はじめに
『ヨナ書』は12小預言書の中にあって異彩を放っている書物です。預言書に分類されていますが、ヨナが語った預言が中心にあるのではなく、預言者ヨナと神との対話を中心にした異邦人宣教を題材にした物語です。書物の全体から私たちに知らされるメッセージは、異邦人にも広げられた創造主なる神の憐れみです。しかし、その主題に辿り着くまでに周到に用意されている筋立ては、ヨナの立ち居振る舞いを通して預言者たるものの姿勢を問いただす預言者論となっています。もしかすると、このメッセージが差し向けられたのは、若い預言者のグループであったのかも知れません。
キリスト教会にとってこの書物が持つ意義の一つは、新約聖書で主イエスが度々ここに記された「ヨナのしるし」について触れていることにあります。『マタイによる福音書』で、12章39節と16章4節の2カ所に出て来ます。ヨナのしるしとは、ヨナが魚の腹の中から蘇ってニネベに宣教したところ、都の住民が悔い改めて滅びを免れた、ということで、それがイエス・キリストの復活と異邦人の悔い改めを予め示していることを表します。『ヨナ書』を丁寧に学ぶことは、主イエスの言葉の背景を知ることになり、旧約から新約へと貫く神の御旨を確かめる手だてとなります。
また、『ヨナ書』には様々な副題が用意されています。預言者とは何者なのか。神の言葉はどのようにして神の言葉として人に伝えられるのか。出来るだけ本文からその都度のメッセージを汲み上げて、この書物を通して知らされる神の御旨に近づきたいと思います。
イスラエルの預言者ヨナ
「ヨナは預言者、おかしな預言者」という子どもの歌がありますけれども、問題は、本当にヨナは預言者なのか、ということです。これは『ヨナ書』が本当に預言書なのか、という書物に関する問いとも結びつきます。けれども、ヨナの素性について本書はあまり関心を払っていない様子です。1節で「アミタイの子ヨナ」という名前だけが紹介されています。
「アミタイの子ヨナ」という人物については、他の書物から若干の情報が得られます。『列王記下』14章25節に、北イスラエル王国をヤロブアム二世が統治する時代に、神はアミタイの子ヨナを通して御言葉を与えられ、王はソロモンの時代に匹敵する領土を再び取り戻したことが記されています。そこでヨナの出身地が、「ガト・ヘフェル」と言われていますが、これはナザレの北東にある近隣の町です。
紀元前8世紀の半ばに登場したアミタイの子ヨナは、しかし、『ヨナ書』のモデルとなった人物に過ぎないようです。ヨナが派遣されることになる二ネヴェの都は、イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた後の王によって首都になりました。また、『ヨナ書』では都が悔い改めて滅びを免れたことになっていますが、紀元前7世紀の終わり頃にバビロニアによって滅ぼされています。おそらく、『ヨナ書』はこの実在の人物をモデルにしながら、イスラエルの信仰と預言者の在り方とを問うために記された、信仰教育のための書物です。
ヨナという名前にも一言触れておきたいと思います。ヨナとは鳩のことです。旧約聖書で鳩と言えば、洪水を免れた箱船から飛び立って、オリーブの葉をくわえて戻って来て、神の裁きの終わりを告げた、後に平和の象徴とされた鳥です。また『レビ記』にありますように、イスラエルでは罪の赦しのために祭壇でささげられる犠牲にも用いられました。さらに『ホセア書』7章では、鳩は愚かで悟りが無い鳥だと紹介されています。そのような鳩のイメージとこの書物に表される預言者ヨナのイメージには幾らか共通するものがあります。
神からの逃亡
さて、『ヨナ書』のヨナは本当に預言者なのかという点ですが、これは今日の1節からして明らかです。
主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
これは旧約の預言者たちが主なる神から託宣をいただく時の決まった言い方で、『エレミヤ書』や『エゼキエル書』に顕著です。ヨナが「主の言葉」を受け取ったことには何の疑問もありません。そして、預言者ヨナに臨んだ言葉は次のようなものでした。
さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。
ニネベが大きな都であることが繰り返し強調されます。その大きさが示唆するのは人間の繁栄する様子ですが、聖書では時に大きな都はソドムとゴモラのように神の裁きの対象となります。大きいのは都の規模だけではなく、神の目に映った悪が大きいことを表します。
ヨナはこうして主の派遣命令を受け取ったのですが、直ちに主の御前から逃亡を計りました。『新共同訳』では「主から逃れようとして」とさらっと翻訳していますが、ここは『新改訳』や他の訳がしているように、「主の御前から」もしくは「主の御顔を避けて」とした方がよいでしょう。何故、逃げたのかは分かりません。ただ、逃げてゆく方向から、ヨナが神から遠ざかって行く様子がうかがえます。タルシシュは地中海の西の果てに当たるスペインだと今日は考えられています。カルタゴだとの説もありますが、貴金属の豊富な産地として通商が盛んだったのはイベリア半島だと言います。タルシシュ行きの船については聖書に豊富な事例があります。ただ、その航海は困難で、難破の危険を覚悟の上での船旅だったようです。『歴代誌下』20章36節によれば、ヨシャファトの時代に主がタルシシュ行きの船団を難破させたという記述も見られます。
ともかく、ヨナは主が示されたニネベとは正反対の方向へ出発します。「人々に紛れ込んで」とあるところは誤解が無ければよいのですが、この後分かりますように船の乗組員たちは異邦人たちで、ヨナは彼らと一緒になって主の御前から遠ざかって行こうとした、ということです。しかし、預言者が神の御手から逃れることなど出来ない相談でした。
神は創造主ですから、自然をも御自身の僕として操るお方です。主は大風を海に「投げつけ」ます。すると、海は大時化となって船は難破しそうになります。船員たちは恐れ戦いて各々自分の神に呼ばわります。彼らは異教徒たちであることがここから分かります。預言者エゼキエルは、かつてタルシシュの船に対する主の裁きを次のように告げました。
