリズムから激しい批判を受けたこともお伝えします。ではここで5分間の休憩を取りましょう。〇〇時〇〇分に再開いたします。
■カルヴィニズム
35
講演を再開します。カルヴィニズムを取り上げましょう。カルヴィニズムも福音主義同様、複雑な発展を遂げていますのでその全様を網羅することはできません。そこでカルヴィニズムの流れを汲む私たち改革派が「聖書をどう読むか」という命題にどのような姿勢で臨んでいるのかを考えてみましょう。
まず改革派教会憲法「ウェストミンスター信仰基準」を取り上げます。第一章「聖書」第八項にこうあります。
「ヘブライ語とギリシャ語で書かれた聖書は神によって直接霊感され、神の独特な配慮と摂理によって、あらゆる時代に純粋に保たれたので、確実である。」
冒頭で紹介したN.T.ライトの言葉を今一度思い出しましょう。ライトは「聖書の権威」とはすなわち「聖書を通して示された真実なる神の権威」だと定義しています。この定義はこの項目の趣旨と通底すると私は考えます。このウ信仰基準の文言はファンダメンタリズムの聖書理解よりも「歴史的現実を認識している[26]」と先に紹介したバーは述べています。
36
藤本満先生の『聖書信仰』を再び取り上げ学びましょう。藤本先生はアンソニー・ティセルトンの考察を紹介しています。「聖書をどう読むか」という命題は二つの方向性に別れるとティセルトンは指摘します。聖書は神が人間に与えた「託宣」だと捉えると神から人へという一方向の伝達として聖書を理解するようになるとティセルトンは指摘します。ウ信仰基準は聖書をこのようには捉えていません。ティセルトンは言います。
聖書言語は真理を正面から叙述し事柄や状況を報告するという意味で理解されるのか、もっと多面的に記された状況を考え、読み手自身を巻き込んで様々な働きをするという意味での言語理解が求められるのか。
この二つの方向性をティセルトンはこう例えています。「これは毒です」という発言を一字一句額面通り受け取ることもできます。けれども更に一歩踏み込んでその発言に「急いで医者を読んでくれ」という叫び、「飲んではいけない」という警告、「これから死のうとしている」という決意などが込められていると理解することもできます[27]。
一章八項におけるウ信仰基準の文言が「歴史的現実を認識している」ということはティセルトンの例えで後者の姿勢を示します。この姿勢をティセルトンは聖書を「より深く掘り下げる、聖書言語の限界をより積極的に受け止めている」と評するのです。
37
ウ信仰基準は聖書を神が一方的に与える「託宣」ではなく、聖霊が結ぶ聖書と読者の双方向の関係性の中で捉えます。ファンダメンタリズムが原典にだけ集中することは既にお伝えしました。しかし「歴史的現実を認識している」ウ信仰基準の聖書信仰はファンダメンタリズムが度外視する聖書編集、口伝伝承の解釈、翻訳にまつわる問題といった複雑な過程をも解釈の射程に収めることとなります。
このことを86年に採択された40周年宣言はこのように表明しました。宣言は「三. 新信条の作成について」の第五項目でこのように述べています。
信仰告白の永続的価値と共に、その特定の時代的・歴史的制約という両面が正当に考慮されなければならない。ウ信仰基準が作成された17世紀の英国と現代日本との社会的・文化的・宗教的状況の隔たりのゆえに、真理の適用とその表現において変更が必要とされる。そこで日本基督改革派教会は、ウ信仰基準に提示されている聖書的真理を、この国とこの時代の具体的な信仰の戦いの中で私たちの言葉をもって一層適切に表明すべきである。
これは聖書解釈において批評学を取り入れるという意志の表明です。では改革派はどのような方法論にのっとった批評学をもって聖書を解釈するのでしょう。方法論とは「聖書という山をどのルートをたどって上り頂点の十字架を目指すのか」という意味です。方法論は聖霊論に深く関わっています。改革派神学はファンダメンタリズム同様、聖書という「特別啓示の文書化」における聖霊の働きを積極的に認めています。けれども逐語霊感説には依拠しません。牧田吉和先生は『改革派教義学1 序論』において聖書霊感の諸見解を概観し、改革派神学が拠って立つのは「有機的霊感論」だと述べておられます。牧田先生がおっしゃる「改革派教義学」は「改革派神学」と同義であると私は理解しここでは「改革派神学」と申し上げます。牧田先生の有機的霊感論理解は以下の九点に集約されます。
38
- 聖書の第一義的著者である神と第二義的著者である人間を「聖書的有神論」によって捉える有機的霊感論は聖書著者・編集者らが活躍した歴史的・地理的・文化的背景を研究対象とする。
- 聖書著者・編集者らの文化的背景が研究対象となるため、ヘブライ語・アラム語・ギリシャ語およびこれら言語に影響を与えた周辺の諸言語・文化も研究視野に含む。
- ゆえに聖書の歴史的・文献的研究は改革派神学において本質的な存在意義を持つ。
- 有機的霊感論は著者/編集者の人格・気質・性格・教養・文学的才能・語彙・文体的特質そして信仰的実存をも研究対象とする。
- 聖書著者・編集者らは入念な準備と調査をもって聖書執筆・編集にあたった。それゆえ有機的霊感論を主張する改革派神学は聖書内における資料分析・編集史的方法も研究視野に収める。
39
