『士師記』から『ルツ記』へ
これまで『士師記』の御言葉から、嗣業の土地を分け与えられたイスラエルの民が、カナンの民といかに戦いながら罪の深みに落ち込んでいく様を見てきました。終わりに至っては目を覆うような暴力があり、兄弟同士で殺し合う戦争がありました。「そのころは王がいなかった。各々が自分の目によいと思うことを行っていた」とその時代に対する評価が繰り返し述べられました。しかし、そうして神の選びの民は自らの罪のために滅び去ったのではなくして、堕落の底にありながらも12部族がなんとか生きながらえて、神の憐れみが注がれるのを待っていたのでした。『ルツ記』がそうして『士師記』に続きます。「士師が世を治めていた頃」と物語は始まります。そして「ユダのベツレヘム」に焦点が定まります。『士師記』の終わりに付けられた二つのエピソードがすでに「ユダのベツレヘム」に触れて、その特別な意味を暗示していました。『ルツ記』の始まりはそこからの明確な連続線を見せながら、主人公の一家の主人エリメレクを「ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者」と紹介しています。そして、この物語の導く先には『サムエル記上』17章12節に登場する次の人物が待っています。
ダビデは、ユダのベツレヘム出身のエフラタ人で、名をエッサイという人の息子であった。
「王がいなかった時代」の暗闇を抜けて、いよいよ神の憐れみがイスラエルに示される時が、待ち望まれたメシア・ダビデと共に到来します。その闇から光へと向かう途上に『ルツ記』の短い話が差し込まれます。ここからダビデ誕生ために特別に備えられた主の摂理的な御業が語られます。
ナオミとヨブ
「エリメレク」(神は王)との名がその家系の未来を方向付けます。彼にはナオミ(快い)という名の妻があり、二人の息子がありました。そしてここでの主人公はナオミです。物語の冒頭は『士師記』の暗さを引き継いで、ナオミを襲った悲劇から始まります。初めに飢饉が起こります。飢饉とは国全体に降りかかる大きな災いです。『創世記』ではアブラハムやイサクが同じように飢饉に見舞われて、家族の命を守るためにエジプトへ避難したことが記されています。エリメレクの家族はヨルダン川を越えて東側のモアブへ逃れます。モアブはケモシュと呼ばれる神の土地ですから、信仰からすれば不本意な避難であったのではないかと思われます。しかし、後にはダビデの両親がモアブの王に保護されていた時期があると『サムエル記上』22章に記されていますから、イスラエルのモアブに対する関係は両義的です。
そして、ナオミの夫エリメレクは二人の息子を彼女の元に残してモアブで死にました。息子たちはそれぞれモアブの女性を妻にしました。夫が生きていればどうであったか分かりません。アブラハムは息子のイサクに嫁を迎えるに当たって、地元のカナンの人間から娶るのを避けて、わざわざ遠方の親族のもとへ僕を遣わしています。ともかく、ナオミの息子たちが妻を迎えて十年が過ぎました。十年間共に暮らしていて孫が生まれなかったことは、夫を亡くしたナオミにとって淋しいことであったに違いありません。アブラムの妻サライは、カナンの地方に住み着いて十年が経って、子どもができないために悩んで、夫に側女を与えて問題の解決を測りました。ナオミの場合はその間もなく、二人の息子が次々と世を去って行きました。息子の名はマフロンとキルヨンでした。「マフロン」とは「病弱」という意味で、「キルヨン」は「瀕死」を表します。名前からして不幸な運命を背負った二人でした。これは家系の問題かも知れません。『創世記』38章にはユダとタマルのことが記されています。ユダはカナン人の妻を迎えて、三人の息子をもうけます。長男のエルはタマルという女性と結婚しますが、子どもが生まれる前に死に、次男のオナンが法に従ってタマルを身請けします。ところが、オナンもまた子をもうける前に死んでしまい、タマルはやもめとなってしまいます。ユダの二人の息子、「エル」の名は「子どもがない」という意味を表し、「オナン」は「喪に服す」ことを指します。
ナオミは飢饉という時代の災害に巻き込まれ、さらに夫と息子たちを失うという家庭の不幸に見舞われました。「主の御手がわたしに下された」(13節)、「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた」(21節)と嘆くナオミの様子は、さながらヨブの女性版です。「ナオミ」(快い)という名はなんとも皮肉です。「マラ」(苦い)と呼べ、と彼女はベツレヘムで語ります。彼女の悲惨な姿を見て、ベツレヘムの女たちもどよめき、「これがナオミか」と絶句します。
モアブ人ルツ
寄留の地モアブですべてを失ったナオミの元に残されたのは、子どものいない二人の嫁でした。ナオミは故郷に帰る決心をします。二人の嫁はモアブ人です。異邦人でありながら二人の嫁は夫にも姑にもよくしてくれたようです。ナオミは二人の忠実さに「主が報いてくださる」ことを願いながら、二人を故郷に帰そうとします。ここに示されている信仰のかたちは、神と土地とが結びついています。エリメレクの一家がユダの土地を離れたことは、災害から逃れるためであったとはいえ、主なる神から離れることを意味します。モアブ人にとっては、モアブの土地を離れればケモシュから離れて、異教徒との間で肩身の狭い暮らしをすることになります。「それぞれに新しい嫁ぎ先が与えられるように」とナオミは祈ります(9節)。無理をしないで自分の国にとどまっていなさい、ということです。
二人の嫁は初め、ナオミについていくつもりでした。ナオミがそこで三度の説得を試みます。初めの説得では二人とも納得はしませんでしたが、二度目の説得を通じてキルヨンの妻であったオルパが実家に帰る決心をします。この二度目の説得でナオミが語っているのは、死んだ兄弟の妻を残りの兄弟が責任をもって引き取って家名を存続させる、という結婚に関する風習です。先ほどお話ししたユダとタマルの事例がそうでした。また、『申命記』25章5節以下に、いわゆる「レビラート婚」と呼ばれる家名存続の掟が記されています。『ルツ記』ではこの掟がやがてナオミを救うことになります。