タルシシュの船はお前の物品を運び回った。お前は荷を重く積み/海の真ん中を進んだ。漕 ぎ手がお前を大海原に漕ぎ出したが/東風がお前を打ち砕いた/海の真ん中で。お前の富、商品、物品、船乗り、水夫、水漏れを繕う者、物品を交換する者、船上のすべての戦士、すべての乗組員たちは、お前が滅びる日に海の真ん中に沈む。(27章25〜27節)
また、預言者エレミヤは異教の神々を頼りとすることが虚しいことを次のように告げています。
ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいていた神々のところに行って助けを求めるが、災いがふりかかるとき、神々は彼らを救うことができない。(11章11節)
船員たちの恐怖とは対照的に、ヨナはと言えば、船底にまで下って行って眠っていました。しかし、神の御顔を逃れて下ったヨナのことですから、助けを祈ることもせず、異教徒である彼らとともに海の藻くずとなる覚悟であったのかも知れません。一方、船長を初めとする船員たちは生き残るために必死です。彼らには真剣な信心がありました。嵐は裁きと受け止められました。犯人探しが始まって、くじは見事にヨナを当てます。すべてが神の計らいのもとにあることを知っているヨナは、9節で身分を明かしていますが、その言葉の内に力ある真の神が表明されます。
わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。
ヨナが主の御前から逃亡したことが難破する危険を招いたことを知った人々は、「非常に恐れ」ました。これは、船員たちが恐れて自分の神に呼ばわった場合の恐れを強調した表現です。彼らはヨナの告白を聞いて、真の神の裁きを心底恐れたのでした。
皆の命を救う方法はヨナが知っていました。自分が裁きを受ければよいのです。自分を海に放り込めば嵐は収まると、彼は船員たちに告げました。異教徒である船員たちは、それに初めは賛同しませんでした。しかし、万策尽きて、彼らはもはや彼らの神々にではなく、主に向かって叫びます。
ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって攻めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。
ヨナの言葉を信じた船員たちは、ヨナの命運をも主に託して、彼が告げた通り、彼を海の中に投げ込みました。すると、嵐は静まり、船は命を取り留めました。16節にある最後の言葉は、船にいた人々の主なる神への信仰を語っています。いけにえをささげ誓いを立てるのは、律法に命じられている正しい礼拝の仕方です。
ヨナは神に背いて裁きを身に招きました。彼の身柄は海の藻くずと消えました。ここにある一つの示唆は、預言者には神に逆らうことのできる、ある自由があるということです。中にはヨナのように神の御前を逃れて、その働きを拒否する者も出て来ます。預言者は神の言葉を伝える器だとはいえ、機械ではなく人間です。ヨナは決して不信仰に陥ったのではありませんでした。真の神を知っていて、その御前から逃れようとしました。預言者に求められるのは、その自由を徹底して神に服従させることでした。
ヨナに与えられた最初の教訓は、神に召された自分が背いてしまうのならば、神の裁きから異邦人たちは逃れることができない、ということでした。実際には、ヨナは神の御手から逃れることはできません。世界をお造りになった神の御前から逃れうる者は誰もいません。逃げに逃げ、降りに降って船底へたどり着いたヨナでしたが、最後は海の底にまで下ってゆくことになりました。そうしたヨナが裁きを一人で負うことは仕方の無いことかも知れません。ただ、タルシシュ行きの船がヨナのために災いに巻き込まれた時、ヨナは彼らのために自分が死ぬことを厭いませんでした。異邦人たちの船が難破させられるのは神の裁きに相応しいことかも知れません。しかし、ヨナは自分の罪に対する罰に、人々を巻き込むことを潔しとせず、自分の命を神に委ねて、人々の命を救うために海に投げ込まれました。これは、預言者として正しいことであったに違いありません。
そして、最後に、この1章で告げられているのは、ヨナの意図には関わらず、嵐の中で異教徒たちが真の神の力を知り、悔い改めて主への信仰に目覚めたことでした。ヨナの逃亡は神の御旨には適わないことに違いはありませんけれども、神のご計画は人の思わぬところに隠されていて、救いは神の目的にかなって成就されます。ヨナは海に沈みました。しかし、船は只生き延びたのではなく、真の信仰に目覚めて神に立ち返りました。神の預言者は、自らの自由な同意をもって神の働きに従事します。そこで、神に背けば自分の身に裁きをも負う覚悟で召しに従うことが求められます。そうであるならば、神の言葉が正しく伝わるかどうかも人間次第だというになります。けれども、たとえ預言者がどんなに拙い働きしかしなくとも、神の働きはけっして妨げられることがない。神の言葉の作用は人間業ではない、ということを、『ヨナ書』はまず語ります。ヨナは異教徒たちの間に使わされた確かな「しるし」です。それは、力ある真の神がその者と共におられることを表します。このしるしを通して神の救いが実現されます。私たちひとり一人もこのヨナのしるしをいただいていることを覚えて、日々の生活の中で主を恐れるものでありたいと願います。
祈り
天の御神、あなたは私たちのような小さな人間を用いて、御自身の救いを伝えるお働きをなさいます。どうか、私たちがあなたに忠実に従うことができるように、聖書を通じて御旨を教えてください。それでも私たちの拙さによらず、あなたは御自身の救いを私たちの周囲にもたらしてくださいます。主イエスの証人としての生活を日々送ることができるように、聖霊をお送りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。