- イエス・キリストによる特別啓示は使徒的解釈と共に読者に提供されている。十字架における贖罪と使徒的解釈は共に聖霊の導きによる。キリストによる救済が歴史における普遍的現実として顕現・発展するために1~5で述べられる多様性が用いられたと有機的霊感論は理解する。ゆえに有機的霊感論は1~5を研究対象とするのである。
- 有機的霊感論が展開する概念もしくは思考形式はある特定の聖書記事ではなく聖書全体を研究対象とする。有機的霊感論は律法・預言書・(詩文を含む)知恵文学・黙示文学など様々な文学様式の集合体である聖書全体を論証する必要を提示する。
- このような論点整理により有機的霊感論とはつまり聖霊論的視点からの聖書の霊感理解だということが分かる。
- 有機的霊感論ゆえに改革派神学において聖書の権威への敬意と歴史的・学問的研究は両立する[28]。
以上です。では有機的霊感論が提示する方法論に則ってレビ記18:22を紐解くとどのような聖書解釈を引き出せるのか考察してみましょう。
40
冒頭で申し上げました通り、同性愛を断罪していると伝統的に考えられてきた聖書箇所は九箇所あります。70年代に始まった九箇所に関する聖書学的研究は20世紀が終わるまでに基本的証左が終わっています。現代では各テキストの更なる詳細な研究また「コンテクスト神学(地理的・社会的・文化的・言語学などの文脈に深く関与する神学)」に属するクィア神学・フェミニスト神学・解放の神学・アジア系アメリカ人神学・障碍者神学などと関連付けた研究成果が次々と発表されています。レビ記18章を取り上げる前に、九個所どれを解釈するにしても有機的聖霊論に依拠した場合、押さえておかなくてはならないと私が考える前提をお伝えしましょう。
41
- 聖書に性的指向としての同性愛という概念は存在しない。従ってホモフォビアつまり「文化的に生み出される同性愛者に対する恐れと偏見」を同性愛断罪の根拠として伝統的に捉えられてきた九箇所に反映することはできない。反映することはすなわち有機的聖霊論が導く方法論の否定につながると言わねばならない。
- 聖書において同性間性行為に関するテキストを解釈する際、「同性間における一時の性的惹かれあい」(ホモエロティシズム)と性的指向としての同性愛は峻別されなければならない。聖書に同性愛という概念は存在しないのでホモエロティックな関係を持ったのは異性愛者だと聖書は理解している。小児性愛に基づく同性間性行為を「加害者」として行うのも異性愛者だと聖書は理解している。九箇所のうち創世記の二つの記事を除く七箇所で主に断罪されているのは同性愛者ではなく、抑圧・暴力を伴う性交にふける男性異性愛者である。
42
- 同性間性行為に直接・間接に言及した聖書テキストは少ない。いずれの箇所でも詳説はない。同性間性行為は聖書記者・編集者たちにとって主要な関心事ではなかった。
- 同性間性行為に言及しているテキストはまずもって執筆・編集された当時の文化的・神学的背景を充分に考慮して読む必要がある。その上でこういった記事が現代の同性愛者・非同性愛者の信仰理解をどのように助け、教会内外でどのように生きる指針を双方に示すのかを考察しなくてはならない。
- 聖書の中で実際に同性間性行為に言及している箇所は一様にその行為を悪とみなしているが、断罪の理由については神学的にも他の見地からも議論されていない。そのため聖書執筆者・編集者に「当然のことわり」もしくは「常識」として捉えられていた慣習・規範・伝統などを、それぞれの箇所で諸分野との連携のもと文脈から精査しなくてはならない[29]。
前提を押さえました。ではレビ記を取り上げましょう。レビ記の概説はレジメをご覧ください。今日は18章22節を取り上げます。以下、22節と申し上げます。20章13節も同じ掟を繰り返し、死罪という処分にも言及しています。今日は22節を取り上げますが、講演の内容は20章13節にも適用できます。
45
先ほど20世紀が終わるまでに同性間性行為に関する聖書箇所の基本的証左は終わっていたとお伝えしました。そして最後まで議論が続いたのが22節です。ジャク―・バーリナーブラウは2005年「22節がもつ複雑さに鑑みるに、(複雑さを解明し)合理的解釈を導き出す更なる試みを怠ったという『敗北を』研究者は『認めるべきだ』」と指摘しました。ではまずヘブライ語原文を見てみましょう。
| ヘブライ語 | 読み方 | 日本語 |
| וְאֶ֨ת־ | ウェエッツ | そして~と |
| זָכָ֔ר | ザハル | (一人の)男 |
| לֹ֥א | ロー | ~ない |
| תִשְׁכַּ֖ב | ティシュカブ | あなたは横たわる |
| מִשְׁכְּבֵ֣י | ミシュケベー | 横たわること/寝床(複数形) |
| אִשָּׁ֑ה | イッシャー | (一人の)女性/妻 |
| תֹּועֵבָ֖ה | トーエバァー | 忌むべきこと |
| הִֽוא׃ | ヒー | それ |
| ヘブライ語原文 | וְאֶ֨ת־זָכָ֔ר לֹ֥א תִשְׁכַּ֖ב מִשְׁכְּבֵ֣י אִשָּׁ֑ה תֹּועֵבָ֖ה הִֽוא׃ |
| 新共同訳 | 女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。 |
| 逐語訳 | (一人の)男と寝てはならない。(一人の)女性/妻が横たわること・(一人の)女性/妻の寝床(複数形)。それは(一つの)いとうべきこと。 |