オルパはそうして説得に応じて「自分の民、自分の神」(15節)のもとに帰ります。しかし、もう一人の嫁であるルツは、三度目の説得にも応じずに、ナオミにくっついて離れませんでした。名前の説明をしていますので、ここで「オルパ」と「ルツ」についても話すべきところですが、この二人の名はモアブ人であるためか、はっきりしたことは分かりません。「オルパ」は「うなじ」を表し、うなじを見せて去っていくことを意味する、と解釈する人もあります。「ルツ」の場合は、「レウート」と読んで「同伴者」を意味する、というもっともらしい説明もあります。しかし、他の人物たちのようにヘブライ語を解する者なら誰でもわかる類の名ではないのは確かです。
ナオミの説得を拒んだルツの告白は、「あなたの愛嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰った」と言ったナオミの言葉に反応しています。ルツは何としてもナオミから離れないと強く主張します。そして、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」(16節)と、自分の国を捨てる覚悟を述べました。それが偽りでないことは「主よ」と17節で主の名を呼んでいることからも察することができます。
ユダのベツレヘムについての預言で知られる『ミカ書』の7章に、堕落した時代を告発する預言者の次のような言葉があります。
息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。(6節)
モアブ人の嫁ルツが姑のナオミに示す態度は、これとは正反対のものです。
あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。(17節)
ここに表されたルツの愛情はあらゆる利害関係を超えています。ナオミについてユダの地に足を踏み入れることは、ルツにとって様々な困難を引き起こすことにはなっても、まったく益にはなりそうにありません。ルツの実家がどのようであったかは知りません。しかし、ここで彼女は自分の生まれ故郷を捨て、宗教を捨ててまでナオミについていくと言います。ユダに入れば彼女は異邦人です。『申命記』23章4節の掟に従えば、「アンモン人とモアブ人は主の会衆に加わることはできない。十代目になっても、決して主の会衆に加わることはできない」とされています。ナオミはオルパと同じようにルツにも「新しい嫁ぎ先と安らぎ」を願いました。しかし、ユダでの彼女の生活には苦労しか見込めません。ルツばかりではなく、ナオミにも希望はないわけです。もはや新しい子どもが生まれて、家族が明日へとつながる見込みがないことは、11節で彼女が述べている通りです。しかし、ルツは彼女を放ってはおけませんでした。そして、ルツがナオミについて離れないことが、同時に、ナオミの神である主について離れないことをも意味していました。ルツは女版ヨブとも言えるナオミと苦しみを分かち合うことによって、主なる神の憐れみに触れることになります。
神の摂理を信じる
『ルツ記』には主なる神の直接的な介入はほとんど見られません。民を救う奇跡は起こらず、預言者の告げる主の言葉も聞かれることなく、人間中心の物語が淡々と進みます。そこに、しかし、主の御業が現れないかといえば、そうではありません。この物語全体が、人の思いを超えた神の摂理を私たちに語っています。ナオミは自分の不幸を呪うかのように、主の裁きをつぶやきます。「主の御手がわたしにくだされた」「全能者がわたしをひどい目に遭わせた...主はわたしからすべてを奪った...主がわたしを不幸にした」。神を否定しないまでも、こう訴えるナオミには希望がありません。ナオミに裁かれるような理由が何かあったのかどうかわかりません。モアブに逃れて、主を離れたことが根本的な問題であったのかもしれません。確かにナオミの言う通り、主が彼女に罰を与えたのかもしれません。神は全能者であって、すべてのことをご存知で、すべてのことを御旨のままに行われます。そうだとしても、ナオミが訴えている主の御業は、彼女の身に起こった不幸についての彼女の解釈です。それがすべてではありません。たとえ彼女を不幸な目に遭わせたのが神であっても、それには何か理由があるのかも知れません。この物語の中では主の直接的な御業が語られないと言いましたが、この1章では一箇所それが記されているところがあります。それは6節です。
主がその民を顧み、食べ物をお与えになった...
最初にナオミを見舞った飢饉という国家規模の災害には、こうして主の解決が与えられています。そしてそのニュースをナオミは実際耳にして、主のもとに帰ることを決意しています。主の良き御旨がこうして知らされているわけです。すると、続いて主はナオミの家庭の問題にも解決を与えてくれるのではないか、ということが期待されます。神の積極的な働きは、苦しむ民の声を聞きあげ、よいもので報いてくださることだからです。すべてを捨ててナオミに尽くそうと決意した異邦人の女性ルツもまた、その愛に基づく決心のゆえに、主の特別な顧みを受けることになります。真の神を信じる者は、その出自や身分によらず、愛に生きることを通して神の摂理に導かれると、今日の御言葉からルツとナオミが教えてくれます。
祈り
世の過ぎ行く様をも私たち一人ひとりの人生をも御手のなかで導かれます全能の御神、あなたは私たちを自由に選んで主イエスのもとに引き寄せ、ご自分の民とし、あなたを神として仰がせてくださいます。私たちにはあなたの御旨のうちにあるすべてを知ることはできませんけれども、あなたはすべての人を憐れんでくださり、一人ひとり、時に適って救いを与えてくださいます。どうか、あなたの良き御旨を私たちに信じさせてくださり、どのような困難がありましても、あなたに希望を持つことができるように、いつも主イエスと共におらせてください。そして、身近にある人々にも愛を尽くして仕えることで、あなたの御旨を果たさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。