46
原文には「女と」の「と」、そして「寝るように」の「ように」にあたる言葉はありません。新共同訳のみならず聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳など日本語聖書すべての訳は「男と寝ること」と「女と寝ること」があたかも並列関係にあるとの印象を与えますが、原文にそのようなニュアンスはありません。
また「ザハル(オス)זָכָ֔ר」と「イシャ―(女性)אִשָּׁ֑ה」が対となっています。聖書では「ザハル・ネケバー(メス)」「イシュ(男性・夫)・イシャー」の組み合わせが通常で「ザハル・イシャ―」の組み合わせは22節と20章13節にしか登場しません。また日本語聖書翻訳は全て「女のように」と訳していますが原文には「イシャ―」とありますから「女性/妻のように」と訳さなくてはいけません。
47
次に「ミシュケベーイッシャーמִשְׁכְּבֵ֣י אִשָּׁ֑ה」という表現に注目しましょう。バーリナーブラウが指摘する22節の複雑さはこの部分を指しています。「ミシュケベーイッシャー」を「女性/妻が寝る行為」と捉えるのか「女性/妻が寝る場所」と捉えるのか議論が分かれています。2010年代初頭までは「寝る行為」と捉える論調が優勢でした。そう捉えますと22節は「 『性交で女性を知ること』を、男性を相手に寝ることで経験してはならない」と解釈できます。つまり性交における「被征服・従属・下位・受容」という女性の役割を「支配者・上位・攻勢」の役割を担う男性に負わせることを禁じているとの解釈です。
けれども私は「ミシュケベーイッシャー」を「寝る場所」つまり「寝床(beds)」と捉える議論の方により説得力があると考えています。詳しくみていきましょう。
18章の主題は近親相姦です。新共同訳は最初の掟18:6を「肉親の女性に近づいてこれを犯してはならない」と訳していますが不正確です。原文に忠実なのは口語訳で「あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない」と訳しています。つまり男・女に限らず一族全てのメンバーとの性交を禁じているのです。これが18章の主題です。
問題となるのはヘブライ語で「全て・いずれの」を意味する「コル」という言葉です。獣姦を禁じる23節には「動物 ベヘマー」の前に「コル」が付けられ全ての動物との獣姦が禁じられています。けれども「ザハル」の前に「コル」はありません。
18章6節が家長に「一族全ての男・女」との性交を禁じているにもかかわらず、その掟の殆どが女との近親相姦関係に充てられています。性的関係を持ってはいけない相手を具体的に挙げることで掟は示されます。例えば「あなたの実母」「異父姉妹・異母姉妹」「孫娘」「母方のおば」などその属性は十五に上ります。対して男との近親相姦の禁止は22節に収斂されていると私は考えます。「ダイヤモンド」と称されるほど練り上げられたレビ記が22節にだけ注意を払わず杜撰な文章のまま看過したとは考えられません。
「ミシュケベー」は「シャカブ 横になる」という動詞から派生しています。単数形は「ミシュカブ」です。複数形は「ミシュカボット」「ミシュケベー」二つあります。「ミシュカボット」が単純に複数形の「寝床(beds)」を表す一方「ミシュケベー」には特別な含みがあると最新研究は指摘します。
「ミシュケベー」は聖書で三回しか登場しません。レビ記の二箇所に加えもう一つは創世記49章4節で使われます。死の床にあるヤコブが長子ルベンに語りかけます。「お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」「父の寝台」に「ミシュケベー」が使われています(שְׁכְּבֵי אָבִיךָ ミシュケベーアービカー)。
文字通り父の寝床に上ったことが非難されているのではありません。ルベンがヤコブの側女ビルハと性的関係をもったこと、つまり近親相姦を犯したことが非難されています(創35:22)。父の「性的領域」を侵犯したことへの非難です。このように「ミシュケベー」には換喩としての役割があると考えられます。
現代的に言い換えるとこうなるかもしれません。「友人が妻以外の女性とホテルに入るのを目撃した。」字面そのものは「ホテルに入る」友人を描写しています。けれどもそこに込められている含みは「友人が妻以外の女性と性的関係をもった」ことへの驚愕・失望・非難だろうと推測できます。
デイヴィッド・T・スチュワート(カルフォルニア州立大学・宗教学)はこう指摘しています。
創世記49章4節における「父の寝台」が近親相姦と関連しているように、22節の「女性/妻の寝床」も近親相姦に関連している。前者は男性(父)に属する女性を「父の寝台」という表現で示すことで女性親族との近親相姦を禁じている。後者は家長以外の男を「女性/妻の寝床」という表現で表しこの者らとの近親相姦を禁じている。
David Tabb Stewart, “Ancient Sexual Laws: Text and Intertext of the Biblical Holiness Code and Hittite Law,” PhD diss., University of California, Berkeley, 2000.
スチュワートは「ミシュケベー」を「寝る場所」と解釈し、「ミシュケベー」は近親相姦に関する換喩だと主張しました。
けれどもスチュワートは聖書外資料であるクムラン文書を研究射程に収めていません。「1QSa」と呼ばれる文書に「ミシュケベー」が登場します。「1QSa」とは「クムラン第一洞窟(1Q)から出土した『会衆規定(Sa:The Rule of the Congregation)』」という意味です。この文書に登場する「ミシュケベー」に近親相姦という意味合いはありません。読んでみましょう。
彼は・・・二十歳になると、聖なる会衆と一つになるため、その家族の中で運命をともにするよう、調査〔を〕受ける。しかし、彼が満二十歳になり、〔善〕と悪をわきまえないうちは、女を知り交わるために彼女に近づいてはならない。
関根正雄・日本聖書学研究所編『復刻 死海文書 テキストの翻訳と解説』
(山本書店、1963年)
原文により忠実に訳しますと「ミシュケベーザハル 男の寝床(beds)」をもって女に近づいてはならない」となります。ここに近親相姦という意味合いはありません。
創世記49章で「ミシュケベー」がルベンでもビルハでもなくヤコブの性的領域を示すのと同様に、1QSaにおける「ミシュケベー」もこの若い男また相手となる女ではなく、ヤコブのような「第三者」を指していると想定されます。そうしますと「ミシュケベー」が指すのは女性の性的領域を保護・管理する「第三者」だと考えられます。この女の父、父が死去していた場合は、男兄弟もしくは男性の親戚、その存在さえなければその女に責任を持つ女性と想定できます。
「ミシュケベー」が登場するテキストはこれら四つしかありません。
| 出典 | ヘブライ語 | 意味 | 状況 |
| 創49:4 | ミシュケベーアービカー | あなたの父の寝床 | ルベンが父の側女と性交 |
| レ18:22 | ミシュケベーイッシャー | 女性/妻の寝床 | 家長が一族の男と性交 |
| レ20:13 | ミシュケベーイッシャー | 女性/妻の寝床 | 家長が一族の男と性交 |
| 1QSa | ミシュケベーザハル | 男の寝床 | 男が女と性交 |
二つのことが分かります。一点目です。どの記事における「ミシュケベー」も不正とされる性行為を指しています。二点目です。どの「ミシュケベー」も「不正行為を行ってはいけない相手の性別」とは反対の性別の単数形と結びあわさっています。
以上を踏まえ「ミシュケベーイッシャー」は「女性/妻の寝床」だと主張するブルース・ウェルズ(テキサス大学・中東研究)は以下のように述べています。
1.「ミシュケベーイッシャー」は場所を示す副詞的対格である。掟が課せられる家長が一族に属する男と性的関係を持ってはならない場所を示す。
2.「ミシュケボット」が単純に「寝床(beds)」を表すのに対して「ミシュケベー」には単なる「寝床」を超える意味的含みが込められている。
- 「ミシュケベー」は性的領域に関して抽象的意味を持つ換喩表現だと解釈できる。論拠として創世記49章4節および1QSaが挙げられる。
- この二つの論拠は人が誰かの性的領域に属していることを二つの意味で示す。その人は他のたった一人の人との性交が許されているか、その人の性交が他者によって保護・管理されているかのどちらかである。他者はその人が誰と性交できるのか・できないのかを決定する権利を有する。
- 4の解釈をレビ記の二箇所に適用すると以下のような結論を導きだせる。家長が一族の男との性交を禁じられているのは、その男がある特定の女性との間にもつ関係性が尊重されるからである。それゆえ妻帯している男との近親相姦、一族に属する女性の庇護下にある男との近親相姦が禁じられている。
James Wells. “On the Beds of a Woman: The Leviticus Texts on Same-Sex Relations Reconsidered.” In Sexuality and Law in the Torah, ed. By Hilary Lipka and Bruce Wells. London: T&T Clark, 2020.
以上すべての研究成果に鑑みると22節は以下のように訳せます。
(一族の家長であるあなたは同じ族に属する)妻帯者の男・女性の庇護下(保護下・管理下)にある男と寝てはならない。それはいとうべきことである。
講演のまとめに入りましょう。同性愛を巡る聖書学的議論はリベラリズムが次々と発表する研究成果にファンダメンタリズムが反駁するという形を取りつつ整理されてきました。ファンダメンタリズムはリベラリズムの主張を否定することで「地位」もしくは「優越性」を保持しているがゆえにリベラリズムという「他者」に依存していると言えるでしょう。けれども否定・反駁することに躍起になった結果みずからの首をしめ(G.E.ラッド)、議論的発展を遂げることができないでいます。
この論争が続いている間はカルヴィニズムに対する批判は殆ど見られなかったと思います。けれどもここ十年でカルヴィニズムに対する批判が急激に高まったとの印象を私は持っています。フェミニスト神学・クィア神学は共に教会における家父長制・男性中心主義にのっとって構築されてきた観念形態が(カトリックやファンダメンタリズム同様)カルヴィニズムの権威主義を生み、それは弱者を犠牲にすることで維持されてきたのではないかと問いかけます。そしてこの批判は強固な神学を有するカルヴィニズムに向けられてこそ真価を発揮します。聖書という山を登ろうにもルートを知らず地理学・気象学に暗ければ一歩を踏み出すことさえできません。ですから「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」という十字架の祈りはファンダメンタリズムには適用されるかもしれません。ピラトよろしく「真理とはなにか」とうそぶくリベラリズムにも適用されるでしょう。けれども登山に充分な備えを教理・カテキズムから発展させ、神学へと結実させたカルヴィニズムよ、あなたにこの執り成しの祈りは適用されるのかと同性愛者は問いかけます。
ファンダメンタリズムもカルヴィニズムも信仰を「排除」手段に用いてきたのではないかというフェミニスト神学・クィア神学の問いかけが重くのしかかかります。その「排除」の背景に前者では懐古主義・反啓蒙主義・極論があり、後者には、逆説的ではありますが、神学ゆえに「先鋭化」された権威主義があると私は思います。カルヴィニズムは同性愛者を「無き者」とし、彼ら/彼女らの痛みを「矮小化」することで権威主義を維持しているという指摘は鋭いと言わねばなりません。カルヴィニズムの流れを汲む改革派は「隣人の痛みを無視し、困っている人、貧しい人、傷ついている人の側を通り過ぎて[30]」いるとの指摘です[31]。
けれども現代社会で次々と生まれる今日的課題に対して改革派はどうしても慎重にならざるを得ません。というのも改革派は強固な「教会論」をもっているからです。アカデミアを土壌とし極めて個人主義的信仰観に立つリベラリズムの「研究成果という名の言いっぱなし」を「教会を立てあげる」ことを目標に掲げる改革派に無批判に取り入れることに私は慎重な姿勢で臨むべきだと思います。けれどもリベラリズムの研究成果を取り入れる・取り入れないという線引きを誰がどのように行うのかという問いには、性的マイノリティへの充分な理解・配慮が伴うべきです。「リベラリズム・有機的霊感論が展開する研究成果をどう改革派神学に反映していくのか」までが改革派に示される課題です。このことを17世紀の英国と現代日本の隔たりゆえに「ウ信仰基準」において真理の適用・表現の変更が必要だと認識する40周年宣言は「ウ信仰基準」に示される「聖書的真理を、この国とこの時代の具体的な信仰の戦いの中で私たちの言葉をもって一層適切に表明すべき」と提唱したと私は理解しています。
市川康則先生は『改革派教義学3 人間論』において神学的人間論は広範な人間論の一面に過ぎないことを認め、人間像は他の学問分野との連携の中で多角的・多面的に学際的考察として立ち上げるべきだと述べておられます。その点を確認した上で人間的被造物とは「将来の完成」を目標に共同体を積極的・能動的に構成・形成し、発展させるという意味において原初から終末志向的存在であるとおっしゃいます[32]。学際的考察の例として市川先生が列挙なさる社会学、心理学、倫理学、生物学は既にセクシュアリティ・ジェンダーの研究を積み重ねています。
以上を踏まえた上でファンダメンタリズムへの批判がカルヴィニズムにも向けられている点を考慮して、現段階で以下の二点を問題提起し得ると私は考えます。
- 改革派は「本当に」ファンダメンタリズムと袂を分かっているのか。
- ファンダメンタリズムとの決別を促す「ウ信仰基準」の聖書観・「40周年
宣言」・有機的聖霊論が示す方法論は「本当に」改革派に浸透し共有され
ているのか。
アブラハム・カイパーは「制度的な教会」とは区別される「有機体としての教会」という概念を打ち立てました。「有機体としての教会」とは個々のキリスト者が「キリスト教的社会組織・学問・芸術・精神・気質の形成」に参与し、社会のキリスト教化を目指す姿勢」を表します。
けれども現実には多くの困難が立ちはだかります。2003年日本カルヴィニスト協会が開催した講演会で牧田吉和先生はそう指摘なさいました。というのもカルヴィニズムの主義主張の「厳格性」の堅持と「開放性」の問題に直面するからだと先生はおっしゃいます。そこで教会外との「対話と協力関係が真剣な課題」となり、教会外の諸活動に対して開かれた姿勢を維持し、協力しつつ、改革・改善に取り組んでいくことになるだろう」と示唆しておられます[33]。
「厳格性」堅持と「開放性」は「統一」と「多様性」という二律背反の克服とも関係しています。集団の統一を維持するならば多様性は認めないほうが運営が容易ですし、多様性を認めるならば統一は困難になるからです。けれども「御言葉によって変えられる」ことを理念として掲げ「終末論」をもつ改革派は二律背反の克服を諦観し「安堵する」ことはできないと私は考えます。終末論を持つということは世界には差別・抑圧・暴力がはびこり、虐げられる人々が大勢いるという現実を受け止めることだからです。聖書には「自分さえ良ければいい」という視点はありません。そして聖書が常に関心を寄せるのは「あなたの信仰」ではなく「あなた方の信仰」です。
私は教会を性的マイノリティにとって安全な場所に改革・改善していくためにこの「有機体としての教会」という概念が示す「対話と協力関係」を教会にこそ適用すべきだと考えます。改革派には千人の性的マイノリティが在籍し、毎週の礼拝に360人が出席している、そう類推できるとご紹介しました。教会の家父長制・男性中心主義が生んだ構造的暴力・文化的暴力をあぶり出し、教会環境を改善するには性的マイノリティに深く頭を垂れ、その声に真剣に耳を傾けることが不可欠な取り組みとなるでしょう。というのも教会運営を維持するために「十人のうち一人を犠牲にしてもいい」という視点を聖書は否定しているからです。
構造的暴力・文化的暴力に着眼した「平和宣言」を改革派は伝統神学に加え現代神学にも取り組むという決意だと私は理解しました。解放の神学のみならず全てのコンテクスト神学は抑圧される弱者に寄り添うことを出発点とします。グスタボ・グティエレスは71年に発表した『解放の神学』の中で神は「貧しい者への優先的な選択」を持っておられたと述べました。それゆえ解放の神学は「神が、いかに虐げられ、疎外された人々の見方であったかを示す聖書の物語に注目」します。イヴァン・ペトレッラ(アルゼンチン出身・神学者)は「神学は第二段階であり、周縁化されたコミュニティへのもがきへの取り組みと関与が第一段階である」と述べています[34]。
教会にパラダイムシフトを促すようなこのペトレッラの発言を栗林輝夫は以下のようにまとめました。
福音の真理はただ教会の内側で解釈され、その成否が決まる時代は過ぎ去ろうとしている。これまで神学は聖書と教会伝統そのものに規範を求め、解釈原理を教会が占有する啓示から教会外世界に適用するということに終始してきた。しかし教会が独占的に神の啓示をもってイエス・キリストの真理を伝え、それを被差別世界に宣教するというのではなく、教会が被差別者から福音解釈の正しい道筋を宣教される。私たちが被差別民に教えるのではなく、私たちが教えられる。差別された者の歴史的解釈の運動に参与しつつ、同時に神学をも「解放」して、新しい地平にそれをもたらさねばならないだろう。そして当然にもそれは、キリスト論、神論、教会論、その他の重要な神学の諸項目―終末論、人間論、罪論などにおいて、これまでの神学と同じ内容であることは出来ず、それらひとつひとつも、犠牲とされた者の視点から脱構築と再編を繰り返さねばならない課題をもつのである[35]。
栗林が指摘する「教会外世界」は教会内部で既に始まっていることを同性愛者は明るみにします。改革派は異性愛規範にのっとって同性愛者という存在にレッテルを貼り、単純化し、不可視化してきました。改革派は、他の教派同様「どなたでもお越しください」と喧伝しつつ教派として同性愛者を含む性的マイノリティを「隣人」に加える努力はしてきませんでした。十人のうち一人を無視して語られる「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉には残念ながら説得力がありません。
最後にあるシナリオをお伝えしましょう。このシナリオは私が見聞きした性的マイノリティの友人たちの「証言」をもとに私自身が作成したフィクションです。
山田花子さん。40歳。改革派クリスチャンホームで育ちました。大学進学を機に地方から上京し、ある企業に勤めながら関東圏内にある改革派教会に通い続けて22年。聖書信仰に堅く立ち礼拝遵守・奉仕への熱心を実践によって教会に示し続けてきました。執事会・女性会のリーダーとしてここ十年奉仕に勤しんでいます。牧師の妻もしくは夫そして子どもたちへの共感・理解も深い花子さん。牧師・信徒からの信頼も絶大です。
ある日、花子さんが牧師との面会を希望します。小会室に招き入れられた花子さんは一呼吸おいて切り出しました。「先生、私、結婚したい方がいるんです。」牧師は歓喜します。「おめでとう!相手はどんな男性?」長い沈黙の後、花子さんは言いました。
「先生。先生は私を当然のごとく異性愛者だと判断なさる。けれども私はレズビアンです。そのことをずっと先生にお伝えしたいと願い続けてきました。先生の説教に基づく聖書の教えに従ってこの十年パートナーとの信頼関係を築いてきました。私たちの結婚に法的拘束力としての『契約』は成立しません。けれども教会にてキリストの祝福をいただけるなら法的拘束力は必要ないとの考えに私たちは祈りを通して導かれました。
先生は確かに異性愛規範にのっとっておられる。けれども先生の説教そして信仰者としての姿に私はずっと教えられ、支えられてきました。日本社会はレズビアンという私を否定するか、もしくは「上から目線で許容」するかのどちらかです。だからこそ十字架に「だけ」示された愛と義を説教において示し、希望を与えてくださる先生の司式のもと、信仰の家族である教会員を証人として私は結婚式をあげたいのです。どうぞ真剣に私の願いに向き合ってください。心よりお願い申し上げます。
さあ、どうするか。「結婚は、ひとりの男子とひとりの女子の間でなすべきである」と語る「ウ信仰基準」にたって花子さんの願いに否と言うのか。その場合は花子さんが教会を離れ、教会全体が動揺することも覚悟しなくてはならないでしょう。それともレズビアンとしての花子さんの格闘に真剣に聞き入り、自分の課題として捉え、花子さんの願いに沿う方策を全力で施すべきでしょうか。
改革派信徒は聖書の教えに「安堵すること」を信仰の基盤と捉えるべきでしょうか。それとも「胸襟を開き続け・・・聞いたことがないこと、また殊更聞きたくないと思っていたことについて聖書の教えに耳を傾ける」群れであるべきでしょうか。このシナリオは皆さんの予想をはるかに超えて現実味を帯びていると私は考えております。そうみなさんにお伝えして講演を終了いたします。ご清聴ありがとうございました。(了)
質疑応答に関する注意点
四点お伝えしたいことがございます。
- この場に性的マイノリティとそのご家族がいらっしゃるのか私は存じ上げません。けれども性的マイノリティに対する誹謗中傷は絶対になさらないでください。この場を性的マイノリティにとって安全な場所にしたいと願う私の意向をなにとぞ汲み取っていただけますように。
- 当事者の了承を得ないままその方のセクシュアリティを公けにする行為をアウティングと呼びます。アウティングは重大な人権侵害です。絶対になさらないでください。
- 本講演は性的マイノリティにカミングアウトを推奨するのでも要請するのでもありません。何卒ご留意ください。
- 質問は簡潔にお願いいたします。だらだら話して最後にとってつけたような質問をするという行為はどうぞお控えください。以上です。
主な参考文献
日本語文献
市川康則(2012)『改革派教義学3 人間論』一麦出版社.
,(2014)『改革派教義学6 教会論』一麦出版社.
イムマヌエル綜合伝道団人権委員会(2020)『聖なる教会を目ざして ハラスメントを
起こさないためにはどうしたらよいか』いのちのことば社.
絹川久子(2014)『沈黙の声を聴く マルコ福音書から』日本キリスト教団出版局.
グリノフ,クリス(2024)『クィア神学入門 その複数の声を聴く』薄井良子訳、新教
出版社.
クリスチャン新聞(2021年6月20日号)「福音主義神学会全国研究会議へ向け『神学的
人間論』聖書をどう読む 冷静に検討促しLGBT肯定を評価」
栗林輝夫 反差別の神学(1)―マイノリティの解放と神学方法の転換
熊澤善宣・野呂芳男編(1995)『総説 現代神学』日本基督教団出版局.
小林昭博(2021)『同性愛と新約聖書 古代地中海世界の性分化と性の権力構造』風塵
社.
サイカー, ジェフリー編(2002)『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』森本あん
り監訳、日本基督教団出版局.
坂口ふみ(2023)『〈個〉の誕生』岩波書店.
周司あきら・高井ゆと里(2023)『トランスジェンダー入門』集英社.
関根正雄・日本聖書学研究所編(1963)『復刻 死海文書 テキストの翻訳と解説』
山本書店.
平良愛香監修(2022)『LGBTとキリスト教 20人のストーリー』日本キリスト教団出 版局.
日本キリスト改革派教会 憲法委員会 第三分科会(2021)『日本基督改革派教会 礼拝式文』リブウェル聖恵.
バー,ジェームズ(1982)『ファンダメンタリズム その聖書解釈と教理』喜多川信・柳生望他訳、ヨルダン社.
フィオレンツァ,E. S.(1992)『石ではなくパンを』山口里子訳、新教出版社.
,(1990)『彼女を記念して フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構
築』山口里子訳、日本基督教団出版局.
フーコー,ミシェル(1986)『性の歴史 1 知への意思』渡辺守章訳、新潮社.
藤高和輝(2024)『バトラー入門』ちくま新書.
藤本満(2015)『聖書信仰 その歴史と可能性』いのちのことば社.
ペイリー,グレイソン(2019)『男らしさの終焉』小磯洋光訳、フィルムアート社.
牧田吉和『改革派教義学1 序論』一麦出版社、2013年
,「カルヴィニズムの一致と多様性―カイパー、スキルター、ファン・ルーラー
そして日本(2004)日本カルヴィニスト協会編(2014)『カルヴァンとカルヴ
ィニズム キリスト教と現代社会』一麦出版社.
マクグラス,A. E. (2002)『キリスト教の将来』本多峰子訳、教文館.
山口里子(2009)『新しい聖書の学び』新教出版社.
, (2008)『虹は私たちの間に 性と生の正義に向けて』新教出版社.
ラッド,G.E.(1991)『新約聖書と批評学』榊原康夫・吉田隆共訳、聖恵授産所出版部.
リューサー、R=R(1996)『性差別と神の語りかけ フェミニスト神学の試み』小檜山ルイ訳、新教出版社.
渡辺信夫(1992)『教会が教会であるために 教会論再考』新教出版.
Wikipedia「性的指向」https://ja.wikipedia.org/wiki/性的指向(2024年8月27日参照)
Wikipedia「同性愛」https://ja.wikipedia.org/wiki/同性愛(2024年8月27日参照)
英語文献
Anderson, Cheryl B. Ancient Laws & Contemporary Controversies: The Need for Inclusive
Biblical Interpretation. New York: Oxford University Press, 2009.
Ashtemeier, Mark.The Bible’s Yes to Same-Sex Marriage: An Evangelical's Change of Heart. Louisville, Ky.: John Knox Press, 2014.
Berlinerblau, Jacques. The Secular Bible: Why Nonbelievers Must Take Religion Seriously.
Cambridge: Cambridge University Press, 2005.
Boswell, John. Christianity, Social Tolerance, and Homosexuality: Gay People in Western Europe from the Beginning of the Christian Era to the Fourteenth Century. Chicago: University of Chicago Press, 1980.
Bowler, Kate. The Preacher’s Wife: The Precarious Power of Evangelical Women Celebrities. Princeton: Princeton University Press, 2019.
Brown, Judith C. Immodest Acts: The Life of a Lesbian Nun in Renaissance Italy. Oxford: Oxford University Press, 1986.
Douglas, Mary. Purity and Danger. New York: Routledge, 1966.
Harshman, Andrew. “Homosexuality in the Bible,” Academia. Last modified June 2017. https://www.academia.edu/3411196/HOMOSEXUALITY_IN_THE_BIBLE?email_work_card=thumbnail.
Hartke, Austen. Transforming: The Bible & the Lives of Transgender Christians. Louisville: Westminster John Knox Press, 2018.
Human Rights Campaign Foundation, “Stances of Faiths on LGBTQ Issues: Presbyterian Church (USA),” Human Rights Campaign, accessed August 27 2024, https://www.hrc.org/resources/stances-of-faiths-on-lgbtq-issues-presbyterian-usa.
Lings, K. Renato. Love Lost in Translation: Homosexuality and the Bible. Bloomington, IN : Trafford Publishing, 2013.
Martinez,Florentino Garcia. The Dead Sea Scrolls Translated: The Qumran Texts in English, trans. Wilfred G. E. Watson. Leiden: Brill, 1994.
Reformed Church in America General Synod annual meeting. 2022. “Statements of General Synod.” Reformed Church in America. Last accessed April 3, 2023. https://www.rca.org/synod/statements/#sexuality.
Storakis, Kristine, director, Pray Away. Blumhouse Productions, 2021. 1hr., 41min. Last modified September 2, 2022. http://en.wikipedia.org/wiki/Pray?Away.
(邦題:祈りのもとで:脱同性愛運動がもたらしたもの) 2024年8月28日段階Netflix
での視聴可
Toensing, Holly Joan. “Women of Sodom and Gomorrah: Collateral Damage in the War Against Homosexuality?” Journal of Feminist Studies in Religion, vol. 21, no. 2 (Fall 2005)
United Nations Independent Expert on protection against violence and discrimination based on Sexual Orientation and Gender Identity - IESOGI.. Last Modified 2020. https://www.ohchr.org/sites/default/files/Documents/Issues/SexualOrientation/ConversionTherapy/pdf.
Wells, Bruce. “On the Beds of Women: The Leviticus Texts on Same-Sex Relations Reconsidered.” Library of Hebrew Bible/Old Testament Studies, vol. 675. London: T&T Clark, 2020
Wright, N.T., Scripture and the Authority of God: How to Read the Bible Today. New York:HarperOne Publishers, 2011.
[1] N.T Wright, Scripture and the Authority of God: How to Read the Bible Today
(New York:HarperCollins-ebooks, 2011). 74.
[2] Ibid., 26.
[3] Wikipedia「性的指向」https://ja.wikipedia.org/wiki/性的指向、Wikipedia「同性愛」https://ja.wikipedia.org/wiki/同性愛 2023年3月24日参照。
[4] About LGBTI people and human rights | OHCHR
[5] クリスチャン新聞「福音主義神学会全国研究会議へ向け『神学的人間論』聖書をどう読む 冷静に検討促しLGBT肯定を評価」2021年6月20日。
[6] G.E.ラッド『新約聖書と批評学』榊原康夫・吉田隆共訳(聖恵授産所出版部、1991年)、26頁、48頁。
[7] クリス・グリノフ『クィア神学入門 その複数の声を聴く』薄井良子訳(2024、新教出版社)、50頁。
[8] 前掲書、19頁。
[9] 藤本、12-15頁。
[10] 藤本、206頁。
[11] 藤本、27頁。
[12] 藤本、67頁。
[13] 藤本、205頁。
[14] 絹川久子『沈黙の声を聴く マルコ福音書から』(日本キリスト教団出版局、2014)15頁。
[15] ラッド、47頁。
[16] 藤本、154頁。
[17] Allan G. Johnson, The Gender Knot: Unraveling Our Patriarchal Legacy, revised and updated (Philadelphia: Temple University Press, 2005), 5.
[18] E.S. フィオレンツァ『彼女を記念して フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築』山口里子訳(日本基督教団出版局、1990年)17頁。
[19] E. S.フィオレンツァ『石ではなくパンを』山口里子訳(新教出版社、1992)15-16頁。
[20] Anderson, 12-13.
[21] Anderson, 12.
[22] 藤本、162-163.
[23] 『改革派教義学6 教会論』
[24] A. E. マクグラスは『キリスト教の将来』本多峰子訳(教文館、2002年)199頁。
[25] 渡辺信夫『教会が教会であるために 教会論再考』(新教出版、1992年)、6-7頁。
[26] バー、340頁。
[27] 藤本、92-93頁。
[28] 牧田、前掲書、158-177頁。
[29] サイカー、63頁。
[30] 日本キリスト改革派 罪の告白の勧告と祈祷4 日本キリスト改革派教会 憲法委員会 第三分科会『日本基督改革派教会 礼拝式文』リブウェル聖恵、2021、48頁。
[31] Anderson, Ancient Laws & Contemporary Controversies, 111-154.
[32] 市川康則『改革派教義学3 人間論』一麦出版社、2012年、17、33頁。
[33] 日本カルヴィニスト協会編『カルヴァンとカルヴィニズム キリスト教と現代社会』(一麦出版社、2014年)153-154頁。
[34] グリノフ、30頁。
[35] 栗林輝夫 反差別の神学(1)―マイノリティの解放と神学方法の転換 熊澤善宣・野呂芳男編『総説 現代神学』(日本基督教団出版局、1995年)

